第1章18話:コンクール曲の発表
新入部員たちが部活に慣れ始め、それぞれのペースで練習に励む中、安中榛名高校吹奏楽部にとって、新たな目標が設定される日が来た。それは、夏の県吹奏楽コンクールに向けた課題曲と自由曲の発表だ。
顧問の佐々木梓先生は、部員全員を部室に集め、その緊張感に満ちた空気を一掃するように、笑顔で口を開いた。
「さあ、みんな、いよいよ夏コンの曲を発表するわ。今年も全国を目指して、最高の演奏をしましょう!」
部員たちの間に、ざわめきと、期待に満ちた空気が広がった。特に三年生たちは、昨年の 「ダメ金」(県大会金賞だが代表にはなれなかった)の悔しさを胸に、今年こそはという強い 決意を秘めていた。
梓先生は、ホワイトボードに二つの曲名を書き出した。
一つは、毎年全国共通で演奏される課題曲。今年は、若手作曲家による、躍動感あふれるマーチだった。
そしてもう一つ、部員たちの心を最も惹きつけたのは、自由曲だ。そこに書かれていたの は、『鳳凰の舞』という曲名だった。
「自由曲の『鳳凰の舞』は、和の要素を取り入れた壮大な曲よ。静かで叙情的な部分と、激しく舞い上がるような情熱的な部分が対比されていて、演奏者の表現力が問われるわ。特に、ホルンのソロが非常に印象的なの」
梓先生の言葉に、部員たちの視線が一斉にホルンパート、そして鳴瀬友理に集中した。友理は、少し照れたように俯いたが、その表情には、この難曲に挑戦できることへの期待が明確に表れていた。部全体が、友理のホルンに、大きな期待を寄せていることがひしひしと伝わってきた。
曲が発表され、それぞれのパートに楽譜が配られると、部員たちは一斉に譜面を読み始めた。特に、新しい曲に触れることに飢えていた友理は、楽譜を食い入るように見つめ、すぐに頭の中で音を組み立て始めているようだった。
高峰春菜も、トランペットのパート譜を手に、難しそうなフレーズを指で追いながら、真剣な表情をしていた。
そんな中、音羽杏菜は、渡されたクラリネットのパート譜を前に、途方に暮れていた。複雑なリズム、今まで見たことのない記号、そして高速なパッセージ。それは、これまで練習してきた基礎練習の延長線上にあるとは思えない、あまりにも高い壁のように見えた。
(うそ......こんなの、私に吹けるわけないよ......)
杏菜の目には、楽譜の音符がまるで暗号のように見えた。まだ簡単な音階でさえ不安定な自分にとって、この曲は宇宙語のようなものだ。周りの先輩たちは、すでに指を動かし、軽く音を出してフレーズをなぞっている。同じ新入生である春菜や友理も、難しそうではあるものの、明らかに自分とはレベルの違う場所で楽譜と格闘しているのが分かった。
杏菜は、震える手でクラリネットを組み立て、リードを湿らせた。そして、恐る恐る最初の音を出す。しかし、情けない「プー」という音が鳴るだけで、隣で先輩が流れるように演奏する音とは、似ても似つかないものだった。
「......っ」
焦りと絶望が、杏菜の胸に込み上げてくる。自分は、この部の足かせになるのではないか。 そんな思いが、再び彼女の心を蝕み始めた。
その時、横からそっと手が伸びてきて、杏菜の譜面台の楽譜を指差した。
「ここ、ちょっと難しいよね。特にこのリズム」
振り向くと、そこに立っていたのは、トランペットのパート譜を手にしながらも、杏菜の様子を気にかけていた春菜だった。春菜の顔には、杏菜の焦りを理解するような、優しい表情が浮かんでいた。
「た、高峰さん......」杏菜は、思わず声を詰まらせた。
「春菜でいいよ。私も最初の頃はこんな難しい楽譜、全然読めなかったよ」春菜は、にっこ りと微笑んだ。
「特に、吹奏楽部のない中学から来たなら、もっと大変だよね。無理もないよ」
その言葉に、杏菜は少しだけ気持ちが楽になった。春菜が、自分の状況を理解してくれていることが嬉しかった。
「でも、春菜ちゃんは、もうこんなに上手で......」
杏菜は、春菜のパート譜を指差した。そこには、杏菜の楽譜よりもはるかに複雑なフレーズが並んでいる。
「これでも、まだまだだよ。友理ちゃんの音とか、拓真先輩の音を聞いてると、もっともっと練習しなきゃって思うもん。でもね、焦る必要はないんだよ、杏菜」
春菜は、杏菜のクラリネットをそっと持ち上げ、指の位置を直してくれた。
「初めて楽器を触る杏菜には、杏菜にしかできないことがあるんだよ。最初はみんな、音 を出すので精一杯なんだから、比べなくていい。お母さんも言ってたんだけど、『才能を持つ 人から学ぶ』って大事なんだって。友理ちゃんのホルンを聞くたびに、私、鳥肌が立つもん。 杏菜も、素直に友理ちゃんや先輩たちの音を『すごい!』って感動して、自分もそうなりた いって思う気持ちを大切にしたらいいんだよ」
春菜の言葉は、杏菜の心に温かく響いた。それは、先日母から言われた言葉と重なり、杏菜に大きな勇気を与えてくれた。
「そしてね、杏菜。今は、音を出すこと、楽譜を読むこと、一つずつでいいの。私たちが隣にいるから、分からないことがあったら、何でも聞いて。何度でも教えるから。杏菜は、この部にとって、大切なクラリネット奏者なんだから」
春菜は、杏菜の肩をポンと叩いた。その言葉は、杏菜の胸に、温かい光を灯した。自分は一人じゃない。焦らず、一歩ずつ進んでいけばいい。先輩たちも、そして春菜も、自分を支えてくれる。
「うん......私、頑張る!」
杏菜の瞳に、再び強い光が宿った。
その日の練習は、一気に熱を帯びた。友理は、早速『鳳凰の舞』のホルンソロ部分を完璧に吹きこなし、部員たちから感嘆の声が上がった。
その音は、まさに鳳凰が天高く舞い上がるかのような、壮麗さと力強さを兼ね備えていた。友理自身も、この曲を演奏できることに喜びを感じているのが見て取れた。彼女の存在は、部全体にとって、最高のモチベーションとなった。
県大会のコンクール曲が発表され、安中榛名高校吹奏楽部は、新たな目標に向かって一丸となる。昨年達成できなかった「代表」の座。今年は、友理という強力な戦力を加え、そして部員一人ひとりが、それぞれの課題と向き合い、高め合っていくことで、きっとその夢を掴み取れるはずだ。




