三四郎島にて【小雪はなぜ命を落としたのか。その考察】
1
弓ヶ浜海水浴場が海開きしてから、ちょうど半月がすぎた。
西伊豆町は夏真っ盛りだった。
堂ヶ島温泉ホテルの眼下の浜辺で、わたしは間宮さんとの久しぶりのデートに心躍らせていた。
今日おろしたてのスタイリッシュなサンダル。
ザクザクと砂利の多い浜を歩く足どりも軽い。ややヒールが高いのが場違いだったけど。
瀬浜海岸の沖合に三四郎島が鎮座しているのが見える。
今にも太陽が沖の彼方に落ちようとしていた。
すみれ色の空には密度の濃い積乱雲がかかり、夜の色が忍び足で勢力を広げようとしていた。
間宮さんとは上のホテルで午前十時に会い、食事し、語りあい、予約していた部屋で夕方まで寄りそって海を眺めていただけだった。
抱かれはしなかった。
一年前、出会って間もないころは激しく愛しあったものだが、ここ最近は身体をくっつけているだけで満たされるようになった。
浜辺をなにほども歩かないうちに、闇があたりを押し包む。
光源はホテルの照明と月光だけ。
わたしたちはその場にうずくまり、花火をすることにした。事前に花火セットを買ってあったのだ。
「花火なんて、何年ぶりかな」間宮さんは白い歯をこぼして言った。「息子が十二歳のころまでは毎年やってたが、反抗期に入ってからは、とんとご無沙汰だな」
「わたしは小学六年の臨海学校以来。コンビニに寄ったら眼についてね。思わず買っちゃった」と、わたしは恥ずかしげに笑った。「暗闇にパチパチ爆ぜる火花。すてきよね。打ちあげ花火も迫力があっていいけど、これはこれで風情がある。わびさびってやつかな。派手なデザインのわりに、あっさり終わっちゃうものもあるけど」
「わびさびか」間宮さんは下を向いて手で口を隠した。「恵茉はときおり、思いがけないことを言うよな。僕は火薬の匂いが好きなんだ。なんだかおいしそうな香りだろ」
「おいしそうって、じっさい食べたら苦いでしょ」
「苦いって、なんでわかるんだい? ひょっとして身体を張った人体実験でもやったことあるの? 恵茉ならやりかねないな」
「まさか」と、わたしはパッケージを開けながら言った。「でも、苦いわよ、きっと。反抗期の優弥くんは来年、高校受験ね。どこを狙ってるの?」
「浜松西高校」
「すごいじゃない」
「苦戦を強いられると思うよ。高望みしてるんだ。いくら言っても聞かない。頑固なところが僕そっくりだ。一度、痛い思いをすりゃいいさ」
「間宮さんって頑固者なんだ」
「反対にいえば、柔らかくはないと思うがね」ちょっとふてくされた様子で揉み手をしたあと、手を差し出した。「ほら、ライターを貸しなよ。火がないことには、花火にならないだろ」
「……てっきり間宮さんが持ってるのかと思ってた」
「今日のデートで、タバコはやってなかっただろ。やめたんだよ。ほら、見てごらん」と、ワイシャツの袖をまくって、たくましい二の腕を見せた。「禁煙パッチまで貼って、努力してるっていうのに」
「だったら万事休す。火がつけられない」
「恵茉らしいや。そんな僕のハートに火をつけたのは君の魅力という火種だったな」
と言いながら、わたしの鼻をつまんだ。
「また、うまいことを言う」
「出会いは去年の夏か。早いもんだ。……こんなこともあろうかと」間宮さんは胸ポケットからマッチを取り出した。まるで手品師だ。「部屋に備えつけのをいただいてきた。まあ待て。なんで必要かと思ったかって聞いてくれるな。君が大事に持ってたビニール袋から、先読みできたさ。もしかしたら必要になるかもと思ってね」
「さすが。先見の明がある」
「じゃないと敏腕営業マンはつとまらない。経験の違いってやつだな」
「わたしのこと、取り柄のない工場勤務ってバカにしたな。これでも食らえ!」
わたしは砂を引っかけてやった。間宮さんはクスクス笑いながら腰を浮かして逃げた。
◆◆◆◆◆
花火はあっさりと尻すぼみに終わった。
三四郎島の方からカップルが中州になった磯を渡ってきたから、気まずさで全部を消費するまえに中断したのだ。
やってきたのは高齢の二人組だった。
間宮さんは三十九歳だし、わたしだって二十八の大の大人。中高生みたいに映るんじゃないかと、恥ずかしくなった。
残った花火をゴミと一緒にビニール袋にしまい、間宮さんがそれをあずかる。
カップルは笑顔で会釈をし、通りすぎた。ホテルの方へ帰っていく。
「今の人たち、島の方からきたらしいけど、向こうになにかあるのか? 中州を歩いてきたぞ」
と、間宮さんは指さした。
「三四郎島があるじゃない。西伊豆町が誇る景勝地が。まさか、同郷に住んでいながら、知らないなんて言わせないから」
わたしは立ちあがって言った。
「三四郎島っていうのか。人の名前みたいな島の名前だな。……いや、よく知らない。そこの一三六号線を通るたんびに眼にしてはきたが、興味をもったことがなかったからな。なんの変哲もない無人島じゃなかったのか?」
「では、教えてしんぜよう」
わたしは腰に手を当て、おどけてみせた。
三四郎島は、沖合二〇〇メートルほどのところにある象島(別名を伝兵衛島)・中ノ島・沖ノ瀬島・高島からなる四つの無人島の総称で、見る角度により三つに見えたり、四つに見えたりすることからこう呼ばれている。とりわけ干潮時には、一番手前の象島まで浅瀬が現れて陸続きとなり、足を濡らさずに渡ることで知られている。これをトンボロといい、日本ではめずらしい現象である。
「この三四郎という名前なんだけど、たしかに人名からとったとも言われてるの。島には悲恋伝説があってね」
「ヒレン伝説だって?」
「沼津出身のわたしにかかれば、お手のもの。それはこんなお話なの――」
2
◆◆◆◆◆
昔、平氏の目を逃れ、三四郎という源氏の若武者が島に隠れ住んでいた。
この三四郎こそ、後白河天皇の家臣、藤原成親の一味の者であった。
治承元(一一七七)年、藤原成親、平康頼、西光、俊寛らは平家打倒を誓い、東山鹿ヶ谷にて討伐のための密議を開いた。
この中の一人、蔵人(天皇の秘書的役職)源行網の密告により西光は殺害され、成親とその一味は遠流の刑となり、もくろみは失敗に終わったのだ。
そんななか、三四郎はひそかに源頼朝と通じ、源氏一門の団結と決起に心血を注いでいた。
ところが三四郎の行動は、韮山の山木判官らの知るところとなる。
危機感を抱いた三四郎は、いったん仁科に引きあげ、堂ヶ島の中ノ島にひそんだのだ。
当時から島は干潮時に陸続きとなって行き来でき、また上げ潮の際には中州を閉ざすことで知られていた。
まさか天然の要塞ともいえる無人島にひそんでいるとは敵も思うまい。三四郎はしばし雌伏に耐え、時節の到来を静かに待っていたのである。
同じころ、仁科庄の豪族、瀬尾行信は、三四郎の人望と志に感銘を受け、陰ながら三四郎を支援し、願望成就を祈っていた。
行信には、十六になる小雪という美しい娘がいた。
小雪もまた、毎日瀬浜が潮を引くのを待っては、三四郎のもとへ食料を届けたり、身のまわりの世話をするため、足繁く通っていた。
恋はするものではない。いつしか落ちるものである。
磁力のように二人は惹かれあう仲となった。
瀬浜の干潮時のかぎられた逢瀬は、若い男女にとって、このうえない至福のひとときだった。
しかしながら、満ち足りた日々も長続きはしない。
頼朝はついに機が熟したと立ちあがる。山木判官、堤信康らを夜討ちにかけるべく、ここに源氏再興の狼煙をあげたのだ。
それは治承四(一一八〇)年のこと。この意思表明は夜のうちに行信のところへ伝えられた。
密使を知った小雪は衝撃を受けた。
愛する男の晴れの出陣がきたという喜び。同時にそれは愛しい人との別離も意味するのだ。
三四郎に書状を届けるため、小雪はとるものもとりあえず外に飛び出した。
夜も明けきらぬうちに、上げ潮になりつつある瀬浜を走った。次に潮が引くまで待っていられなかった。
その判断は若さゆえの勇み足だった。
刻々と潮は満ち、小雪がやっと中州の中ほどまで来たときには、すでに封鎖されたも同然だった。
容赦なく波が押し寄せる。
小雪は書状を胸に抱え、踏ん張った。たちまち草鞋が流された。
必死で渡ろうとした。
が、小雪の抵抗はあえなかった。
大きな怒涛が襲ってきて、波が引いたとき、そこに彼女の姿はなかった。
朝日が白々と輝きはじめたころ、可憐な小雪の亡骸が岸に打ちあげられた。
三四郎の慟哭は聞くに堪えなかったことだろう。
その後、三四郎の運命がどうなかったかは、知る者はいない。
◆◆◆◆◆
「報われない恋か」と、間宮さんは沈んだ声で言った。「昭和の歌謡曲じゃあるまいし、結ばれる仲よりも、引き裂かれるそれの方が人を惹きつけてやまないんだろうが、当人たちにとっちゃたまんないな。あまりにも救われない」
「だよね」わたしも声を落とした。「けっして道ならぬ恋でもなかったのに、おたがい好きあっていたのに、一緒になれないなんて残酷すぎる。いくら争いの絶えない時代だからって」
わたしたちの逢瀬のときも、残すところあとわずかだった。
上げ潮を迎えるように日曜、つまり今日の午後九時すぎには離れ離れになってしまう。
間宮さんは仕事の都合で、月に一度か二度、会えるかどうかだ。
わたし自身、小雪のように命を落とすわけではないが、比喩的な意味で死んだも同然だ。
それほど彼のいない日常は侘しく、ドライフラワーみたいにしおれ、色褪せていた。
明日からまた、機械の一部に組み込まれたかのようなモノクロームの暮らしがはじまるのだ。
三四郎島の伝説は、まるでわたしたちの将来を暗示しているかのようではないか。
いずれこの恋も儚く終わるのは見えていた。
やっぱりこんな話をするんじゃなかったと、苦々しく思えてくる……。
間宮さんは影絵となった三四郎島を見つめていたが、わたしの方を向き、あごをしゃくった。
「今なら島まで繋がってる。ほら――旧約聖書に出てくる、海を切り開いたモーゼみたいに」と、力強く言った。眼が熱っぽく輝いていた。「いっちょ、行ってみようじゃないか。灯りはないが、なんとかなるだろ」
「今から? 足を踏みはずしたらあぶないわ」
「大丈夫。月も出てて味方してくれる。それに記念になるだろ。仕事仕事とかまけてて、旅行につれていけなかったからね。ちょっとした冒険のつもりさ。子供のころから、男どもは無茶をしたもんだ。その延長。あぶないと思ったら引き返すまでだよ」
わたしは戸惑いを隠せない。
いくら地元出身とはいえ、このトンボロ現象がどれほどの時間、続くのか知らないのだ。
すでに潮は満ちはじめているのではないか。白波がさっきより目立つような気がした。
三四郎島にたどり着いたはいいが、島に取り残されてしまう恐れだってあるのに。
「もしものことがあったらって考えないの」
「やばいと思ったら、さっさと撤収すりゃいいじゃないか。長居するつもりはないさ。ちょっと島に渡り、当時の三四郎と小雪に思いを馳せるだけだよ。時間が許すなら、二人の冥福を祈ろうじゃないか」と言い、フォークダンスみたくわたしの手を取った。「どうか僕たちの恋が実りますようにってな」
それは虫がよすぎる話だ。
とはいえ、ここにきて間宮さんへの思いが熱く募ってきた。
たしかに一度ぐらい、こんな冒険をおかしてもいいのではないか。
わたしたちはおたがい口数が少なく、言葉足らずだった。
それゆえ最近は引っこみ思案で、心の芯まで深く踏み込めなかった。もしかしたら島へ渡り、三四郎と小雪の気持ちに重ねれば、なにかを見出せるかもしれない。
クールすぎては、ほんとうに手に入れたい宝物を逃がしてしまうことがある。
激情に身をまかせなくては、つかめないものがある。
今まさにその瞬間なんだと思う。
身体の内側から突きあげてくる静かな情熱。生まれてこのかた味わったことのない激しい思いにつき動かされるまま進むのも、時には必要ではないか。
……もっともそれは同時に、小雪の届かぬ想い同様、悲劇しか待ち受けていないのかもしれないのだが。
3
それでもかまわない。
わたしたちの仲だって、遠からず引き裂かれる運命にあった。
予感はしていた。
彼の奥さんが内偵調査を放っているのは感づいている。
上の温泉ホテル本館六階のコーヒー・ラウンジでひと息ついているときも、怪しい人物がわたしたちをマークしていたのだ。
間宮さんも内心、覚悟を決めているようだ。
どんな覚悟かは神のみぞ知る、だが。
手をつないで干上がった瀬浜を渡った。広いところで幅三〇メートルはあった。
サッカーボール大の岩がゴロゴロして、おろしたてのサンダルでは、いささかヒールが高すぎて足もとが覚束ない。
得体の知れないたくさんの枯れ木が漂着している。まるで島流しの刑にされ、朽ち果てた罪人の残骸みたいに。
中州の中ほどまで来たとき、間宮さんはしゃがんだ。
目ざとく足もとに転がった小さなゴミをつまみあげた。
ピンク色のプラスチックの空容器。イチジクのような形状をしている。
ペコペコと押してみた。
「なんでだろうね」と、間宮さんは不思議そうに言った。「海岸には必ずといっていいほど、使用済みの浣腸の空容器が漂着してるもんだ。いったいどこのどいつが海で浣腸して、排便を促すっていうんだ?」
わたしの熱い思いとは裏腹、どうでもいいことに疑問を抱いた。
思わずわたしは牛の鳴き声を出す。
「ちっともエレガントじゃない。見てよ、島は真っ暗よ。これ以上進むの、進まないの」
「進むに決まってら。浣腸の話題は箸休めのつもりさ」
と言って、それをポーンと投げ捨てた。
かすかな月明かりでは、前方がどうなっているかわからない。
形の異なる三つの島が黒いシルエットとなり、立ちふさがっていた。
よく考えたら、わたしは視力が悪かったうえ、極度の鳥目だった。今さらながら、夜に三四郎島へ渡るのは無謀な挑戦のように思えてきた。
とすれば当時の小雪が、いくら提灯の灯りを手にしたままとはいえ、夜ごと愛する男のもとへ通っていた行為がひどく勇気のいったことに思えた。いかに彼女が健気であり、ハートの強い人物であったことか偲ばれた。
いや――平氏に勘づかれるのを恐れ、もしかしたら灯りさえつけずに島に渡っていたとしたら?
◆◆◆◆◆
島までの道のりは思いのほか遠かった。
しかもたった今、厚い雲が月を覆い隠し、ベルベットのような暗闇があたりを塗りたくってしまった。
一瞬の動揺。
思いがけず、間宮さんの手を離してしまう。
「あっ」と叫んだのも束の間、
「慌てちゃいけない。ここでおたがい手探りし合ったら、よけいに暗がりに入り込んじまう。とにかく僕はなんとか前に進む。恵茉もゆっくり落ちついて前進しろ。きっとつかまえてみせるから。僕を信じて、まっすぐ歩くんだ」
闇の向こうから聞こえ、ためらいもせず、ひとりサクサク歩いていく音が遠ざかる。
……そんな。薄情すぎる。
いや――ひょっとして彼は、わたしを試そうとしているのだとしたら?
今のわたしは盲目になったも同然だ。ちょっと進むたびに蹴つまずく。
学生のころから、ろくに逆あがりもできず、短距離走もビリばっかりで、運動神経が鈍かったうえ、臆病すぎた。
だけど、人生にはここ一番で度胸を示さなければならないときがめぐってくる。
今がそのときではないか。
間宮さんは、どっちつかずのわたしが情熱の塊となって飛び込んでこようとするのを期待しているんだと思う。
そう信じたい。
眼の前はタールをこぼしたかのような濃密な暗黒が広がり、まるっきり見通しが利かない。
それでも間宮さんの言葉を信じて、両手を伸ばし歩いた。
胸に忍び寄ってくる恐怖を払いのけ、ありったけの勇気を総動員して足を交互にくり出す。
思えばずっとわたしはこんな暗闇をさまよってきたのだ。
遠くにかすかに見える光を頼りに、手探りで生きてきた。
ほかにも楽な手段があったはずだ。
現に優しくしてくれた男性は間宮さん以外にもいた。
ふだんは自動車部品工場の冴えないパート社員の、流れ作業の一検査員にすぎなかった。
工場内では眼鏡をかけ、無個性な防塵服にマスク姿なので、誰も気にもとめやしないと思っていた。
にもかかわらず、ときおり仕事が終わったあと、思いの丈をぶつけられたことがあった。
姿を隠して没個性に埋没させたとしても、あなたの魅力を隠しとおすことはできない、と告白され、同じ部署に居座るお局のいびりから守ってもらったこともあった。
なのに、そんな好意を無下にして、わたしは間宮さんだけを追った。
間宮さんにこだわることにより、多くの人を傷つけた。己が気持ちのおもむくまま暗中模索をしてきた。
エゴすぎると思う。
もしかしたら選んだ道が、そもそも誤りだったのでは?と、不安が頭をもたげることだってなかったわけじゃない。
平氏に三四郎の居所が露見されるのを恐れて、あえて提灯は手にせず、では小雪はなにを目印にこの中州を渡ったのだろうか?――わたしは源平の戦いのさなかに咲いた一輪の花に同調しようとつとめた。
いや、そもそも間宮さんに悲恋伝説を語ってきかせた時点で、わたしはすでに魂レベルで感情移入していた気がする。
十六歳の、しなやかな命を迸らせた小雪に。
光?――そう、わたしも人生の冷たい暗黒期にありながら、一条の光をたしかに見たのだ。
小雪だって、それを頼りに渡ったはずだ。
そうじゃないと、人は行き場を失い、いとも簡単に道を踏みはずしてしまう。この寒々としたご時世、いったいなにを拠り所として生きていけるというのか。
もしかしたら、羽虫が誘蛾灯に群がるような罠だってあり得るかもしれない。それでも信じずにはいられないのだ。
この愛に賭けたい。
不器用なわたしには、それしかないのだ。カゲロウの命が儚いほど短いように、短いなりに命を燃焼させたい。それがいけないことなのだろうか?
三四郎が潜伏していたとされるのが、象島の次の中ノ島の山頂付近だと言われていた。
だとすれば、トンボロが起きる時間帯に、なんらかのシグナルを送っていたのではないか。
潮が引いたときだけに許される恋人たちの時間。
源平合戦の渦中にあり、いつ討たれ、若い命を散華させるか明日をも知れない身。
なおさら燃えたはずだ。
そんな激情の逢瀬を重ねるため、示し合わせたかのように三四郎から合図したと思う。
一方、書状を渡すため夜の中州を走った小雪の心中はいかばかりだったか。
愛しい人の晴れの出陣を早く届けたい気持ちと、男が命を落とすかもしれないという悲しみ、不安がせめぎ合う。
複雑な思いを抱え、彼女は愛する人の元へひたすら走った。
抱擁を交わしたいくつもの夜と同じように、走らずにはいられなかった。
激しく燃え盛る恋に歯止めなどかけようはずもない。
小雪の場合、すでに上げ潮の途中だったにちがいない。さすがにこんなタイミングで渡ったことはなかっただろう。無理は承知のうえだった。
何度も波が小雪をさらおうとした。
書状だけは濡らすまいと、胸中に抱き、両脚を踏ん張って耐えた。
そのうちひときわ大きな波が襲いかかった。
小雪は懸命にこらえた。
が、致命的な次の一波が踊りかかった。
ついに小雪は力尽き、大きなうねりに飲み込まれた。
しょせん二人の恋仲など、戦の時代の激浪のまえに、木っ端のようにひと飲みされたも同じだったのだ。
4
わたしたちの関係も、遠からず引き裂かれるだろう。
そして離岸流という名の残酷なうねりが、罪を犯した者を遠くまで追いやろうとしているのだ。
――待って。
今思いついた。
現場に立ち、じかに肌で感じることにより、直感が働いたのかもしれない。
もしかしたら小雪は、道中気持ちをひるがえし、あえて書状を届けまいと、みずから死を選んだのではないか?
愛する人を戦で失うぐらいなら、いっそ自身が犠牲となり、出陣を伝えないことで三四郎の命が繋がると考えたのでは?
心優しい小雪なら、そう考えたかもしれない。
間宮さんにとって、わたしはどういうポジションにいるのだろうか?
間宮さんには大学時代から十九年連れ添った奥さんがいた。
反抗期ながら優弥くんというバスケットのうまい自慢の息子もいる。
かたやわたしごときは、どれほど重要なウエイトとして占めているのだろうか。
彼の家庭を壊すのは傲慢な発想だ。とても臆病者にはできない。
だけど、この愛を貫きたいと思うのも自己保存本能のなせる業だけではないはずだ。
わたしだって小雪同様、走り抜けたい。
それとも、潔く身を引くべきなのか?
こんなに想っているのに、肝心の間宮さんの気持ちを推し量ることができない。
わたしもまた、間宮さんの人生を守るために、大波にさらわれるのをあえて選ぶべきなのか?
女同士の醜い争いになるくらいなら、いっそのこと滅びの道を選ぶのも華かもしれない。それもひとつの愛の形ではないだろうか。
彼の内側で、いつまでも美しく若いまま刻印されるなら、そんな美意識のまま立ち去るのもありかもしれない。
女なら、老いさらばえ、しわくちゃになって、モズの早贄にされたカエルみたいに干からびた姿を好きな男にさらしたくはない。
左手に象島を見ながらすぎ、中ノ島に近づく。
あいにくと中ノ島まではトンボロは続いていないが、水かさはたかだか知れているので、なんとか歩いて渡れそうだ。
それにしても、間宮さんはどこへ行ってしまったのか?
――え?
待って。あれはなに?
中ノ島は標高五〇メートル前後ながら、山頂付近におぼろげな灯りが見えた。
あれは民家の灯りではないか?
そんなはずはない。
三四郎島の三つの島はれっきとした無人島のはずだ。人が住むには適していない。
まさか間宮さんが超人的な身体能力と速さをもってして、あそこまで一足先に駆けあがり、灯りをつけたというのか?
ありえない。
そのとき、ほぼ同時に、左右の沖合から白い波頭が低い塀みたいに押し寄せるのが見えた。
ごうごうと水音を立て、黒い海水が逆巻きながら向かってくる。
わたしは逃げることもできず、その場に踏ん張るしかない。
一波はどうにか踝を濡らすだけで済んだ。
矢継ぎ早、沖の方で新たな第二波が生まれ、近づきつつある。
心臓が早鐘を打つ。
いつまで堪えることができるか、心許ない……。
やはり満潮が来たので、さっきの年老いたカップルは引きあげていったのだ。
このままでは本当に小雪の二の舞になってしまう。
中ノ島の山頂の灯り目指して渡るべきか否か、迷った。
それとも間宮さんから身を引くために、いっそ波に飲み込まれるべきではないか。
美しくも、独りよがりでエゴイスティックな自己犠牲――。
身悶えるようにためらった。
さっきまで彼のぬくもりと繋がっていたのに――死にたくなんか、あるもんか!
生きたい。
ほかのすべてを失ってもかまやしない。
どんなに後ろ指さされようとも、間宮さんだけは失くしたくない。
間宮さんは空気の淀んだ霊廟に吹き抜けてきた風。
死んだも同然だったドライフラワーみたいなミイラのわたしに息吹を注ぎ込み、命を宿してくれた。
間宮さんこそ一条の光。
絶望のマリアナ海溝に沈没したままだったわたしを引き揚げしてくれた救いの船。
またしても、さっきよりも大きな第二波が襲いかかってきた。これも左右から挟み撃ちの恰好で。
死の怒涛はむき出しの膝小僧まで削りあげ、波しぶきで洗顔され、おかげでわたしは我に返った。
どうやらグズクズしていられない。
いつまでも内省の湿地帯にはまり込んでいれば、いずれ海の藻屑と消えるだろう。
今こそ決めなければならない。
――と、そのときだった。
どこからともなく男性の声がこだました。
頭上から、おーい、おーいと呼ぶ声。あいにく間宮さんのそれではない。
中ノ島の灯りを見る。
まちがいない。
急な斜面の、踊り場になった猫の額ほどの平地に、粗末ながら庵が結んであった。
庵のそばで篝火を炊き、かたわらで誰かが必死に手を振っているのだ。
わたしは髪から耳を出し、手をパラボラアンテナの皿のように添える。
――聞こえる。
「小雪! 小雪――――ッ!」と、人影がこちらに向って叫んでいた。声を嗄らして叫び、なかば裏声になっていた。「拙者は二度とおまえを失いとうない。小雪、こっちだ、はやく逃げろ! 走れい、小雪!」
眼を見開き、つぶさに見た。
在りし日の三四郎の姿を。
直感でわかった。無精ひげがはえて憔悴し、みすぼらしい襤褸をまとってはいたが、まぎれもない伝説の三四郎その人が時空を超えて佇んでいた。死にもの狂いの形相で声を嗄らし、折れよとばかりに車のワイパーよろしく手を振っている。
なぜあの人は、この時代に現れたのだろうか?
生と死が交錯するとき、そんな奇蹟が起こるものなのか。
それとも愛する人を死なせた悔恨のため、いつまでも現世にしがみついているというのか――。
ためらっている場合ではない。
あの庵めがけて登るべきではないか。
いや、小雪は三四郎を生かすために、あえて死を選んだのだとすれば――。
間宮さんには守るべきものがほかにあった。
わたしだけを見てくれるとはかぎらないし、守るべきものを捨て、破壊してしまうことは本意ではない。
不幸になる人たちがあってはいけない。
事を丸くおさめるには、やっぱり身を引くことこそ最善の選択だろう。
わたしはひどく混乱している。
わたしは恵茉なのか、それとも小雪なのか。
それともわたしは――。
わたしはあの人と――。
「小雪――――ッ!」と、島の人影は半身を折りながら叫んでいる。「こっちだ。ここへあがってこい。真下の磯から左に回り込め! 道があるのだ! 頼む、こっちへまいれ! 小雪、おまえだけは死なせたくない! おまえのいない人生なぞ耐えきれぬ!」
心ここにあらずの心境で、トンボロが途切れた磯へ踏み出す。ふくらはぎまで没するほどの深さだ。
わたしは小雪なのだろうか?
書状を抱えたあの日の純真な十六の乙女。三四郎が勘ちがいするのも無理はない。
わたしは両手でメガホンを作り、
「今すぐ行くから! 今度こそ離さないで!」
と、叫んだ。
そうだ。
間宮さんをあきらめ、わたしは三四郎と結ばれるべきではないか?
それもいいと思った。
愛に生き、愛に殉死するのもいとわない女、小雪として生きる。
誰も傷つけず、そしてみんなの思いが報われる――。
みんな?
間宮さんは?
それで納得してくれるだろうか?
「はやくせい、小雪! 大波が連続で来るぞ!……待ち侘びたぞ! よくぞ闇の中をまいった!」
「もう暗闇を渡るのはこりごり」
と、わたしはつぶやき、中ノ島に向けてザブザブと水の中をかき分けて進む。
それを邪魔するかのように、獰猛な第三派がぶつかってきた。
恐るべき水圧でもっていかれそうになったが、なんとか踏みとどまった。わたしの下半身を巻き込み、体温をごっそり奪っていった。
「がんばれ小雪、岸はすぐそこだ。もう離さぬぞ! 二度も死なせはしない! 永遠に一緒だ!」
「……待ってて、必ず行くから!」
わたしは命を削るような寒さに震えながら叫んだ。
歯の根が合わないほどの冷たさ。
この震えは彼でないと温められない。
――彼? どちらの彼?
そのときだった。
「こら、恵茉! そっちへ行くんじゃない。なに考えてる、向こうに中州はないぞ!」
と、背後で鋭い声がした。
反射的にふり向いた。
左の方角に、ライトアップされた堂ヶ島温泉ホテルの皓々たる灯りが見える。
今、ひとっ風呂浴びてホテルでくつろいでいる客たちは、まさかこの時間に、わたしたちが命がけの遠征にきているとは夢にも思うまい。
上げ潮が中州を閉ざそうとする時間だった。
「見な、僕はここだ」と、右側のアングルになった象島の根もとで、パッと別の灯りがともった。暗闇の中、小さな燈明が爆ぜる。リアルな希望の光だった。「なに独り言を言ってんだよ、恵茉。こっちだ」と、間宮さんがいたずらっぽく言った。火をつけた手持ち花火から、パチパチと色とりどりの閃光がホウセンカの種のようにはじけ、香ばしい煙とともに間宮さんの姿を浮かびあがらせた。あざやかな笑顔が隈取られている。「君がちゃんとまっすぐ歩いてこられるか、陰で見てたが、なかなか怪しいな。やっぱり僕が見ていないと、あさっての方向に向かっちゃいそうだ」
「間宮さん」
「恵茉。しっかり歩け。君はひとりじゃ生きられない。誰かがついててやらないと。まったく世話が焼けるな。気になって放っておけない」
「間宮さん」
「小雪! 小雪――ッ! 戻れ、小雪――――ッ!」
悲鳴に近い三四郎の哀れな声がこだまし、風に流され、うつろに反響した。
どうやら間宮さんには届かない声らしい。
「小雪は大波にさらわれたかもしれないが」と、間宮さんは中ノ島をふり返りながら言った。「恵茉、君だけは奪われやしない。大丈夫、僕が防波堤になってやる」
と言い、わたしを抱きしめてくれた。
了