第1章23話:梓の過去、そして未来へ
安中榛名高校吹奏楽部が県大会ゴールド金賞、そして初の関東大会代表という快挙を成し遂げた夜、顧問の佐々木梓は、自宅で一人、静かにワイングラスを傾けていた。
喜びと安堵、そして未来への期待が入り混じった感情が、彼女の胸を満たしていた。部員 たちの歓喜に沸く顔、特に鳴瀬友理の輝かしい演奏、そして高峰春菜の力強いトランペット、 さらには舞台袖で友人たちを応援する音羽杏菜の姿が、次々と脳裏に浮かんだ。
(本当に、よくやったわ、みんな......)
梓は、遠い昔の自分を思い出していた。彼女の母校は、群馬大学教養学部音楽専攻。幼い頃から、ピアノの英才教育を受けてきた。高校時代は、毎日のようにピアノのレッスンと練習に追われる日々。全国規模のコンクールにも出場し、将来はピアニストになるのが当然だと信じて疑わなかった。しかし、その一方で、彼女の心の中には、密かな憧れがあった。
それは、吹奏楽だ。
高校の体育館で耳にした吹奏楽部の音。
大人数で一つの音楽を創り上げる迫力、様々な楽器の音が織りなす色彩豊かなハーモニーに、梓は強く惹かれた。いつか、自分もあの舞台に立ち、仲間と楽器を演奏してみたい。そんな気持ちが胸の中にあったが、ピアノに専念する
生活の中で、その夢を口にすることはできなかった。彼女の生活は、常にピアノが中心であり、他のことへと目を向ける余裕はなかったのだ。
大学に入学し、ピアノの練習は続けたものの、高校までのような切迫感は薄れていた。そんなある年、梓は友人たちと伊香保音楽祭を訪れた。そこで彼女が聴いたのは、地元のホールで特別公演として開かれていたオーケストラの演奏だった。
弦楽器、管楽器、打楽器が一体となって奏でる、圧倒的な音の洪水。その瞬間、高校時代に胸に秘めていた吹奏楽への熱が、まるで堰を切ったかのように、再び梓の心に流れ込んできた。
(そうだ、私が本当にやりたかったのは、これだ......!)
オーケストラを指揮する指揮者の姿は、梓の目に強く焼き付いた。彼のタクト一本で、全く異なる楽器の音色が、一つの生き物のように蠢き、感情豊かな音楽を紡ぎ出す。
その姿は、まるで魔法使いのようだった。
梓は、音楽を演奏する喜びだけでなく、多様な音をまとめ上げ、一つの作品を創り出す「指 揮」 という行為に、深い魅力を感じたのだ。
その演奏会後、梓は勇気を出して、その指揮者に話しかけに行った。その指揮者こそが、 後に彼女の人生を大きく変えることになる五十嵐雅人だった。五十嵐は、 若く才能に溢れる梓の情熱を見抜き、彼女のメンターとなることを承諾してくれた。五十嵐 の指導のもと、梓はピアノの練習と並行して、管弦楽法や指揮法を本格的に学び始めた。
卒業後は、高校の音楽科教員として教壇に立ち、念願だった吹奏楽部の顧問となった。彼女が目指したのは、単に楽器を教える教師ではない。生徒たちの個性豊かな音を引き出し、彼らが音楽を通して成長し、最高のハーモニーを奏でられるよう導く「指揮者」としての役割だった。
安中榛名高校吹奏楽部に赴任して数年。彼女は、生徒たちと共に、数々の困難を乗り越えてきた。昨年の「ダメ金」の悔しさも、梓自身の過去の挫折と重なり、生徒たちに同じ思いをさせたくないという強い原動力になっていた。
特に、今年入部した鳴瀬友理の存在は、梓の心に複雑な感情をもたらしていた。友理の父親である鳴瀬啓介。彼は、梓が高校生の頃に、同じ地域のライバル校でホルンを吹いていた「天才」だった。彼の圧倒的な才能と、その音色が周囲にもたらす影響を、梓は肌で知っていた。
啓介は、音楽の道を志したが、様々な事情でプロの道に進めなかった。だからこそ、友理が才能を伸び伸びと発揮できる環境を整え、彼女に最高の音楽経験をさせてあげたいという思いが、梓の胸には人一倍強くあった。
(啓介くん、あなたの娘さんは、本当に素晴らしい音楽家だわ......)
グラスの中のワインが、月の光を反射してきらめく。梓の心は、過去の憧れと挫折、そして今、目の前で輝く生徒たちの姿によって満たされていた。
関東大会への出場決定は、安中榛名高校吹奏楽部にとって、新たな歴史の始まりだ。そして、梓にとって、それは自身の音楽人生の集大成でもあった。彼女は、タクトを握る右手に、 確かな重みを感じていた。
「さあ、関東大会に向けて、もっともっと頑張るわよ......!」
梓は、静かにグラスを置き、決意を新たにした。彼女の指揮の下、安中榛名高校吹奏楽部は、さらに高みを目指して進んでいくのだ。




