11、草原酵母は天然酵母でなかった
手紙を読んだ美里は両親を助けようとパン屋『麦わら帽子』の手伝いをすることになった。店の玄関にはいつも人形が立っている。人形の名前は『ばくちゃん』だ。店では1日に何回かパンが焼き上がるが、焼き立てのパンがあることを知らせるために、ばくちゃんの頭に麦わら帽子をかぶせていた。ばくちゃんは麦のばくから名付けた。
美里は、朝早い辛い仕事だが弱音もはかず一生懸命働いた。ある日、美里はテレビで草原酵母は天然酵母だが、純粋培養のイーストと同じように短時間でパンを発酵させることが出来る手軽な天然酵母であることを知った。
こんな便利な天然酵母なら使えると思い父親の直樹に相談した。直樹は以前レーズンを自家培養した天然酵母のパンを試作したことがあったが、酵母が安定せず発酵時間も長いので販売を断念していた。
美里が草原酵母を取り寄せ直樹が試作をしてみると、今まで使っていたイーストと変わりなく使えることが分かったので、全部のパンを草原酵母の天然酵母に切り替えた。
順調にパンが焼けるようになり、販売し始めてから1ヶ月後美里はドクターシェフに自慢の天然酵母パンを食べてもらった。
「これは天然酵母ではない」ドクターシェフは焼きたてのパンを半分に割って香りをかいだだけで食べもせずに断言した。
美里は怒り出し納得がいかなかった。ドクターシェフは明日自分が焼いた天然酵母のパンを持ってくるからそれと比べてみよう、ということになった。
次の日、食べ比べてみると明らかに香りも味も違っていた。その理由をドクターシェフが美里たちに説明しはじめた。
「干しブドウを水につけておくとブクブクと泡が出てきて天然酵母が発酵してくるよね。イーストは干しブドウなどについている酵母の中で、特定の一つの酵母だけを人工培養をしているんだ」
「だったら、どっちも元は同じ酵母じゃないの」美里はまだ違いが理解できなかった。
「1種類の酵母だけが繁殖することなんか自然界では起こりえない現象なんだ。天然酵母は、何種類もの酵母の他に、いろんな種類の麹菌や乳酸菌などがいるんだ。だから天然の甘みや酸みがあるんだよ」
「だから天然酵母のパンは独特の美味しさがあるんですね」直樹はうなずいた。
「だけど、イーストは一種類の酵母の他の菌はほとんどいないんだ。だからパンを膨らますことは出来ても、パン独特のおいしい味や香りが出なくておいしくないから、添加物を使うことがあるんだ」
「人間社会も同じだね。いろんな職業の人たちがいるから社会生活が成り立っているんだよな。もし特定の職業の人ばかりになったら、おかしな社会になってしまうだろうな」直樹が例え話をした。
「さすがお父さん、年の功だね」優子がほめた。
「薬師寺金堂の再建の総指揮をした宮大工の西岡常一さんが“木には強い木も弱い木もある。しかし、強い木だけではよい建物は建たない。大工も同じである。腕のよい大工も出来ない大工も必要なのだ。それをまとめていくのが棟梁の仕事だ”と言っているのを聞いたことがあるんです。自然界の菌の世界と人間社会とに共通点があるんですね」
「勝ち組とか負け組とかいったって社会がよくなるはずなんかないよね」美里は勝ち組、負け組という言葉が大嫌いだった。
「草原酵母は東北地方の草原の腐葉土から見つかった酵母だけど、化学薬品を使って純粋培養したもので製造方法は市販のイーストと変わらないものなんだ。純粋培養したイーストなのに、あたかも天然酵母かのような名前をつけて宣伝しているものは、草原酵母だけじゃなくたくさんあるんだよ」
「そんなイーストだったら天然酵母と言っちゃいけないんじゃないですか」優子は草原酵母にだまされたような思いだった。
「法律では、天然酵母の表示に明確な定義がないから違法とはいえないんだ。みんなは干しブドウなどから自然発酵で作られた天然酵母と誤解してしまうよね」
美里は愕然とし、草原酵母の会社に電話して事実を確かめた。やはりドクターシェフの言うとおりだった。
美里は両親を説得して、ドクターシェフに教えてもらい自家培養の干し柿の天然酵母パンを試作し始めた。ドクターシェフが何とか納得のいくパンが出来るまでの2週間は店を閉じていた。