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ヤマダヒフミ自選評論集

聖書の本質

 さっき、ユーチューブで動画を見ていたら、おすすめに聖書を紹介する動画があった。サムネから判断して胡散臭いものだろうと思ったが、退屈しのぎにクリックして見てみた。

 

 すると、マジシャンみたいな格好の人が出てきて、「聖書とは、人生の最高の攻略本」と言っていた。その時点で私は動画を見るのをやめた。

 

 それにしても、現代人というのは一々、忙しいものだと思わざるを得ない。何を見て、何を聞いたところで「これは何の役に立つんですか?」「何の意味があるんですか?」「メリットはなんですか?」と四六時中、質問している。そうして確定したメリットがなければやらないらしいが、そう言う彼らはどのみち、なんにもやらない。そもそも意味を問うならば、地球にも人間にも意味なんてないし、全てが馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しい。

 

 アマゾンレビューで、星一をひたすらつけているレビュアーがいるが、人間の意識の構造上、どんな馬鹿でも、世界のすべてを軽蔑して生きる事ができる。しかしそれはそれだけの事だ。「でも〇〇の可能性はありますよね?」と言う人間がよくいるが、可能性があるからどうだというのだ。可能性ならどんなものだって持っている。アメーバが神になる可能性だって、ないとは言えまい。

 

 しかし無駄話をしていても仕方ない。このエッセイのタイトルは「聖書の本質」なので、聖書について考えていこう。

 

 聖書というのは「人生最高の攻略本」ではない。私がこの文章を書こうと思ったのは、聖書はちょうど、その逆の存在だと思えたからだ。

 

 パスカルがキリスト教を指して「自然に反したものが歴史に残っている」と言っていた。言われてみれば不思議である。キリスト教のような、不自然な、自然性に反したものが歴史の中で残っている。一方、人間の欲望に沿った、つまり自然と同じ方向に運動するものが歴史の中でたやすく消えたりする。

 

 聖書は旧約聖書と新約聖書の二つで成り立っている。新約聖書はキリストの話で、旧約聖書は、キリストが存在する前の前段階と見られている。

 

 キリストは、人類の罪を背負って磔にあったという事になっている。人類の罪とはアダムとイブのそれで、彼らが神の教えに背いて楽園から追い出された時に、罪が発生したのだった。キリストはその罪を背負ってあのような死に方をした。

 

 もともと、旧約聖書はユダヤ人(ヘブライ人)のものだったが、新約聖書に移行し、キリストの物語が主になるにつれて、人種的な意識が薄れ、より普遍的な宗教形態になった。その形態の中心にいるのがキリストだ。

 

 ニーチェはキリスト教を痛烈に批判したが、私はニーチェは正確にキリスト教を捉えていたと思う。ただ、ニーチェとキリスト教、どちらが正しかったかと言われれば、キリスト教の方だと思う。しかし、これは「正しい」というような言葉でも言えない、微妙な差異なので、私もここでははっきりとは言えない。ただ、自分はキリスト教徒だと信じている人よりもアンチクリストたるニーチェの方がキリスト教をよく捉えている、そういう事はまったくありうると思う。キリスト教擁護者の中には胡散臭い者もいるが、そうした人よりはニーチェの方を私は取りたい。

 

 ニーチェの話を持ち出したのは、ニーチェの言うように、キリスト教というのは、本質的な価値転換だからだ。それを極めてはっきり定式化したものだからだ。それこそが「聖書の本質」だろう。

 

 それではどういう価値転換だったのか。一言で言えば、「肉より霊が優れている」という価値転換である。富者よりも貧者、幸福よりも不幸の方が価値がある。そういう価値転換が、キリストという個体を通じて行われた。

 

 普通に考えれば事情は逆だ。貧者よりも富者の方がいいし、不幸よりも幸福の方がいいに決まっている。生者は死者に勝るし、強者は弱者よりもいい。この価値観をすべてひっくり返したのがキリスト教だった。そしてひっくり返された価値、そのバランスを取るのが来世であるとか、あの世であるとか、審判の時であるとか、つまりそういう彼岸の存在だった。

 

 我々が生きている世界においては通常、強者は弱者よりも良いのであって、強者になびこうとする者は多い。我々が生命として生きている限り、この価値観は発生する。その価値観を、あの世という存在を通じて、ひっくり返してみせた所にキリスト教の特徴はある。

 

 更に、キリスト教が興味深いのは、その価値観の真実性を、キリストという一個人の受難によって象徴したという事にある。聖書を読むと、キリストには特殊な力がある事が再三に渡って示される。今で言えば、エンタメ作品で、主人公が特別な能力を持っているようなものだ。

 

 ところが、キリストは自らの受難の際に、この能力を使わなかった。彼は拷問を受け、磔にされる時に、そこから脱しようとはせず、逆に、その苦痛を感受した。キリスト自体には罪はなかったわけだから、彼は主体的に受け入れたのである。

 

 キリストという罪なき人が、おそらくは人類の中でも最大の苦痛を受けねばならなかった、という矛盾の中にキリスト教の本質がある。キリストという一個人の肉体的苦痛が、地上と天上を結ぶキーである。一人の人間の肉体性によってあらゆる霊性が表現されるという事態は、文学的なものと言っていいだろう。キリストの物語は一つの文学である。

 

 義人が最も苦しまなくてはならない、というのは、我々の現実世界において大いなる矛盾である。この矛盾の意味を信じられる為には、彼岸とか来世、復活といった概念が信じられていなければならない。彼岸がある故にキリストは復活した。もしキリストに復活がなければ、彼は苦しみの中で、神に対する呪いの言葉を吐いて死んだ男という事になる。そうなると、キリストとは何だったのかがわからなくなる。

 

 ※

 キリストの物語は福音書に記されているが、その前の段階である旧約聖書に「ヨブ記」がある。ヨブ記は、キリストの物語と話が似ている。ヨブという義人が、神から与えられた試練に苦しむという話だ。

 

 ヨブ記からキリストの物語への移行を考えると、古代ユダヤ人は、「何故に、義人が苦しまなければならないのか?」とずっと思考していたのではないかと思う。彼らは、自分達の王国を失った存在であり、現実の理不尽を散々に味わわなければならなかった。現実の理不尽の最たるものは、「義人の苦しみ」であろう。悪人が栄え、義人が苦しむという現実はこの世界に存在する。その問題解決を、聖書の創作者達は考えていたのではないか。私はそのように感じている。

 

 義人の苦しみの問題はキリストという存在、その苦難、復活という道筋によって最高度の形で解決された。もちろん、これが解決でないというのなら、それぞれに解決の道筋を自分で作っていなかければならない。ただどのみち、私は「信仰」という経路を辿らないと、究極的な解決は難しいと思っている。もう一つの考えられる道としては、義人の苦しみを和らげ、反省しない悪人を罰する、というような方向だ。これは政治的な運動として行われる。政治運動と、来世における救済の観念は微妙な関係で歴史全体を動かしている。

 

 キリストは貧者であり、みすぼらしい服装をしていただろう。キリストは地元に帰った時「あれは大工の息子じゃないか」と笑われたと言う。この大衆的蔑視は今も昔も変わらない。彼は多くの信者を持ったが、同時に蔑視され、鞭打たれ、磔にされた人間だった。罪人の中に価値を認める、とは我々の感性から遠く離れた考えだ。我々は、彼岸に関しては単なる古代人の妄想だと切り捨てた。価値観は死から生へと移動し、為に、強者を褒め称え、弱者に関しては救う必要があるとか、手を差し伸べる必要があるとか言いながらも、自分は絶対にそうはなるまいと常に気を遣っている。我々には聖書が行った価値転換は既に縁遠い。

 

 それではキリスト教的考え、聖書は、現代の我々にはどんな力を与えてくれるのだろう? …それは一言で言えば、「我々に不幸に突入する勇気を与えてくれる」という事だ。

 

 少し前、アフガニスタンで慈善事業をしていた中村哲が亡くなった。私は迂闊にも、死んでから彼の人となりに興味を覚えて、彼について調べてみた。すると、彼がクリスチャンだというのがわかった。私はなんとなく納得した。

 

 それと、難民問題に取り組んだ緒方貞子も、クリスチャンだったというのを後から知った。緒方貞子と中村哲が共にクリスチャンだったというのは、私には何か共通点がある気がして、自分なりに深く納得した。

 

 もちろん、キリスト教は良いものばかりではなく、最悪のものを生む可能性があるし、最悪のものを生んできた。ただ最良のものを生む動機にもなっている。

 

 聖書は「人生最高の攻略本」ではなく、「いかにして人生を破棄するのかについての根拠を与える本」だというのが私の見解だ。もちろん、人生を破棄するというのは、意味がわからないし、生きる事を蔑ろにするのはけしからん、と現代の人は言うだろう。彼らは宗教のような垂直的な倫理を持っていないから、互いに、自分の好悪をどこまで肯定する為に群れ、自分達を根拠付けようとする。そのように平たい、横にくっついた集団が広がっていく。

 

 このような集団は自分を外側に投げ出す事が不可能なので、自分達の内に閉じこもったまま死んでいく。それぞれが自我を抱えて、自分を肯定し、自分を肯定してくれる他人を探して、世界をさまよい続ける。そうした彼らに聖書は何の役にも立たない。聖書は自分を投げ出す根拠を作るような書物だ。しかし、人間が自由に世界を作り変えられるようになった今、聖書は二千年の時を経て、読まれなくなってきた。流行り廃りで言えば廃れてきている。神は外側ではなく、自分達だと人々は言いたいからだ。

 

 聖書は今やそのように時代遅れの産物になりつつある。神は、私達であり、自然環境を作り変えるのが可能になった人間には、自然の背後にあった神などもはや全然信じられない。しかし、我々が互いに利己心を抱えて闘争し合う以上、我々の欲望の争いそのものが、我々の限界線を形作るだろう。自己をあまりに大切にしすぎる人は、その自己が少しずつ減じていくのに耐えきれないだろう。自分の価値を信じ切っている人は、その価値が少しでも毀損されると猛烈に怒り出す。強烈に高められた自己の張り合いはやがて、大きな闘争へと傾いていく。

 

 このような闘争の中で、我々は自己を尊重しすぎる事が、かえって互いの自己を破壊する事に気づくかもしれない。有名な言葉

 

 「一粒の麦地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、もし死なば多くの実を結ぶべし」

 

 は、死が生に転化していく論理を語っている。もしかしたら、我々の生の尊重の争いが、互いの死・破滅をもたらす時、聖書の価値が今一度見えてくるかもしれない。それは率先して偉大なものの為に死ぬ事によって、かえって大いなる生がもたらされるという、そういう「倒錯した」論理である。

 

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