音色に溺れる
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「音色に溺れる」
君はそう言っていた。
「僕にはまだわからないよ」
君の言う“音色に溺れる”という感覚が。
僕の奏でるピアノの音は雨の音と重なりあって溶けていく。
「あの日も雨が降っていたんだな」
窓の外を見ると、灰色に曇った空から雨が降り注いでいた。
雨は嫌いじゃないけれど。
それでもあの日のことを思い出してしまう。
雨粒一粒ひとつぶが、誰かの涙のように透き通っている。
「僕は今でも待っているよ」
あの日消えてしまった君が、もう一度僕の前に現れることを信じて。
例え姿が変わっていても、僕のことなんか忘れていたとしても。それでももう一度会えたらって、そう思っているんだ。
そう、これは雨の降る中、白い塔で一人ピアノを奏でる青年の物語。
▫ ▫ ▫
「その曲、綺麗だね」
その声に僕はピアノを弾いていた手を止めた。
軽やかな音色は一瞬にして消える。
これが君との出会いだった。
「ありがとう」
人に褒めてもらったのはいつぶりだろうか。
久しぶりのことで驚いてしまった。
さっき弾いていたのは僕が作った曲だった。雨をイメージした曲で、この日の天気にはぴったりだった。
「続きも弾いて」と君は言う。
僕は小さくうなずき、曲の続きを弾き始めた。
一つひとつの小さな音を集めて和音を作り、その和音を紡いで一つの曲へ。
外から聞こえてくる雨の音とピアノの音が僕の耳に同時に入ってくる。
最後の一音が完全に消えた時、君は言った。
「綺麗なんだけど、何だろう…何かが足りない気がするなぁ」
「何か」って何だろう。僕は必死に考えたが、何もわからなかった。
「曲の話?」と僕が聞くと、君は「ううん」と首を横に振った。
「弾き方の話だよ」
「弾き方か…」
「ピアノの弾き方は誰に教えてもらったの?」
「…誰にも教えてもらったことはないよ」
僕は最初から弾くことが出来たから。
そんな僕に君は言った。「じゃあ、」
「─私が教えてあげる」
「え…?」
僕は目を丸くしたまま君を見つめる。
「ね、いいでしょ」
「…でも君、ピアノ弾けるの?」
「うん。だから、ね?」
「わかったよ。じゃあお願いするね」
僕がそう言うと君は「うん!」と力強くうなずき、太陽のような笑顔を見せた。
▫ ▫ ▫
「ここはもっと大きく盛り上げたほうがよく聴こえるよ」
君は僕の楽譜を指差して言った。君は僕にピアノの弾き方、主に表現の仕方を教えてくれた。
「…また雨かぁ」
窓の外をを見て僕がそう呟くと、君は言った。
「雨は嫌なの?」
君は不安そうに僕の顔を覗き込む。
何故そんなに悲しそうな顔をするのか。何故そんなに怯えているのか。
このときの僕には何もわからなかった。
「嫌いじゃないよ。でも」
部屋へ響く雨音がいっそう強くなる。
「これじゃあ外に出られないじゃないか」
僕の言葉に君は不思議そうな顔をする。
「太陽の下を歩きたいんだ。ただ散歩をしたいだけ、それだけなんだ」
「雨でも外に出ればいいじゃない」と言う君に僕は言う。
「僕にはできないんだよ」
すると君は「ふーん、変なの」と言いながら、ピアノのイスに腰かけた。
「何か弾くの?」
「うん。貴方が弾いているのを見ていたら、私も弾きたくなちゃった」
そう言って君はピアノを弾き始めた。
ポロン、ポロンと軽やかな音が小さなこの塔に響き渡る。そしてその音はいつか雨音に書き消されて聴こえなくなる。
君が弾いているのは、僕がいつも弾いているあの曲。僕が作ったあの曲だった。
全く同じ曲なのに、何故だろう。僕が弾くときと全然違う。
もっと色鮮やかで、そしてもっと─。
「─青い」
まるで揺らめく水の底みたいに。
美しくて、透き通っていて、どこか儚くて。
ピアノを弾いている君は本当に楽しそうで、何より幸せそうだった。
いいなぁ。僕も君みたいにもっと人を引き込むような、美しい音色を奏でてみたい。
君が最後の一音を弾き終えたとき、僕はほとんど無意識に拍手を送っていた。
「…とっても綺麗だった」
僕がそう言うと、君は「ありがとう」と言って照れくさそうに笑った。
「僕、もっと練習するよ。君みたいに綺麗な演奏ができるように」
「うん、それがいいと思う。私もこれからも弾き方を教えるから」
君の言葉に僕はうなずく。その時、ふと君が小さく呟いたのだ。
「私、本当は、ピアニストになりたかったんだよね」
君は今も振り続く雨を見つめたままだった。
そんな君に僕は何かを言おうとした。何でも良かった。君をそのままにはできなかった。
でも、喉の奥から込み上げてくる言葉は君に届くことはなかった。
「そういえばこの曲、曲名は?」
君の言葉に僕は一瞬動きを止める。
そんなこと、今はどうだっていいじゃないか。
そう言いそうになったけれど、言葉をなんとか飲み込む。
「曲名はまだ決めてないんだ。雨や水をイメージして作った曲なんだけど」
「そっか」と君は返事をする。
「ねぇ」と僕は君に声をかけた。
「君がいるときは雨が多いよね」
「うん」
「なんでだろう」
「さぁ、なんでだろうね」
そう言って君はにこりと笑った。
「それじゃあ、また明日」
そう言って君は去っていった。あとから君が階段を下りていく音が聞こえた。
君がいなくなった途端、塔には静寂が訪れた。
雨はまだ降ったまま。
▫ ▫ ▫
「あーあ、晴れないかなぁ」
僕がそう呟くと君は「どうして雨だと外に行けないの?」と問う。
「だって」と僕は自分の手を見つめたまま言う。
「壊れちゃうじゃないか」
僕の言葉に君は目を真ん丸に見開いた。
「壊れちゃうって…まさか」
君と僕はつかの間見つめあった。
「貴方、人間じゃないの?」
君の声は静かな塔に響く。僕は小さくうなずき、話し始めた。
「僕はある有名な作曲家を模して作られたロボットで、機械だから水に濡れると壊れてしまうんだ。散歩が好きで本当は外に出たいのだけど、最近は雨が多くてね」
僕は何事もないかのようにそう言ったが、君はじっと僕を見つめたままで動かない。
「ねぇ、どうして?」
雨が落ちていく、流れてく。
「どうしてひとりぼっちなの?貴方を作った人は?友達は?」
「僕を作った人はもうずっと昔に死んでしまったよ」
君は僕から目をそらさない。必死な表情で、少し悲しそうにも見えた。
窓に当たった雨粒が涙のようにガラスをつたっていく。
「最初はね、僕の曲を聴いてくれる人がたくさんいたんだけどね」
「………」
「僕は僕のモデルとなった作曲家ほど凄い曲を作ることが出来なかった。そしたら皆だんだん離れていったんだ。所詮、ロボットだもんな、といって。そして僕は一人でこの塔へ閉じこもるようになったんだ」
──白くて高い、孤独な塔へ。
「…君がここへ来るまで、ね」
僕がそう言うと君はいつもより小さく笑った。
「君が来てくれたから、僕はもう一人じゃない。もう寂しくないんだ」
「…そんな風に言ってくれるなんて。ここに来てよかったなぁ」
太陽のように笑う君とは対照的に外では雨が強く降っていた。
「ねぇ、そろそろ君の秘密も教えてよ」
僕がそう言うと君は「私に秘密なんてないよ」と言って笑ったが、僕は再び言う。
「君がいるときは雨が多いよね」
「…わかったよ、教えてあげる」
そう言って君は少し困った顔で笑った。
「私はね、《雨の神様》なんだよ」
君がそう言った途端、雨の音がうるさいくらいに強くなった。いや、本当はそうじゃないのかもしれない。でも、僕にはそんな気がしたんだ。
「体は人間なんだけど、雨を降らす力を持っている。私が起きている間は必ず雨が降るの。本当は《晴れの神様》と順番に目を覚ますんだけど、私…」
君の声は震えていた。
「私、もう眠らないといけないのにここに来るのが楽しくて、貴方に会いに来るのが楽しみで…。私がずっと起きているせいで雨はやまない。それどころか、災害が起こってたくさんの人が困っている。だから私はわがままで、自分勝手で…」
──悪い神様なの。
君はそう言って笑ったが、瞳は涙に濡れていた。
しばらくすると君は言った。
「私、ここへ来るのは今日で最後になるかもしれない」
「何故?」
「だって私、悪い神様だから罰を受けないといけないもの」
「…僕はどうすればいい?」と聞くと、
「何が?」と君は不思議そうな顔をした。
「君のために何もしてあげることができない」
僕がそう言うと君は「ううん、違うよ」と言った。
「最後にあの曲を聞かせてほしいな」
君がそう言ったから、僕は「わかった」と言ってピアノを弾き始めた。
いつもよりも思いを込めた。君から教えてもらったことを全て思い出して。丁寧に、優しく弾いたんだ。
君の奏でる、あの「青」を思い出して。
ピアノの音は雨のようにはじけて消えていく。
そして、最後の一音がついに消えた。
僕の演奏を聴いていた君は笑顔だった。
「ありがとう。とても素敵な演奏だった」
「………」
「最初に聴いたときよりもずっと綺麗だよ。でも最後に一つだけ」
「なに?」
君はすうっと息を吸って言った。
「音色に溺れる─、この感覚を意識してね」
「…そんな感覚、僕にはわからないよ」
「まるで水中にいるかのように、音が遠くから聴こえてくるの」
君はどこか遠くの一点をぼうっと見つめて言った。
僕にはその表情が、まるで夢を見ているかのようにも見えた。
「たくさん練習したら、いつかわかるときが来るはずだよ」
「わかったよ」と僕が言うと、君は突然言った。
「ねぇ、生まれ変わりって知ってる?」
「ううん、知らない」と僕は答える。
「人は死ぬと姿を変えてもう一度生まれてくるんだって。だから」
君は一度言葉を区切り、僕を見つめる。
「私、生まれ変わったらまたここに来るね。貴方に会いに来るよ、必ず。─きっと次に生まれてくるときは神様じゃない、普通の人だろうから」
「じゃあ僕はそのときまで、ここでピアノを弾いて待っているよ」
僕がそう言うと君は言った。
「…そうだ、次にここへ来るときは一緒に太陽の下を歩けるね」
「うん、そうだね」と僕は答える。
「じゃあ、約束しよう。必ずここへ来て、二人で太陽の下を歩こう」
そう言って君は小指を出し、指切りをする。これできっと大丈夫だ。
「それじゃあ私、もう行くね。ありがとう」
君は出口の前で足を止め、くるりと僕を振り返って、言った。
「…またね」
君は雨を映した大きな瞳を細めて、小さく笑う。
背を向けて去っていく君に、僕は「またね」と声をかける。
君との距離がどんどん遠のいていく。
君が雨の中に消えていく。
「僕はずっと待っているから」
君の後ろ姿にそう呟いてみた。
しばらくすると、雨はようやくやんだ。
でも僕が外へ出ることはなかった。
▫ ▫ ▫
私も、もっと太陽が見たかった。
私はピアニストになりたかった。
もっと起きていたかった。
普通の子に生まれたかった。
……神様なんかになりたくなかった。
もし私が普通の子に生まれていたとしたら。
そしたらもっと、楽しい日々を過ごしていたのかな。本当にピアニストになることができたのかな。
私が起きていられるのは一週間に二回くらいだったから、ピアニストになるという夢はもちろん叶えることはできなかった。私が起きている間はずっと雨だった。雨ばかりでたまには太陽も見たかった。
そんな私に《晴れの神様》はよく言うんだ。
「ごめんね、私ばっかり起きていて」と。
晴れの子は何も悪くない。仕方のないことなんだから。
でも、晴れの子と話すのは楽しかった。それに私も太陽を見ることができた。
天気雨って綺麗だよね。
私は最近、ずっと起きている。本当はもう眠らないといけないのだけど、貴方とピアノを弾くことが楽しかったんだ。
雨が降り続いて、川が氾濫した。土砂崩れが起きた。
私のせいだ。私が起きているせいで。
《雨の神》である私が自分勝手でわがままだから。
私は起きている時間が長すぎた。だから、罰を受けないといけない。
神様なんて呼ばれているけれど、雨を降らせる力を持っただけのただの人間なんだよ。
簡単に殺せるんだよ。
《晴れの神様》は私のために泣いてくれた。
私が死んだら次の神様が力を受け継ぐのかな。また違う子が神様なんかにされて悲しい思いをするのかな。
ああ、でも一つだけ。雨を降らせるこの力を持っていていいことがあったよ。
貴方に出会えた。
ある日ピアノの音が聞こえてきたんだ。とても上手というわけではないけれど雨に似合う音だった。
私は白い塔の階段を上っていった。
どんな人が弾いているのかな。その音に引かれて歩いていったんだ。
そのとき私は出会った。雨の降る中、白い塔で一人ピアノを弾く美しい青年。どこか寂しそうな表情でピアノを弾く青年。
それが貴方だったんだ。
青い水の中をもがく。ピアノの音はどこか遠くから聞こえてくるようで。
ゆっくりと沈んでいく。透明な泡沫と共に。
貴方の曲を弾いていたとき、そんな光景を目にしたんだ。
私はきっとその時に、音色に溺れていたんだよ。
▫ ▫ ▫
あの日からもうどれくらいたったのだろうか。君が行ってしまったあの日から。
「いつまで待てばいいのかな」
僕がそう呟いた、その時だった。
風が強く吹いた。嵐が来たようだった。
ガタン、と大きな音が鳴った。それは、塔の屋根が壊れた音だった。
顔に雨がポツリと当たる。僕はようやく理解した。
そっか、もう何百年も経ったから。もうこの塔は古くなってしまったから。
「なら、仕方ないか」
雨は少しずつ僕の体を濡らしていく。
最期にあの曲を弾きたいな。そう思った僕は静かにピアノに指を置いた。
一つひとつの音を紡いで、和音を、曲を作り上げていく。
ピアノはあの日と変わらぬ音をたてる。ポロン、ポロンと軽やかな音色。
その音を聴いているうちに、君との思い出が次々と蘇ってくる。
あんなに長い時間を生きてきたのに、思い出すのは君のことばかり。
君にピアノを教えてもらって、音楽の楽しさを知った。
ずっと一人だった僕の前に現れた君は、まるで太陽のようだった。
そっか。
僕、そんなに楽しかったんだ。
気がつくと僕は水の中にいた。
あれ、なんでだろう。視界が─。
──青い。
揺らめく水の底を小さな泡沫が踊っている。
でもそれは、一瞬の幻想にすぎなかった。
はっと我に帰る。僕はまだピアノを弾いたままだった。曲はまだ続いている。
まさかこれが─、この感覚こそが。
「──音色に溺れる」
音色と音色のすき間に落っこちていく。
音色の海に沈んでく。
そして、溺れてく。
今、やっとわかったよ。
▫ ▫ ▫
「ねぇ、貴方なんで泣いてるの?」
懐かしい声が響いた。まさか。
僕はゆっくりと声の方を見る。
そこに立っていたのは、
──君だった。
鼓動が高鳴っている。
ああ、君だ。本当に君がここに立っている。
姿は変わっても、真っ黒に光輝くガラス玉のような瞳だけは変わらなかった。
「…やっと来てくれたんだね」
そう言って僕は君を見つめるが、君は言った。
「ごめんなさい、私、貴方のこと…知らない」
「別にいいんだよ、僕は」
──君にもう一度会えただけで十分だ。
そう言おうとしたけど、声がうまく出なかった。体がもう動きにくくなっている。
そっか、もう本当に終わりなんだな。
僕はゆっくりと目を閉じようとした。
「待って!」
君の声を聞いて、僕は目を開いた。
「待ってよ、まだ行かないでよ。わからないけど、私を一人にしないでよ」
君がそう言ったから。僕は最後の力を振り絞って立ち上がった。
「そうだった、約束があった」
「約束…?」
「君はもう覚えていないだろうけど…。一つ頼みたいことがあるんだ」
「頼みたいこと…?」
「一緒に太陽の下を歩きたいんだ」
▫ ▫ ▫
外は天気雨だった。雨粒は日の光に照らされて、眩しく輝く。
塔の下は薄く霧がかっていた。
歩く度に僕の体はギシギシと音をたてる。
もう体はとっくに限界だった。
「大丈夫」
僕は心配そうにしている君にそう言った。
ゆっくりと二人で草原を歩いた。
太陽の光が眩しくて、僕は思わず目を細めた。
太陽って、こんなに眩しかったんだ。
だんだん僕の歩みは遅くなり、そして…。
ついに体が動かなくなった。
「ありがとう」
最期に僕は君にそう伝えることができて、本当によかった。
▫ ▫ ▫
「ねぇ、ねぇってば。起きてよぉ」
少女は彼に必死に呼びかけた。彼のことなんて知らない。今日会ったばかりなのに。
それなのに、涙は止まってくれなかった。
ふと、彼の手に何か握られていることに気づく。
「何だろう…?」
それは楽譜だった。さっき弾いていた曲だろうか。
楽譜のすみに何か書かれている。彼女はその言葉をそっと口にしてみる。
「─音色に溺れる」
不思議な響き…。
そう思った彼女の頬を新たな涙がつたった。
その言葉が曲名なのか、それともただのメモ書きなのか、彼女にはわからなかった。
いつの間にか、雨はやんでいた。
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