第1章12話:友理の困惑
安中榛名高校の吹奏楽部に入部して数日。鳴瀬友理は、新しい環境での生活に少しずつ慣 れ始めていた。
東京の強豪校で経験したような、息が詰まるほどの練習漬けの日々とは違い、 この部の雰囲気は温かく、先輩たちも皆、親しみやすかった。
クラリネットを始めたばかりの音羽杏菜は、音を出すのに苦戦しながらも、ひたむきに努力を続けている。そして、同じ新入生でトランペットの高峰春菜は、中学での経験者だけあって、すぐにパートに溶け込み、確かな実力を見せていた。
友理は、そんな二人との出会いを、心から喜んでいた。この安中榛名高校吹奏楽部でなら、新しい友達と共に、失いかけていた「音楽の楽しさ」を取り戻せる。そう確信していたのだ。
しかし、同時に友理は、あることに気づき始めていた。それは、部活中の先輩たちの、自分に向けられる視線だった。特に、ホルンパートの先輩たちは、友理がホルンを構え、音を出そうとすると、それまで和気あいあいと話していた声がぴたりと止まり、皆が静かに友理の方に顔を向けるのだ。その視線は、好奇心だけではなかった。そこには、驚き、そしてどこか畏敬の念、さらには遠慮や、かすかな諦めのような感情すら混じっているように感じら
れた。
初日は気のせいかと思っていたが、日を追うごとにその視線は増し、友理が少しでも難しいパッセージを吹きこなすと、パート練の部屋全体が静まり返るのを感じた。
ある日の休憩時間、友理が練習曲の一節を吹いていると、ホルンパートの先輩の一人が、思わず「うわっ......マジかよ」と呟いたのが聞こえた。その声には、圧倒されたような響きと、どうしようもない困惑が混じっていた。
休憩中、友理が少しでも先輩たちと打ち解けようと話しかけても、皆どこかよそよそしく、 会話が続かない。
東京の強豪校では、実力があればあるほど、周囲から一目置かれ、むしろ積極的に話しかけられることが多かった。練習方法や、難しいフレーズのコツなどを尋ねられるのが常だったのだ。しかし、この部では違った。
先輩たちは、友理に「すごいね」「上手だね」とは言うが、それ以上の踏み込んだ会話を避 けているように見えた。まるで、友理の圧倒的な実力が、壁になっているかのようだった。
入部初日の体験練習。学校の楽器を使い、なかなか思うように自分の音が出せていない時でも、副部長であるアルトサックスの三年生、緑川紗希先輩が、拓真部長のところへ猛然と歩み寄り、興奮した声で何かを訴えているのが聞こえてきた。その声は、部室の隅にいた友理の耳にもはっきりと届いた。
「部長!あのホルンの音、聞きましたか!?あの子、何者なんですか!?」
紗希先輩の声には、驚きと興奮が入り混じっていたが、同時に、友理にはどこか「困惑」のような響きも感じられた。まるで、自分の存在が、部活の雰囲気を乱してしまっているかのように。
友理は、紗希先輩の言葉を聞きながら、静かにホルンをケースにしまったのだった。
その手つきは、どこか寂しげだった。彼女は、この安中榛名高校吹奏楽部で、中学時代に失った「音楽の楽しさ」を取り戻したいと願っていた。仲間と共に、笑顔で音楽を奏でたいと。
しかし、今の状況は、友理の期待とは少し異なっていた。彼女の実力が、かえって周囲との間に溝を作ってしまっているような気がしたのだ。
(私、何か間違ってるのかな......?)
友理は、漠然とした不安に襲われた。
東京にいた頃と同じだ。あまりに実力差があると、周りの人は萎縮してしまう。それが、彼女が求めていた「生き生きとした音楽」の妨げになってしまうのではないか。自分がいることで、かえって部の雰囲気を悪くしてしまうのではないか。そんな考えが頭をよぎった。
家に帰り、リビングに入ると、父の鳴瀬啓介が、いつものようにパソコンに向かっていた。 母は夕食の準備をしている。
「ただいま、お父さん、お母さん」
「おかえり、友理。部活はどうだった?楽しかったか?」
父が顔を上げ、優しく尋ねた。その眼差しは、私を気遣っているのがよくわかる。
「うん......楽しかったよ。みんな優しいし、杏菜ちゃんも春菜ちゃんも、いい子だよ」
友理は、笑顔を作って答えた。しかし、心の中では、部活で感じた戸惑いが渦巻いていた。
父は、私の微妙な表情の変化に気づいたのか、少しだけ心配そうな顔をした。
「何かあったのか?無理はしてないか?」
「ううん、大丈夫。ただ......なんだか、みんな、私に遠慮してるみたいで......」
友理は、正直な気持ちを打ち明けた。父は、私の言葉を聞くと、パソコンから完全に離れ、 私の隣に座った。彼の表情には、どこか遠い昔の記憶を辿るような、複雑な影が差していた。
「そうか......。そうだろうな。お前の音は、普通の高校生とはレベルが違うからな」
父は、静かに頷いた。彼の言葉は、友理の実力を認めつつも、そのことがもたらすであろう影響を予見しているかのようだった。
「お父さんもな、昔、似たような経験をしたことがあるんだ。榛名高校の吹奏楽部でホルンを吹いていた時、周りの部員たちから、どこか距離を置かれているような感覚があった。俺は、ただひたすらに音楽を追求したかっただけだったんだが、それが、周りには『近寄りがたい』とか『完璧すぎて面白くない』とか、そう思わせてしまったのかもしれない」
父は、苦笑いを浮かべた。その表情には、過去の苦い経験が色濃く残っているのが見て取れた。友理は、父も同じような経験をしていたことに驚いた。父の言葉は、まるで今の自分の状況を代弁しているかのようだった。
「だから、お前が中学の時、もう楽器はいいって言った時、俺は正直、ホッとしたんだ。お前には、俺と同じ思いをしてほしくなかった。音楽を純粋に楽しむ心を、失ってほしくなかったんだ」
父の言葉に、友理は胸が締め付けられる思いがした。父は、私を深く愛し、守ろうとしてくれていたのだ。
しかし、それは同時に、父自身の「音楽からの逃避」を、私にも重ねていたということなのだろう。
「でもな、友理。お前には、才能がある。それは、神様から与えられたギフトだ。その才能を、誰かのために遠慮する必要はない。周りがどう思おうと、お前が心から音楽を楽しんで、最高の音を奏でることが、何よりも大切なことだ」
父は、私の手をそっと握った。その手は、ゴツゴツしているけれど、とても温かかった。
彼の言葉は、友理の心の奥底に染み渡り、不安で揺れていた気持ちを、少しだけ落ち着かせた。
「お父さんは、お前がどんな道を選んでも応援する。でも、もし、その才能を活かして、この安中榛名で、最高の音楽を奏でてくれるなら、父さんとしては、それほど嬉しいことはない。周りの壁を乗り越えて、お前らしい音楽を追求してほしい」
父の言葉に、友理の目に、新たな光が宿った。
そうだ、遠慮する必要などない。私は私だ。 この安中榛名高校吹奏楽部で、私は私らしく、心から音楽を楽しめばいい。私の音が、周り の人たちに、どんな影響を与えようと。
友理は、強く頷いた。まだ少しの戸惑いは残っていたが、父の言葉は、彼女に確かな勇気を与えてくれた。
この場所で、私は自分だけの音を奏でていく。そして、その音が、いつか皆の心を動かす、最高のハーモニーに繋がることを信じて。




