第1章10話:副部長・緑川紗希
新入生歓迎の部活動紹介を終え、体育館が新入生と上級生の喧騒に包まれる中、緑川紗希はアルトサックスをケースにしまいながら、今日の新入生たちの顔ぶれを静かに思い返していた。
三年生の副部長として、彼女の役割は部長の大橋拓真を支え、パートリーダーたちと連携して部全体をまとめることだ。中学時代からアルトサックス一筋で、その努力と実力はパート内でも群を抜いている。
普段は冷静沈着で、感情を表に出すことは少ないが、心の中には常に音楽への深い情熱を燃やしている。
彼女には、一つだけ人知れぬ苦労があった。
視力は弱く、メガネでも 0.8 がせいぜい。楽譜を読む際には、目を凝らし、人一倍集中力と時間を要した。
特に、細かい音符が並ぶ速い パッセージでは、一瞬でも目を離せば見失ってしまうため、譜読みの段階で膨大な時間を費 やした。その分、一度覚えた楽譜は誰よりも正確に、そして感情豊かに表現する。
譜読みで 苦労する分、指の練習や音色の研究に時間をかけ、その努力が彼女の実力を支えていた。
まさに、努力と根性の人だった。
「よし、みんな、今日の基礎練はこれくらいにしましょう。明日はもっと厳しくいくから覚悟してね。特に、ロングトーンはもっと音の芯を意識して。音程が甘いから」
サックスパートの練習を終え、二年生の部員たちを軽く“しごいた”後、紗希は休憩に入るよう促した。彼女の指導は厳しかったが、それはパート全体のレベルを上げたいという強い思いからくるものだ。
彼女自身が積み上げてきた努力の量を考えれば、後輩にも同等の熱意を求めるのは当然のことだった。
二年生たちは、紗希の言葉に安堵しつつも、明日の練習を想像して少し顔を引きつらせていた。
一息つこうと、紗希が椅子に座り、メガネの位置を直しつつ部室全体を見渡した時だった。 遠くから、澄み切ったホルンの音が響いてきた。それは、ただ音階をなぞるだけの音ではな い。一つ一つの音が、まるで生きているかのように、豊かな響きと感情を伴って空間を満た していく。音の粒はまろやかで、しかし芯には確かな強さがあり、深い響きが紗希の耳に深 く染み渡った。まるで、遥か彼方の山々から響く、荘厳な調べのようだ。
「......何、今の音......?」
紗希は思わず呟いた。この安中榛名高校吹奏楽部で、こんなホルンの音を聞いたのは初め てだった。
まるで、これまで自分が知っていたホルンの音の概念を覆されるかのような衝撃。 それは、完璧な技術と、それを超えた「何か」、すなわち圧倒的な音楽性を持った音だった。
部の先輩たち、特にホルンパートの三年生でも、これほどの音を奏でられる者はいない。
音の出どころを探すと、ホルンパートの練習スペースで、一人の新入生がホルンを構えているのが見えた。鳴瀬友理。入学式の部活動紹介の際に、友理のホルンに対する真剣な眼差しを覚えていたが、まさかここまでとは。彼女の演奏は、まるで呼吸をするかのように自然で、楽器と一体になっているかのようだ。
「よく、学校の備品のくたびれた楽器であんな音を出すわね!」
休憩時間も惜しむかのように、友理は黙々と練習を続けている。その姿からは、ただひたすらに音楽と向き合う真摯な姿勢が感じられた。彼女の集中力は並外れており、周囲の喧騒など全く耳に入っていないかのようだ。
紗希は、彼女の音に聴き入っていた他のパートの部員たち、特にホルンパートの二年生たちが、呆然とした表情で友理を見つめていることに気づいた。
その視線には、驚きと、そしてどこか畏敬の念が混じっていた。中には、羨望の眼差しを向ける者もいた。
「あんなホルン、初めて聞いたわ......。あの子、本当に新入生なの?」
紗希は、気づけば立ち上がっていた。胸の奥から湧き上がる、抑えきれない好奇心と、かすかな焦燥感。このとてつもない音が、この安中榛名高校の吹奏楽部で鳴らされることに、言いようのない興奮を覚えた。同時に、自分ももっと上を目指さなければ、このままでは置いていかれる、という強い衝動に駆られた。彼女の努力の基準が、一気に引き上げられたような感覚だった。
紗希は、大股で部長の大橋拓真の元へ向かった。拓真は、入部届の束を抱え、まだ興奮冷めやらぬ様子で何かを呟いている。彼の表情も、紗希と同じように高揚しているのが見て取れた。
「部長!」
紗希の普段からは考えられないほど、感情的な声だった。拓真ははっと顔を上げた。
「なんだ、紗希。どうした、そんな慌てて。何かあったのか?」
拓真は、紗希のただならぬ様子に、にやりと笑った。彼の目に、好奇の光が宿る。
「あのホルンの音、聞きましたか!?今、ホルンパートから聞こえてきた音です!あの子、何者なんですか!?まさか、あれが新入生が吹いている音だなんて信じられません!」
紗希は、興奮して早口で捲し立てた。普段の彼女からは想像できないほど、感情が剥き出しになっている。
彼女のメガネの奥の瞳は、驚きと興奮で大きく見開かれていた。
拓真は、紗希のただならぬ様子に、改めて満足げに頷いた。
「ああ、聞いたさ。とんでもない奴が入ってきてくれたもんだ。まさか、うちの部にこんな逸材が来るなんてな」
拓真は、入部届の束の中から、友理のものを一枚抜き取り、紗希に差し出した。紗希は震える手でそれを受け取り、メガネ越しに、食い入るようにその紙面を見た。
「鳴瀬友理......ホルン......全国大会出場経験あり......」
文字をなぞる紗希の指が震えた。そして、保護者欄の「鳴瀬啓介」という名前に目を留めた瞬間、彼女の息が止まった。全身の血液が、一瞬で凍り付いたかのような感覚。
「鳴瀬啓介......?まさか、あの、伝説の......!?」
紗希の脳裏にも、かつて顧問の佐々木梓から聞いた、榛名高校吹奏楽部の黄金時代を築い た「天才ホルン奏者」の話が鮮明に蘇る。その話は、部内で語り継がれる伝説となっていた。
まさか、その人物の娘が、今、自分たちの部にいるとは。そして、あの音色の理由が、そこ にあったのかと、全てが繋がった気がした。ただの実力者ではない。これは、この部の歴史 に深く刻まれた、伝説の血筋だ。
「ああ、間違いないな。佐々木先生も、さっきから顔色が悪かったし、きっと何か知ってる」
拓真の言葉に、紗希はぞっとした。ただの才能ある新入生ではない。
これは、この部の未来を大きく変える、そして過去の歴史をも掘り起こすような、特別な存在の出現だ。彼女た
ちの想像を遥かに超える、とてつもない力が、この部に持ち込まれたのだ。
紗希は、友理の入部届を握りしめ、改めてホルンパートの方を見た。友理は、もう練習を終えたのか、静かに楽器をケースにしまっている。その小さな背中が、まるでとてつもない可能性を秘めているかのように見えた。彼女の存在は、紗希の知的好奇心と、音楽家としての探求心を深く刺激した。同時に、自分ももっと頑張らなければという、強烈な使命感に駆られた。
この安中榛名高校吹奏楽部で、果たしてどんな音楽が生まれるのだろう。そして、この「鳴瀬友理」という存在が、部に、そして自分たち三年生に、どんな化学反応をもたらすのだろ うか。
紗希の胸に、新たな期待と、そして未知への予感が、大きく広がっていた。
今年の吹奏楽部は、これまで経験したことのない、ドラマチックな一年になるだろう。
彼女の胸は、 これから起こるであろう様々な出来事への予感で、静かに高鳴っていた。




