第2章5話:夏の始まり、そして地域との絆
由那学園の定期演奏会で受けた衝撃は、安中榛名高校吹奏楽部の部員たちの心に、深く、そして明確な爪痕を残した。しかし、部長である鳴瀬友理の力強い言葉と、顧問の佐々木梓先生の温かい見守りのもと、その衝撃は絶望ではなく、未来への強大な推進力へと変わっていった。
部室の壁に掲げられた「めざせ!全国大会ゴールド金賞」の文字は、もはや単なる目標ではなく、具体的な到達点として、部員たちの目に焼き付いていた。
新年度が始まり、総勢 82 名となった部活は、かつてないほどの活気に満ちていた。特に、 コンクールメンバー選出に向けた練習は、日を追うごとにその厳しさを増していく。
友理は、 部長として、またホルンパートのリーダーとして、部全体の音を一つにまとめる重責を担っ ていた。彼女のホルンから紡ぎ出される音色は、由那学園の完璧な演奏を耳にしてから、さ らに深みを増し、安中榛名らしい温かさを保ちながらも、確かな説得力を持ち始めていた。
副部長の高峰春菜は、持ち前の明るさと天性のリーダーシップで、部のムードメーカーと して部員たちを鼓舞した。彼女のトランペットは、友理のホルンと見事なハーモニーを奏で、 部全体の響きをさらに豊かにしていた。
もう一人の副部長、三枝勇吉は、眼鏡の奥に隠され たクールな眼差しで部全体を俯瞰し、友理の決断を冷静かつ的確にサポートした。クラリネ ットパートのパートリーダーとしても、彼の厳しくも合理的な指導は、パート全体の演奏精 度を飛躍的に向上させた。部員たちに「勇者さま」と揶揄されるその古風な名前も、今や彼 の冷静沈着なキャラクターを象徴する愛称となっていた。
音羽杏菜は、由那学園のクラリネットの完璧な音色に打ちのめされた悔しさをバネに、日々 の基礎練習に一層の時間を費やした。彼女は、楓という新たなクラリネットの後輩ができた ことで、先輩としての責任感も芽生え、自らの演奏を見つめ直す良い機会を得ていた。
新入部員の木村 楓は、その高い技術力で周囲を驚かせた。彼女は、友理が中学時代を過ご した吹奏楽部の後輩で、友理のホルンの音色に深く感銘を受け、わざわざ親戚を頼って安中 榛名高校に入学してきた。しかし、全国大会常連校という前の中学で培われた彼女のクラリ ネットの音色は、時に硬質で、技術に偏りがちだった。由那学園の演奏を目の当たりにした ことで、楓は自分の「音楽的な表現」の課題を痛感する。杏菜と共に、楽器をただ正確に演 奏するだけでなく、心で歌い、感情を込めて音を紡ぐことの重要性を学び始めていた。友理 の「生き生きとした音」を目指すという言葉は、楓にとって、自身の音楽を見つめ直す大き なきっかけとなっていた。
部員たちは、由那学園の演奏を何度も聴き返し、細部にわたるまで徹底的に分析した。
楽譜の解釈、各楽器の音色のブレンド、ダイナミクスの付け方、そして何よりも、彼らが音楽に込める「魂」のようなもの。それは、単なる技術の模倣ではなく、安中榛名高校吹奏楽部として、いかに自分たちの個性を出しながら、由那学園の「高み」に到達するかという、音楽の本質を深く追求する作業でもあった。部活の休憩時間には、学年やパートの垣根を越えて、真剣な議論が交わされるようになった。
「あの由那学園のトランペットの入り、まるで雷鳴みたいだったよな!」
「クラリネットのソロ、息遣いまで聴こえるくらい繊細だった......」
「うちのホルンパートも、もっとハーモニーの密度を上げなきゃだね」
部員一人ひとりが、由那学園の演奏から得た刺激を胸に、自身の課題と向き合い、克服しようと努めた。夏のコンクールが近づくにつれ、練習は一層熱を帯び、部員たちの顔には、疲労の色よりも、目標に向かって進む充実感が満ち溢れていた。
安中榛名高校吹奏楽部の活躍は、学校の中だけでなく、地域の人々の間でも大きな話題となっていた。昨年、関東大会に初出場したことで、地元紙やテレビでも取り上げられる機会が増え、地域住民の期待は日ごとに高まっていた。
商店街では、吹奏楽部のコンクールポスターが至るところに貼られ、道行く人々が足を止 めて見入っていた。
部員たちが練習着で道を歩いていると、店のおじさんやおばさん、通行 人から「頑張ってね!」「応援してるよ!」と温かい声がかけられた。部員たちは、地域の温 かい応援を肌で感じ、それが日々の練習の大きな原動力となっていた。
地域の様々なイベントやお祭りへの招待演奏も増えた。春の桜祭り、初夏の蛍祭り、地域の交流イベントなど、部員たちは積極的に参加し、その度に多くの観客を魅了した。
屋外での演奏は、ホールとは異なる難しさがあったが、観客の笑顔や手拍子に直接触れることで、部員たちは音楽がもたらす喜びを改めて実感した。
「安中榛名高校の吹奏楽部のおかげで、町が明るくなったねぇ」
「そうだね。子供たちが生き生きしてるのを見ると、こっちまで元気をもらえるよ。昔の町を思い出すよ」
そんな声が、町のあちこちで聞かれるようになった。吹奏楽部は、単なる学校の部活動という枠を超え、地域の誇り、そして活性化の象徴となりつつあった。部員たちは、自分たちの演奏が、地域にこんなにも影響を与えていることに、誇りと喜びを感じていた。
ある日の夕方、部活を終えて帰路についていた友理は、駅前の広場で、見慣れた後ろ姿を 見つけた。白髪交じりの頭に、背筋を伸ばしたその姿は、間違いなく友理の祖父、鳴瀬 健一 郎だった。
健一郎は、広場のベンチに座り、スマートフォンで何か を熱心に見ているようだった。
「おじいちゃん?こんなところで何してるの?」
友理が声をかけると、健一郎は驚いたように振り返った。
「おお、友理か。いや、ちょっと調べ物をしていてな」
健一郎は、少し照れたように言った。彼のスマホの画面には、群馬県内で開催される様々な音楽イベントのウェブサイトが表示されていた。
その中に、「伊香保音楽祭」 という文字 が大きく表示されているのが、友理の目にもはっきりと留まった。
「伊香保音楽祭?それって、毎年やってる、結構大きな音楽イベントだよね?オーケストラの演奏とかもあって」
友理が尋ねると、健一郎は頷いた。
「うむ。地域の活性化にも一役買っていると聞く。音楽の力で、地域を盛り上げる...... 面白いものだ」
健一郎は、遠くを見つめるような目で、何かを深く考えているようだった。 彼の表情は、単なる興味ではなく、どこか確信めいたものを秘めているように友理には見えた。
友理は、祖父の言葉に少し驚いた。健一郎が、音楽祭や地域おこしにこれほど具体的に興味を持っているとは、これまで知らなかったからだ。この時、友理はまだ、祖父がかつて由那学園の顧問、藤堂雅也の師であったことを知らない。そして、この偶然の出会いと祖父の思索が、夏のコンクール後の定期演奏会を経て、安中榛名高校吹奏楽部と地域を結びつける
大きな「地域おこし」のプロジェクトへと発展していくことなど、知る由もなかった。
夏のコンクールに向けて、部員たちの練習は佳境に入っていた。そして、その裏では、吹奏楽部を温かく応援する地域の人々の眼差しと、友理の祖父の新たな思索が、静かに、しかし確実に動き始めていた。




