2、手作りバター
ドクターシェフは狭い厨房の中で準備を始めた。4人は何が出てくるのかと無言で見つめていた。すると、4人の前におためしの一皿が出された。その一皿とは、なんとパンが一切れだけだった。一枚の食パンを4等分したものだった。
4人とも唖然とした。自慢のおためしの一皿、と言うからには、どんな美味しそうな料理が出てくるのかとわくわくしていたが、全くの期待はずれだった。しかし、4人とも“普通のパンではないだろう。何か特別な美味しいパンかもしれない”と思ってとりあえずパンを食べようとした。
「あっ、ちょっと待ってください。これからみなさんの目の前でバターを作りますからそれで食べてみてください」ドクターシェフがあわててパンを食べるのを止めた。
「これからバターを作るんですか、牛乳で作るんですか」栄子がたずねた。
「いや、生クリームで作るんです」ドクターシェフは200mlの生クリームのパックと塩とボールとゴムベラをカウンターの上に置いた。
「こうするとポチャポチャと音がするでしょう」生クリームのパックを振りながら作り方を話し始めた。
「音がしなくなるまで1人10回づつくらいみんなで振り続けてください」カウンターの一番左に座っている弥生にドクターシェフは生クリームのパックを渡した。
「面白そうね、1,2,3・・・10,11,12」数えながら振った。
「あんた、10回づつって言われたでしょ。今度は私が振るから」となりにいた幸恵が弥生から生クリームのパックを取り上げた。4人とも子供のようにはしゃいで振り続けた。2回りして弥生に戻って2,3回振った時だ。
「あれ、音がしなくなった」隣の幸恵に渡した。
「ああ、本当だ」そして栄子も社長も音がしなくなったのを確認して生クリームのパックをドクターシェフに戻した。
「ありがとうございます。疲れたでしょう」ドクターシェフは生クリームのパックを左右から開けて全開にし、ゴムベラを使って中の生クリームをボールに全部入れた。
「あれ、ホイップクリームになっている」栄子が驚いた。
「こんなに簡単にホイップクリームが出来るんなら、泡立て器で一生懸命ガシャガシャやんなくて済んじゃうね。ボールも泡立て器も汚れないから洗わなくていいし」お菓子作りが趣味の幸恵が感心した。
「生クリームをゴムベラで押し潰すように混ぜます」ドクターシェフが混ぜ続けると生クリームはそぼろ状になって、真っ白だった生クリームが少し黄色みがかってきた。
「もう少しすると、突然生クリームの中から水が出てきますから、よく見ててください」4人は生クリームからどうやって水が出てくるのかと不思議に思い見つめていた。すると、突然水が出てきた。
「ほんとだ。たくさん水が出てきた」4人ともびっくりしたように歓声を上げた。
「どうしてこんなに水が出てくるんですか」社長がたずねた。
「生クリームの脂肪分と水分が分離するのは、生クリームをゴムベラで押しつぶすと脂肪球の壁が崩れて脂肪球と脂肪球がくっついて間にあった水分が出てくるんです」ドクターシェフは溜まってきた水を空になった生クリームのパックに捨てた。再び練り始め水が出てくる。これを3回繰り返した。
「これで無塩バターの出来上がりです。これから塩を入れて有塩バターにしますが、その前に無塩バターの味見をしてください」出来立ての無塩バターを少しづつココットにとり、4人にバターナイフと一緒に出した。
「美味しい。バターの風味が何ともいえないね」幸恵の言葉に他の3人もうなづいた。
「今度は少しづつ塩を入れて味見をしながら味を整えます」約1gで丁度良い塩味になった。
「このバターをパンに付けて食べてみてください。これがおためしの一皿です」ドクターシェフは出来たての手作りバターを新しいココットに入れて出した。
「本当にバターになっている。目の前で作ってもらったバターを食べたのは生まれて初めて。こんなバターを食べたら売ってるバターなんか食べれなくなっちゃうね」社長が感心した。
「バターももちろん美味しいけど、このパンも美味しいね。このパンはどうやって作ったんですか」時々自分でパンを焼くことがある栄子がたずねた。
「自家製の天然酵母のパンです」実は小麦粉も塩も水もこだわっていたが、あんまりうんちくを言い過ぎてもよくないと思ったドクターシェフは天然酵母のこだわりしか言わなかった。
「これからのコース料理はバターだけでなく、味噌もしょう油もマヨネーズもケチャップもソースも全て手作りです。5000円になりますが、どうされますか」答えは明らかだと思ったが、確認のため4人にたずねた。
「どうしようかなぁ」社長が天井を見つめた。
「えー」3人が一斉にブーイング。
「冗談ですよ。もちろんお願いします。こんな美味しいバターを作れるシェフだから他の料理も美味しいに決まっているでしょう。みんなお腹がすいているから早く始めてください」社長はせかすようにコース料理を頼んだ。