第1章1話:杏菜
安中榛名高校の入学式当日、真新しい体育館のフロアは期待と不安の入り混じった新入生
の熱気で満ちていた。
ざわめく声の波に、音羽杏菜は小さく息をのむ。
入学式が始まる前、クラス分けの掲示板の前で起きた偶然の出会いを思い出していた。
まだ登校途中のことだった。校門をくぐり、クラス発表の掲示板へと向かう人の波に流さ
れながら、杏菜は自分の名前を探していた。人が多く、なかなか前へ進めない。その時、後
ろから勢いよく来た誰かとぶつかり、杏菜はよろけてしまった。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて振り返ると、ぶつかってきたのは杏菜と同じ真新しい制服を着た女子生徒だった。
彼女は杏菜に深々と頭を下げると、散らばった荷物を拾い始めた。
杏菜も手伝おうと屈んだ瞬間、地面に落ちた数枚の紙の中に、見慣れた楽器のイラストと「吹奏楽部 新入部員大募 集!」の文字が目に飛び込んできた。
杏菜の胸が、小さく高鳴る。
「もしかして、吹奏楽部に入部希望?」
思わず声が出た。その女子生徒は、少し驚いたように顔を上げ、手に持っていたチラシを杏菜に見せた。
「うん!私、高峰春菜っていうの。中学でトランペット吹いてたんだ。君も?」
「私、音羽杏菜!中学には吹奏楽部がなくて、高校で絶対入りたいと思ってたんだ!クラリネット希望なんだ!」
安中中学校出身の杏菜と、榛名中学校出身の春菜。住む地域は近いが中学は別々だった二
人だが、お互いの名前と吹奏楽への熱意を知った途端、まるで昔からの親友だったかのように打ち解けた。
「じゃあ、入学式終わったら、一緒に部活動紹介見に行こうね!」
春菜の屈託のない笑顔に、杏菜の胸に抱えていた不安が少し和らいだ。
こうして、二人は入学式が始まるまでの間も、吹奏楽部の話で盛り上がったのだった。
入学式後の新入生歓迎の部活動紹介。体育館のステージでは、各部活動が趣向を凝らした発表を繰り広げている。野球部の雄叫び、サッカー部のリフティング、バスケットボール部のドリブル音。どれもが力強く、活気に満ちていた。そして、いよいよ吹奏楽部の出番が来た。
部員たちのテキパキとした楽器だしやセッティング、その姿だけ見ても杏菜にとっては憧れの姿だ。
会場の照明が落ち、静寂が訪れる。
スポットライトがステージ中央に集まると、鮮やかなユニフォームを身につけた先輩たちが現れた。
指揮者の合図とともに、まずフルートの澄んだ音が体育館いっぱいに広がる。続いて、クラリネットの温かい響きがそれに重なり、オーボエ、ファゴットと、次々に木管楽器が奏でるハーモニーが織りなされていく。
杏菜は息をすることを忘れ、ただただその音に聴き入った。
やがて、トランペットの華やかなファンファーレが鳴り響き、トロンボーン、ホルン、チューバと金管楽器の重厚な音色が加わる。パーカッションのリズムが全体を引き締め、体育館全体が壮大な音楽の渦に包まれた。
その瞬間、杏菜の胸には、これまで感じたことのない高揚感が込み上げてきた。
これが、自分が求めていた音だ。この音を、自分も奏でたい。舞台上のクラリネットを吹く先輩の姿が、杏菜の目に焼き付いた。
隣の春菜も、瞳を輝かせながらステージを見つめている。
彼女の視線が、トランペットの先輩に釘付けになっているのが分かった。
春菜は中学の吹奏楽部で副部長を務めたといっていた。既にトランペットを上手に吹いているだろうし、その実力は、新入生の中でも抜きん出ているはずだ。
部活動紹介が終わり、体育館は再びざわめきに包まれた。
多くの新入生が、熱気を帯びた まま各ブースへと向かっていく。
杏菜と春菜も、迷うことなく吹奏楽部のブースを目指した。 ブースには、すでに数人の新入生が集まっていた。
その中に、ひときわ目を引く、落ち着いた雰囲気の女子生徒がいた。彼女もまた、吹奏楽部のブースに興味があるようだ。
「すごい迫力だったね!やっぱり吹奏楽部に入りたい!」春菜が興奮気味に言った。
「うん、私も。絶対、クラリネットやりたいな」杏菜も、これからの高校生活への期待に胸
を膨らませていた。
ブースでは、部長らしき先輩が笑顔で迎えてくれた。
入部届に名前を書きながら、杏菜はちらりと春菜を見た。春菜も夢中で入部届を記入している。
「音羽杏菜です」 「高峰春菜です」 二人の声が重なった。
その時、後ろからひそひそ声が聞こえてきた。
「おい、安中中と榛名中のコンビだぜ」 「杏菜か」、「春菜」
耳慣れたフレーズに、二人は思わず顔を見合わせた。
特に杏菜は、中学時代に自分の学校名である「安中」と絡めて「杏菜か」と揶揄われていたことがあり、そのたびに胸の奥がチクリと痛んだ。
高校に入っても、やっぱり名前のことでからかわれるのか――。
特に、安中中学校出身の部員は、吹奏楽部の中ではどこか肩身が狭い思いをしていると聞いていた。
榛名中学校出身の部員の方が、人数も多く、部活動でも中心になっていると噂されていたからだ。
杏菜は少しだけ俯いた。春菜も、一瞬だけ表情を曇らせたのが見えた。
その時、二人のすぐ隣に立っていた女子生徒が、すっと前に出た。
「あのさ、人の名前をからかうの、やめた方がいいんじゃない?」
凛とした声が、ひそひそ話していた男子生徒たちに届いた。彼らは一瞬ひるみ、気まずそうに顔を見合わせると、やがて何も言わずにその場を離れていった。
「大丈夫?」
声をかけてきたのは、先ほどからブースにいた、入部を希望しているらしい女子生徒だった。
彼女の瞳はまっすぐで、杏菜と春菜を心配そうに見つめている。
「あ、うん。ありがとう」杏菜は驚きながらも、思わず礼を言った。
「わざわざ、ありがとうね」春菜も笑顔で続いた。
「どういたしまして。私も、そういうの嫌いだから」
彼女はそう言うと、微笑んだ。その笑顔は、どこか安心感を与えてくれるものだった。
「私、鳴瀬友理。ホルン希望なんだ」自己紹介をすると、二人は目を丸く した。
「私、音羽杏菜。クラリネット希望」
「私は高峰春菜。トランペット希望だよ」
友理と名乗った彼女は、杏菜や春菜の名前をからかうような素振りは一切見せない。むしろ、興味深そうに顔を見つめている。
「音羽さんと高峰さんか。私も、吹奏楽の演奏が気になってここに来たの」
友理の言葉に、杏菜は少し驚いたような顔を見せ、春菜は興味深そうに目を輝かせた。
部活動開始
「今日から、君たちもこの安中榛名高校吹奏楽部の一員だ。まずは各自、希望パートの先
輩のところへ行って、挨拶をしてくれ!そして、基礎練習から始めていこう!」
大橋拓真部長の力強い言葉に促され、新入生たちはそれぞれの楽器のグループへと散らばっていく。
杏菜は、クラリネットの先輩たちの元へと向かった。
隣の春菜も、トランペットパートの先輩たちの方へ足を進めている。
その中には、入部届の時に杏菜と春菜をからかった 2 人の男子生徒の姿もあった。
1 人目 の後藤謙一郎は安中中学校出身でパーカッション希望。もう 1 人の安原亨は榛名中学校出身 でアルトサックス希望だ。亨は中学校で吹奏楽をやっており、塾の友達である謙一郎を誘っ て入部したと聞いた。
彼らが、まさか同じ吹奏楽部に入部するとは思ってもみなかった杏菜 は、少しだけ複雑な気持ちになった。
こうして、杏菜の新しい高校生活が、期待に胸を膨らませて始まった。




