第1章11話:杏菜の焦り
吹奏楽部に入部して数日。
音羽杏菜の胸には、喜びと同じくらい、いや、それ以上に大きな焦りが募っていた。憧れのクラリネットを手にできることに、初めはただひたすら感動していた。
新しい楽器の匂い、ひんやりとしたキーの感触、そしてそこから生まれる初めての音に、心が震えた。
しかし、日が経つにつれて、周りの部員たちとの、歴然とした差が浮き彫りになってきたのだ。
クラリネットパートの先輩たちは、皆、まるで楽器が体の一部であるかのように、流れる ように指を動かし、淀みなく美しい音色を奏でる。特に二年生ながらパートリーダの三枝勇吉の音は心に染みていくような音色で杏菜は「クラリネットってこう いう音なんだ」と感動したのである。
顧問の佐々木梓先生の指導のもと、正確な音程と豊かな表現力で、どんな楽譜もたちどころに読みこなしていく。二年生ですら、基礎練習は完璧で、新しい楽譜も すぐに読み込み、複雑なパッセージも淀みなく吹きこなしていた。彼らの演奏は、杏菜にとって、輝かしくも遠い存在だった。
それに比べて、自分はどうか。中学で吹奏楽部がなかったため、楽器に触れるのは初めてだ。
クラリネットの組み立て方、リードの付け方からして戸惑い、先輩に何度も教えてもらった。
音を出すだけでも一苦労。息を吹き込んでも「プー」と情けない音しか出なかったり、時には全く音が出なかったりする。やっと音が出ても、音程は不安定で、音が震えてしまう。 指使いはぎこちなく、先輩たちが教えてくれる指の形も、なかなか思うように真似できない。
楽譜はまるで暗号のように見え、音符一つ一つを指で追いながら、必死に音階を追う日々だ。他の部員がスラスラと譜面を読み進める中、自分だけが何歩も、いや何十歩も遅れているような感覚に陥った。
先輩たちは優しく、根気強く教えてくれる。一つ一つ丁寧に指の位置を直し、息の入れ方を指導してくれる。しかし、杏菜は自分が皆の足を引っ張っているような気がしてならなかった。
全体の基礎合奏で音が合わない時、自分のミスで止まってしまう。先輩たちの「大丈夫だよ」という声が、かえって心に突き刺さる。その優しさが、自分のできなさを浮き彫りにしているように感じてしまった。
特に、隣で練習する高峰春菜の存在は、杏菜に大きな刺激と同時に、深い劣等感を与えた。
春菜は、同じ新入生とは思えないほど、トランペットを堂々と吹きこなしている。その音は力強く、まっすぐで、迷いがない。パートの先輩たちからも「さすが経験者」と一目置かれ、 部長の大橋拓真も、彼女に期待の眼差しを向けているのが分かった。
杏菜がまだ楽譜とにらめっこし、指使いに悪戦苦闘している間に、春菜はすでに先輩たちと合奏に参加し、難しい フレーズを吹いている。中学時代に榛名中学校の吹奏楽部で活躍していた春菜とは、経験の 差が歴然としていた。
そして、最も杏菜の心をざわつかせたのは、ホルンパートの鳴瀬友理だった。数日前に初めて耳にした彼女のホルンの音は、今も杏菜の耳の奥にこびりついている。
澄んでいて、深く、そして圧倒的な存在感があった。
全国大会に出場経験があるという言葉は、決して伊達ではない。
友理が練習を始めると、他のパートからも、先輩からも、好奇と驚きの視線、そして畏敬の念すら混じった視線が集まるのが分かった。彼女の音は、部室の空気を一変させる力を持っていた。
「すごいな......私、いつになったら、あんな風に吹けるようになるんだろう」
部活の休憩中、友理のソロ練習を耳にした杏菜は、思わずそう呟いた。自分がまだ音を出すことで精一杯なのに、友理はすでに音楽を表現している。マイ楽器を持参してからは特に音に凄みさえ感じる、あまりにも高い壁だ。彼女たちの輝きを見るたび、自分の未熟さが際立ち、胸が苦しくなった。
「私も早く、あんな風に吹けるようになりたい。みんなと一緒に、あの美しいハーモニーの中に、私も加わりたい」
憧れは強まるばかりだが、同時に、自分と彼女たちの間に横たわる、埋めがたい実力の差を突きつけられる日々だった。
部活の練習が終わると、皆は楽しそうに今日の出来事や、次の練習メニュー、週末の予定などを話している。杏菜もその輪の中にいるけれど、自分が話題についていけないような気がして、つい口を閉ざしてしまう。
家に帰り、母の美佐子が「今日の部活はどうだった?クラリネットは楽しい?」と尋ねる声に、杏菜は「うん、楽しかったよ」と、いつものように笑顔で答えた。しかし、その笑顔の裏では、自分だけが置いていかれるのではないかという不安が、じわじわと心を蝕んでいた。
夜、ベッドに入ると、天井を見つめながら、今日の自分の不出来な演奏が何度も頭の中で再生される。どうすればもっと早く上達できるのか、どうすればみんなに追いつけるのか、と考えるうちに、眠れなくなる夜もあった。
(私、このままで、本当にみんなと一緒に、ちゃんと吹けるようになるのかな......?もしかして、私には才能がないのかな?)
憧れていた吹奏楽部の世界は、想像以上に厳しく、そして、自分の力のなさを突きつけるものだった。諦めてしまえば楽になれるのかもしれない。しかし、杏菜は首を横に振った。
このクラリネットを手にし、吹奏楽部に入ると決めたのは、自分が初めて強く望んだことなのだ。友理や春菜、そして他の先輩たちのように、自分もいつか、心から音楽を奏でたい。
その強い思いが、杏菜を奮い立たせた。
諦めるわけにはいかない。焦りを力に変えて、一つずつ、できることを増やしていくしかない。
今はまだ未熟でも、努力を続ければ、きっといつか、皆と同じ舞台に立てるはずだ。
杏菜は、ぎゅっとクラリネットのリードを握りしめた。固く、熱い決意が、彼女の胸に宿っていた。




