第1章14話:部内の軋轢
安中榛名高校吹奏楽部の新入部員が入って二週間が過ぎた。
一年生たちは少しずつ部の雰囲気に慣れ、それぞれのパート練習にも熱が入るようになっていた。
クラリネットの音羽杏菜は、相変わらず基礎練習に苦戦しながらも、ひたむきに音と向き合っていた。
トランペットの高峰春菜は、持ち前の明るさと実力でパートの中心となり、時に杏菜に優しくアドバイスを送る姿も見られた。そして、ホルンの鳴瀬友理は、その圧倒的な実力で、部内の誰もが認める存在となっていた。
しかし、友理の才能が輝けば輝くほど、部内には目に見えない「軋轢」が生じ始めていた。 特に、ホルンパートの先輩たちの間では、その影響が顕著だった。
友理が練習を始めると、 その音のあまりの完成度に、先輩たちは言葉を失い、自分の未熟さを突きつけられるような 感覚に陥っていた。
「おい、聞いたか?あの子、本当に新入生かよ......」
「俺たち、何年ホルン吹いてるだよ......」
パートリーダーも「もう、俺らが教えることなんて何もないだろ」などと言っている。
そんな囁きが、ホルンパートの練習場所のあちこちから聞こえてくる。
それは、友理への尊敬と驚きが入り混じったものだったが、同時に、自分たちの存在意義を問うような、諦め
にも似た響きを含んでいた。
パートリーダーの三年生松本悠人でさえ、友理に具体的な指導をする 場面はほとんどなく、ただ彼女の演奏を「すごいな」と見守るばかりだった。
友理自身も、その微妙な空気を察し、どこか寂しげな表情を浮かべることが増えていた。
彼女は、この部で「音楽の楽しさ」を取り戻したいと願っていたが、その実力が、かえって周囲との間に壁を作ってしまっていることに困惑していたのだ。
ある日の全体練習。
顧問の佐々木梓先生は、一年生も含めて、基礎合奏 の練習を始めた。
音階練習、ロングトーン、そして簡単なハーモニー練習。部員たちはそれ ぞれの音を重ねていく。
しかし、ホルンパートから響く友理の音は、他の部員たちの音とは 一線を画していた。完璧な音程、豊かな響き、そして揺るぎない安定感。それは、まるでプ ロの演奏家が一人だけ混じっているかのような違和感を、合奏全体に与えていた。
「はい、ストップ!」
梓先生の声が響き渡り、合奏が止まった。部員たちが、何事かと梓先生の方を見る。
梓先生の表情は、いつもの穏やかな笑顔ではなく、どこか厳しいものだった。
「ホルンパート、もう少し音を合わせるよ。特に、鳴瀬さん以外の三年生と二年生。音が不安定。鳴瀬さんの音に引っ張られすぎないように、自分の音をしっかり出して!」
梓先生の言葉に、ホルンパートの先輩たちの顔がこわばった。彼らは、友理の音に合わせようと必死だったが、そのあまりのレベルの高さに、かえって自分の音を見失ってしまっていたのだ。
友理もまた、申し訳なさそうな顔で俯いた。
その時、部長の大橋拓真は、内心で焦りを感じていた。
友理の才能は、部のレベルを格段に引き上げる可能性を秘めている。それは間違いない。しかし、このままでは、友理の才能が、逆に部内の和を乱し、先輩たちの自信を奪ってしまうかもしれない。
彼は、友理の入部届を見た時から、この事態をある程度は予測していた。だが、これほど早く、そして明確に表面化するとは予想していなかったのだ。
副部長の緑川紗希もまた、冷静な目で部内の状況を観察していた。
彼女自身、友理のホル ンの音に圧倒された一人だ。しかし、彼女は同時に、この状況をどうにかしなければならな いという強い使命感に駆られていた。
彼女の視力は弱く、楽譜を読むのに人一倍苦労する分、 部内の空気や部員たちの感情の変化には敏感だった。
このままでは、友理が孤立し、部全体 の士気が下がってしまう。
練習後、拓真は意を決して、梓先生に声をかけた。
「先生、少しお話があります。紗希も、いいか?」
拓真の真剣な表情に、梓先生と紗希は頷き、部室の隅で三人で話し合いを始めた。
「先生、紗希。今のホルンパートの状況、どう思いますか?」拓真が切り出した。
梓先生は、深く息を吐いた。彼女の表情は、複雑な感情が入り混じっていた。
「正直、予想していたよりも早く、この問題が表面化してしまったわね。鳴瀬さんの才能 は、疑いようがない。それは、この部の宝になるはずよ。でも、その才能が、かえって周り の部員たちに重圧を与えてしまっている。特に、ホルンパートの三年生たちは、自分たちの 立場が危うくなるのではないかと、不安を感じている」
梓先生の言葉に、拓真と紗希は静かに頷いた。
「俺もそう思います。このままじゃ、友理が孤立しちゃうし、部員たちも自信をなくして しまう。せっかく友理が入ってくれたのに、これじゃあ逆効果だ」
拓真が悔しそうに言った。
紗希は、冷静な口調で意見を述べた。
「友理の音は、確かに圧倒的です。でも、それは彼女が東京の強豪校で、血の滲むような努力をしてきた結果だと思います。私たちは、その努力と才能を素直に認め、そこから学ぶべきです。そして、友理がこの部で、心から音楽を楽しめる環境を作ってあげるべきです。彼女が孤立してしまっては、元も子もありません」
紗希の言葉に、梓先生は目を細めた。紗希は、いつも冷静で的確な判断を下す。
「その通りよ、紗希。そして、これは、私たち顧問と部長、副部長の責任でもあるわ。鳴瀬さんの才能を、どうすれば部全体の成長に繋げられるか。どうすれば、部員全員が、彼女の音から刺激を受け、自分の音楽を高めていけるか。それを真剣に考える必要がある」
梓先生は、拓真と紗希の顔を真っ直ぐに見た。その瞳には、強い決意が宿っていた。
「私には、昔、どうしても乗り越えられなかった壁がある。そして、その壁を乗り越えられなかったことが、今でも心残りになっている。だからこそ、この部には、同じような思いをしてほしくない。鳴瀬さんの才能を、この部の未来のために最大限に活かしたい」
梓先生の言葉には、個人的な感情が込められているように聞こえた。拓真と紗希は、梓先生の過去に何か深い事情があることを感じ取ったが、今はそれを問うべき時ではないと判断した。
「具体的に、どうすればいいでしょうか?」拓真が尋ねた。
「まずは、ホルンパートの三年生たちと、個別に話してみましょう。彼らの不安や、友理に対する思いを聞いて、理解してあげる必要がある。そして、友理にも、この部の現状を正 直に話して、彼女の協力を仰ぎましょう。彼女は、きっと理解してくれるはずよ。そして、 部全体として、友理の音を『脅威』ではなく、『目標』として捉えられるような意識改革が必 要ね」
梓先生は、静かに、しかし力強く言った。
「そして、もう一つ。この部には、鳴瀬さんの才能だけでなく、杏菜ちゃんのような、純粋な音楽への憧れを持つ子もいる。春菜ちゃんのような、過去の挫折を乗り越えようとする強い意志を持つ子もいる。それぞれの個性を尊重し、それぞれの成長をサポートしていくことが、何よりも大切よ。この三人の新入生が、この部の未来を大きく変える鍵になるはずだから」
梓先生の言葉に、拓真と紗希は改めて決意を固めた。友理の才能を活かし、部内の軋轢を乗り越え、部員全員が心から音楽を楽しめる部活動にする。
そして、全国大会という目標に向かって、部全体で突き進む。それは、簡単な道のりではないだろう。
しかし、彼らには、その困難を乗り越えるだけの情熱と、仲間への信頼があった。
安中榛名高校吹奏楽部の、新たな挑戦が、今、本格的に始まろうとしていた。




