第1章17話:杏菜の努力と戸惑い
鳴瀬友理との対話を経て、安中榛名高校吹奏楽部の空気は少しずつ変わり始めていた。
友理は、顧問の佐々木梓先生、部長の大橋拓真、副部長の緑川紗希、そしてホルンパートリーダーの松本悠人の言葉を受け入れ、パート練習では以前よりも積極的に先輩たちにアドバイスを送るようになった。
時には自分の練習を中断して、同級生や二年生の先輩たちの指の形を直したり、息の入れ方を丁寧に教えたりする姿も見られた。友理の圧倒的な実力は、もはや「壁」ではなく、皆の「目標」へと変化しつつあった。彼女の音に引っ張られるように、ホルンパート全体の音が、わずかではあるが確実に安定し、響きを増していくのが感じられ
た。
そんな部内の変化を、音羽杏菜は、一番近くで感じていた。友理と先輩たちの間の緊張が少しずつほぐれていく様子を見て、杏菜は心底安堵した。自分も、友理や高峰春菜のように、 早く皆の役に立ちたい。その一心で、杏菜はこれまで以上に練習に打ち込んだ。
そしてマイ楽器を両親から買ってもらう事でより一層力が入る。
部活の朝練は誰よりも早く部室に行き、放課後練習では居残って自主練に励んだ。クラリ ネットの組み立て方、リードの湿らせ方、アンブシュアの形、タンギングのコツ。先輩たち に言われたことを一つも聞き漏らすまいと、必死にメモを取り、家に帰ってからもそれを読 み返し、何度も復習した。指はまだぎこちなく、楽譜を追う目も追いつかない。音階練習で は、一つの音を出すだけでも集中力を要し、指を動かせば音が途切れたり、かすれたりした。 だが、それでも諦めなかった。
(みんなみたいに、綺麗な音を出したい。春菜みたいに、自信を持って音を届けたい。友理ちゃんみたいに、魂を揺さぶるような音を奏でたい)
友理のホルン、春菜のトランペット。彼女たちの音を聴くたびに、杏菜の心は高鳴り、同時に自分の未熟さに焦りが募った。しかし、その焦りは、杏菜を奮い立たせる原動力にもなっていた。
ある日のパート練習でのことだ。杏菜は、先輩に教えてもらったばかりの簡単なフレーズを練習していた。しかし、どうしても指が思うように動かず、音が途切れ途切れになってしまう。
「もう一度、ゆっくり。指をしっかり押さえて」
クラリネットパートの三年生の先輩が、優しく杏菜の指を直してくれた。
杏菜は深呼吸し、もう一度息を吹き込む。だが、やはり思うような音が出ない。焦れば焦るほど、体が硬くなり、指が震える。
「ごめんなさい......」杏菜は、唇を噛み締めた。
「大丈夫だよ、音羽。焦らなくていいから。始めたばかりなんだから、みんな最初はそうだよ」
先輩は、笑顔で励ましてくれた。
だが、杏菜の視線の先では、春菜がもうすでに二年生たちと難易度の高い曲の合奏に参加し、堂々とした音を響かせている。友理に至っては、時に先輩たちの演奏をリードするかのように、深みのあるホルンの音を奏でていた。同じ新入生なのに、この歴然とした差。努力しているつもりなのに、一向に追いつける気がしない。
(私、本当に、みんなと一緒に演奏できるようになるのかな......?)
夜、帰宅した杏菜は、夕食の食卓で母の美佐子に尋ねた。
「お母さん、私、いつになったら、みんなみたいに上手になれるかな......」
美佐子は、杏菜の不安げな表情を見て、調理の手を止めた。
「どうしたの、杏菜。何かあった?」
美佐子は、杏菜の隣に座り、優しく頭を撫でた。
「部活、楽しいんだけどね......みんなすごく上手で。私だけ、全然音がまともに出ないし、楽譜も読めなくて。努力してるつもりなんだけど、全然追いつけないんだ」
杏菜は、涙声になった。今日感じた悔しさと焦りが、一気に溢れ出したのだ。美佐子は、娘の頭を撫でながら、静かに語り始めた。
「杏菜、お母さんにもね、初めて楽器に触れた頃があったわ。最初は、本当に苦労したのよ。音を出すだけで精一杯で、指も思うように動かせなくて。でもね、続けていくうちに、少しずつ、本当に少しずつだけど、できるようになるの。大切なのは、諦めないことよ」
「でも、友理ちゃんも春菜ちゃんも、私よりずっと前からやってるから......」
杏菜は、うつむいた。
美佐子は、優しく微笑んだ。
「そうね。経験の差は、確かにあるわ。でもね、杏菜。お母さ んが吹奏楽をしていた時、鳴瀬啓介という、それはそれはすごいホルン奏者がいたの。友理 ちゃんのお父さんよ」
杏菜は、顔を上げた。先日、母から聞いたばかりの名前だ。
「彼はね、本当に天才だった。私たちでは想像もできないような速さで上達し、あっとい う間に周りのみんなを追い越していったわ。その音は、まさに神様からの贈り物。でもね、 彼の音は、あまりに完璧すぎて、私たち凡人には、時に近寄りがたく感じることもあったの」
美佐子の言葉には、どこか遠い目をするような、複雑な感情が混じっていた。
「でも、お母さんは、そんな彼の音から、本当にたくさんのことを学んだわ。彼の音を聴くたびに、自分ももっと上手になりたいって、強く思った。彼の存在が、私を奮い立たせてくれたのよ。杏菜も、友理ちゃんの音から、そういう『刺激』をもらうといいわ」
美佐子は、杏菜の目を見つめ、続けた。
「そしてね、杏菜。楽器を始めたばかりのあなたにしか、見つけられないものもあるはずよ。初心者の目で見るからこそ気づける、音の美しさや、音楽の楽しさ。それは、経験を積んだ人たちには、もう当たり前になってしまっていることかもしれない。だから、今のその『焦り』も、きっとあなたを成長させるための大切な感情よ。焦る気持ちも、悔しい気持ちも、全部、あなたの音楽の糧になるわ」
母の言葉は、杏菜の心に温かく染み渡った。天才的な友理や、経験者の春菜とは違う、自分にしかできないこと。初心者の自分だからこそ感じられる、音楽の喜び。その言葉が、杏菜の不安を、少しだけ和らげてくれた。
「それに、お母さんは、杏菜がクラリネットを始めたばかりの頃の、たどたどしいけど、一つ一つの音に心がこもった演奏が、大好きよ。あの音には、他の誰にも真似できない、杏菜だけの魅力があるわ」
美佐子の優しい笑顔に、杏菜は少しだけ泣きそうになった。
そうだ、今はまだ未熟でも、自分には自分にしか出せない音がある。そして、ひたむきに努力を続けることで、きっといつか、皆と同じ舞台に立てるはずだ。
翌日、杏菜は、再び部室でクラリネットを手に取った。まだ音は不安定で、指もスムーズに動かない。だが、その瞳には、諦めではなく、新たな決意の光が宿っていた。
(焦るのはやめよう。私には、私のペースがある。友理ちゃんや春菜みたいに、すぐに上手になれなくても、私なりに、このクラリネットで最高の音を出せるように、毎日、一歩ずつ進んでいこう)
杏菜は、ゆっくりと、しかし確実に、音階を吹き始めた。
その音は、まだ小さく、かすれていたけれど、確かな決意が込められていた。彼女の耳には、友理の深く響くホルンと、春菜の力強いトランペットの音が、遠くから聞こえてくる。
それは、もはや焦りの原因ではなく、彼女の進むべき道を照らす、希望の光のように感じられた。




