春愁のダイアローグ
いくつもの季節、いくらも繰り返された。
「春が芽吹きの季節なんてさあ……、うそだと思うわけよ。春なんて、絶望の季節だよ」
あの子が無邪気に嘯いていた、本当の意味でそれに気づいたのは。
“春愁”
その言葉を知ったのはいつだったか。
飽くこともなく、この季節はいつまでも終わりなど迎えはしないと、裏切りはしないと当然のように信じていた季節は。
きらめきは、そこかしこに溢れふり落ち、はねて舞い上がり。
わたしたち二人のセーラー服の襟に袖に、スカートの裾に。なにもかもが映し出され宿っていた、二人のその姿に。
在りはしなかった。
春愁など。
絶望など。
気づいたときがわたしたちの終わりだった。
だから終わらせておくべきだった。
しあわせに包まれた季節が終わったと、気づいたあのときに、わたしたちは世界を終わらせておくべきだった。
二人の世界に二人だけの終幕を下ろす。
しあわせな終幕は、それだけでしかありえなかった────。
*
「だからあたしが殺してあげるって言ったじゃん」
あっけらかんとしたものだ。貴美子はため息を天井に吐いた。彼女の横顔を浮きあがらせる光は、淡くさえあった。
ふっくらとした頬にあたる光は、その輪郭に沿って星をまぶしたようだった。彼女の無邪気さに、光が誘われてきたのだと疑いなどしない。彼女を知らないひとが見たら、たぶんそう吐息するのだろう。
“天使みたい”
彼女を見たひとはみんな、彼女のことをそう表現する。事実、わたしだってそうだった。
天真爛漫で、黒いけれど光を通すショートカットの髪はくるくるしていて、白い肌にはそばかすがあった。だから髪の毛が短い“キャンディ”みたいだねって、出会って数週間目くらいにそう言ったことがあった。教室の机に頬杖をついて、足を広げただらしのない恰好で。
そこから、わたしと彼女の間でだけ、彼女は“キャンディ”ってあだ名になった。
“ねえねえお嬢さん。君はいったいいくつなの?”
彼女はきょとんとしてから、ニヤニヤしてそうおどけた。
口は小さいはずなのに、そのときの顔は妖怪の口裂け女みたいに見えた。わたしはぎょっとして、そのあとまじまじと彼女の顔に見入った。
このとき、この子に負けたくないって妙な気持ちが湧いて、目をまんまるに開いてわたしは彼女の鼻に自分の鼻を近づけた。
“昔の少女マンガってさ、終わり方が清らかも清らかよね”
彼女は驚くどころか、さらににんまりと笑みを深めて、
“キャンディと恋人が、影絵みたいにシルエットになってて手をつないでるっていう画でしょ?”
“うん、確かそんなのだったよ。どうして知ってるの”
“お母さんが読んでたのが家にあるの。見に来たいかい? ちなみにお姉ちゃんも全巻読破してるよ、すごいでしょ”
わたしはこのとき、彼女に勝てないって思った。得意気な彼女の表情に抗えるものがどうしてかわたしには一切なかった。悔しまぎれに、
“目ぇ、開けすぎて痛い。涙でる”
彼女の鼻先でぼやいた。
彼女ははじかれたように反応して、上向いてケタケタと笑った。えゆちゃん、おかしい、変なの。
ショートカットのくるくるの髪が上下にゆれて、彼女のセーラー服の襟も、小刻みにゆれた。彼女はいつまでも笑っていた。
教室の開いた窓から風がそよいできて、桜が一花弁、わたしたちの間を流れた。
“桜って、うっすい紫色にもみえない?”
“みえる、わかる。白色と、薄紫と、ピンクを混ぜたみたいだなって思ってた”
彼女がそう言ってくれたことが嬉しかった。
距離が近かったから、日が落ちた頃だったから、なおさらそう見えたのかもしれない。このときのわたしの記憶は、薄紫と、白と、桜色の記憶だった。
二階の窓から折り重なって見える桜の木は、静かに音もなく花を散らしていた。
二人で桜の光景をみていた。
窓からだと端だけ見える自転車置き場に、ひとひら、ひとつ。ひとひら、ふたつ。
アスファルトに、生き急ぐように落ちていった。
桜の木の間を、学ランの男子生徒が自転車で通っていった。桜の枝で顔は見えなかった。
高校一年生のそんなことを、よく憶えている。
日が落ちて、うす青い景色と、アスファルト。そこに被さる桜が、静かに散っていた。
アスファルトがほの明るく薄紫色になった。桜が、散っているから。
ひらひらと、白く、桜色で。落ちると、ほの明るく、薄紫。
“春愁”
その言葉をあの当時知っていたら、もしかしたらこの場面はそう表すのがもっともふさわしい、きっと。
だけど、そんな言葉は知らなかった。そんな思いも知らなかった。
知らずにいられた。
だからとても、しあわせだった。
*
「もう家を取り壊すからって、貴美子がだれかの人生まで壊そうとしなくていいんじゃない? あんまり面白くない冗談よ」
「これが冗談だと思ってるわけ? そんなの薬にもしたくないわよ」
ふくれっ面の横顔で、貴美子は天井から目を戻した。
すっかり何もなくなった貴美子の実家の屋根裏部屋に、わたしたちはいた。
明りとりの天窓からは春の光が差し込んで、かつては薄いクリーム色のカーペットが敷かれていた床に、天窓のかたちの枠をつくっていた。糸くずを縮めたみたいなほこりが浮遊して、貴美子のショートカットの髪にもついた。貴美子が立つ場所は、彼女が使っていたベッドが置いてあったところだった。春の光はわたしたちの髪にも降りていた。
光をとおして煌めいていた黒髪は、わたしが記憶している彼女の一番綺麗な艶をうしなっていない。そばかすこそ薄くなったけれど貴美子の頬も唇もふっくらとしていた。
いきなり貴美子は唇をべろりと舐めた。
「なんでここに来たか、知ってるくせに」
「最後に見ておきたかったからでしょ。ようやく買い手がついてよかったじゃない」
「事故物件だからね。バナナの叩き売りみたいなもんよ」
「そのとおりだから反論のしようがないけど。あえてそんなふうに言わなくたっていいじゃない」
「これでも綺麗にしてたから、底値ってわけじゃないよ。結局取り壊すことになったし、もうどうでもいいけどね」
一瞬だけ、息がつまった。
貴美子はこの家を、掃除したり業者を呼んで修繕したりしていた。定期的ではなく、一年ごとだったり、一年に二、三回だったりした。放ったらかしにするときは二年も三年も放ったらかして、存在を忘れたのかと思うほどだった。けれど掃除するときは、憑りつかれたみたいに無我夢中で、猛然と、ひたすら家中の掃除をしていた。どれだけ暑くても寒くても、日がな一日、食べることも寝ることもせず。
掃除が終わったあとは幽鬼のようになっていた。唇も髪も肌もガサガサで、そばかすのある顔はいっそう青白くて、どこを見ているのかわからないのに目だけは異様にギョロっと開いていて。フラフラと家から出て、信号も見ずに道路を渡ろうとして車に轢かれそうになったこともあった。
荷物が散乱して、黄色いタオルやらエメラルドグリーンのスポンジやら黒っぽいアスファルトに絵具をばら撒いたみたいに貴美子の周りだけ鮮やかだった。
運悪く轢かれた歯ブラシは、柄がひしゃげて毛がボロボロにくずれていた。
“たはは……、おねーちゃんの髪も、こんなふうだったねえ”
ギョロギョロした目で、口からよだれを垂らして、顔は引き攣れてさながら狂った犬だった。
このときばかりは天使ともいえる姿は消えていた。
“いまのキャンディもだよ……”
そう言ったら思い切り頬を張られた。バシッと、かがんでいた身体のバランスを崩すくらいに。
“いっ、たぁい……”
わたしは甘えた猫みたいな声を出した。
貴美子は唇をてらてらと光らせてギョロギョロした目でわたしを怒鳴りつけた。
“なんで死ななかったんだよお! なんでだよ、なんでだよ、なんで生きてんだよおぉ!”
髪を振り乱して、バシバシとアスファルトを叩いていた。
わたしは貴美子の気の済むまでそうさせていた。どれだけ人目があろうと彼女の手がどれだけ傷つこうと。
“……だれが?”
貴美子は呆然とわたしを見つめかえした。
“あんたが? わたしが? それとも、わたしたちが?”
殴られて悔しかったから、せせら笑って訊いてやった。貴美子が憎かった。
貴美子はほんとうに不思議そうに、ほんとうに悲しそうに、
“どうして?”
と訊いた。
“だって、止められたから”
“いつ?”
“……春にだよ”
“だれに?”
“……みんなに”
“みんなって?”
“憶えてるでしょ、わたしのお母さんとか、先生とかにだよ”
*
「あんまり傷んでないね……」
階下につづく階段の手すりを触って、わたしは天窓を見あげた。
あの事件があってからもずっと貴美子の所有だった家を売ってはどうかと、仕事柄、わたしは勧めた。
貸家にするか家を取り壊して土地ごと売るか、どちらにしても買い手がつく望みなんて薄かったけど。
東側にある窓は、春の光を目いっぱいに採りこんで、きらきらと床にその粒子を撒いている。
あの日みたい。
セーラー服を着たまま貴美子はベッドに寝ていて。微笑んで目を閉じて、ショートカットの髪はくるくるとしていて。
わたしたちの小指には赤い糸が結ばれていて。
「恵由。恵由はさ、死んでほしくないの? あの男にさ。あの男のせいで、恵由の夢は終わっちゃったじゃん。でも叶えてないことはもうひとつあるでしょ。あたしが刺してあげるよ?」
“あの男”とは、わたしの元婚約者のことだ。彼女が殺してあげると言ったのは、彼のこと。
「貴美子が刺したら、意味なくなっちゃう。それよりも、殺すよりももっと、死ぬよりも苦しい思いをしてほしい……かな」
たぶん、今わたしは微笑んでる。
「……それが願い?」
「うん、でもね、その方法はちゃんとあるから大丈夫」
「方法ってなに?」
貴美子はまた唇を舐めた。
「貴美子……、唇なめるのやめてよ」
「なんで」
「……綺麗でいてよ、“わたしのキャンディ”」
貴美子はちょっと目を見開いた。それがおかしくて、くすくす笑った。
貴美子は顔をゆがめて、悔しそうに、どこか泣きそうにしていた。
天窓からの明るい日差しが、わたしたちに静かに降っていた。
「ずるいじゃん、そんなの……。高校生のあたしはもういないんだよ」
高校生の貴美子は、きらきらと光っていた。高校生の彼女は、唇を舐めたりなんてしなかった。
わたしの好きな貴美子は、彼女自身によって変えられてしまった。
家の掃除をしたあとの幽鬼のような姿だって、ほんとうは憎かった。
“ふたりが綺麗なときに、綺麗なまんまで……、……”
唾棄すべきような感傷が、軽やかに空気をゆらした。
夢を夢のかたちのまま抱きしめられていた季節など、とうに過ぎたのに。わたしの婚約が破談になる、そのずっとまえから。
「大丈夫、必要ないよ。だってね、まとめて叶うから。わたしのほんとの夢は」
貴美子はわたしを窺うように目線を寄越した。
そしてまたふくれっ面になった。わかんない、ちゃんと話してよ、と。
この場の空気は深刻なものでいいはずなのに、貴美子のアンバランスさは成り立っていた。
「“面白くない冗談”なんて言って、ごめんね」
不思議なことに、天使は目を見開いた。天使が純粋に驚く表情の見本がそこにいる。
「なによ、さっきの話もう忘れちゃったの?」
「……なんでそんな意地悪言うかな」
「だって、あたしが殺すなんて言うから。“綺麗なまんまで”って、一応むかしの約束だったし」
「そうだったけど……。でも、いまさら、なに? それに関してはもう叶わないよ?」
「最後だしね。ちょっと……、感傷的になっちゃったかな」
「そっか。時間、経っちゃったね……」
「うん……。そうだね」
「じゃあもう、言わなくてもわかる? 聞かなくていい?」
春の光のなかに、天使がいる。その天使は、春を手のなかで逆さまにして、自然の均衡を壊したくてソワソワしている。どこか、不安げに。
「ここに来た理由でしょう? ほんとう、そんなの今さらよ。ここに来る時期を見計らって、ちゃんと計画してたんだから」
「計画?」
「騙し討ちみたいになっちゃうけど、ごめんね? 隠しててごめんね。でもね、どうせ関係なくなるから、いいでしょ?」
「恵由! わかんないってば。ちゃんと話してよ」
「怒らない?」
「そんなの聞いてみなきゃ……」
そう返して貴美子は少し黙り込んだ。黒髪のショートカットのうえを、春の光が動いた。
「ううん……。どうせ関係なくなるんでしょ。それにここに来た時点で成功したも同然なんでしょ?」
「さすが。“頼もしいじゃん、親友”」
「やっぱり恵由はずるいよ」
貴美子はまたふくれっ面になった。
「なんで?」
「だって、いつまでもかわいい」
今度はわたしが驚いた。
「かわいい……? わたしが? それを言うならあんたでしょ」
「ちがうよ、あたしはちがう。あたしは、意識して無意識でいなきゃいけなかったから、恵由とはちがう」
高三の卒業式の日、あのことの直前に起こった事件で、貴美子は純粋な天使ではなくなった。意識して努力して、無意識のうちにその風貌を維持しようとしていた。彼女の姉の遺体の様子を、思い出してしまわないように。
「それは知ってたよ。頑張って無意識で綺麗にしてたっていうのは。でもそんなふうにわたしのこと思ってたなんて、知らなかった。わたし、高校のときはずっと、明るくて天使みたいなあんたに負けてるって思ってたから。別にそれでよかったけどね……。それにしても、いまさら言うなら、もっと前に言っておいてよね」
「なんで? もう関係なくなるでしょ?」
「……死ぬ直前にわかってもねえ。あんまり感慨がないじゃない」
「高校のときに言ってたらよかった?」
「どうだろ。それはそれで忘れちゃってたかも」
「でも、たぶん言ってたよ。あのときの意識がなくなるその瞬間に、たぶんきっと」
「それだと、わたしに伝わらないんじゃないの?」
「うん、だから自己満足」
「それ、ひどくない?」
「……無邪気だったからね……」
光に浮遊している小さいほこりが、また貴美子のみじかい髪についた。
“春が芽吹きの季節なんてさあ……、うそだと思うわけよ。春なんて、絶望の季節だよ”
*
“お互いの小指に、赤い糸を結ぶのは?”
――――ロマンチックだねえ。あたしは電車の中は嫌だけど。
“最後は家に火をかけられた、名声を手にしたジュエリーデザイナーみたいなのは?”
――――たぶん、美しく終われないと思う。焼死なんて阿鼻叫喚だよ、声が枯れる限界まで叫んで死んでいくんじゃないかな。
“それとも集団で海へ入った女子高生たちのように?”
――――題材はいいかも。でもお互いが離れないように紐かなにかを胴体に巻きつけておかなきゃ、全然別々の場所に流されちゃうんじゃない?
“むずかしいねえ”
――――生まれてくるのも簡単じゃなければさ、死ぬのもきっと簡単じゃないよ。
“キャンディ、それ偉い人の名言格言みたいね”
――――えゆちゃんのためならさ、いくらでもあたしが考えてあげようじゃないの。
“頼もしいじゃん、親友!”
恋人たちが睦みあうように。
当時再放送していたドラマの主人公たちのラストを、図書室で読んだ小説のヒロインの最期を、あるいは脚色された事件の終局を、わたしたちはさざ波のようにひそやかに共有していた。
そこには死の匂いも、絶望の影もよぎりさえしない。そんなわたしたちが死に色をつけていく。なんの秩序もなく、無邪気に。専横に。
毎日ではない、けれども飽くことなく繰り返された。わたしたちだけの問答。
“桜がうつくしいのはわかる。散るからこそなおうつくしいっていうのも。花は咲き、緑は萌える。春が芽吹きの季節っていうのは、もはや定説だよね”
“定説っていうか、自然の摂理よね?”
“青少年の主張らしく、そこに一石を投じたいと思うわけなのよ”
“……キャンディがほんとうに高校生なのか、そっちのほうがわたしは疑問なんだけど”
“まあまあ、細かいことはいいんだよ。「私は去ってゆく夏であり(※1)」って、あるじゃん?”
“なんだっけ、ハイネ? 授業でやったやつでしょ?”
“そう。それでね、夏を春にかえても意味とおるんじゃないかあーと、ちょっと思ったんだけど。どう?”
“「去ってゆく春」……?”
“我が世の春、とかなんとか言うじゃない? だから「去りゆく春」もどうかなーと”
“待って……。たしかハイネのその詩って、死ぬことがわかっている恋人か友だちのことを夏にたとえて言ってるんじゃないの? 「お前は枯れてゆく森だった」って続くよね”
“「私は去りゆく夏であり、お前は枯れゆく森だった」だね。教科書の訳と、図書室においてあった詩集の訳者がちがうんだよ。旧いほうのが、なんかしっくりくる”
“そうだったの? どちらにしても、我が世の春とは意味ちがわない? それって自分の天下とか、思い通りになってるって意味だよ。だとしたら――”
“ああっ! わかった、うん。それなら変だね。違和感ありだね。けどあたしはさ、「枯れゆく生命」を見送って次の季節を迎えたひとの気持ちを考えたわけなのよね”
“次の季節を迎えたひとの気持ち?”
“うん。夏が終わって秋になって冬になるでしょ? 冬は凍てつく季節だし、もともと厳しい季節だってわかってるじゃん。だけどあったかくなって、春のいろんな花が咲いても新しい芽が出ても、前の春にいた大切なひとはもういないんだよ。いろんな命が生まれるのにだよ。それってさあ、絶望じゃないかと思うわけよ”
“ううんと? つまり、さっき言ってたことになるの? 春が、定説を……”
“春が芽吹きの季節っていう定説に一石を投じたい! どうかな?”
“じっさい、自殺も多い季節だもんね”
“ちがうっ! そういうことを言いたいんじゃなく! もー、こっちは真剣に考えてんのに!”
“ごめんねってば。きゃぁっ! ちょっとぉ、スカートめくんないでよ! わかったってば! キャンディなりの新しい格言ってことでいい?”
“ふっふふ。高校生にしては、なかなかやると思わない?”
“あぁっ、ここ、まだ襞がめくれてる! もーっ、これアイロンあてるの大変なんだよ!”
“ねえねえ、どうなの?”
“えぇ? うん、そうだねえ……。春は絶望の季節、ねえ……”
“うん、いいでしょ”
*
“ねーねー、「自殺する権利がある」っていった小説なんだっけ”
“えっ、そんなのあった?”
“あったよー。一緒に暮らしてるおかあさんがスープをのむんだよ。そういう場面があるの。最期は自殺か心中しちゃうひと……”
“え? 小説の最後が自殺で終わるの?”
“ああ~、待って待って思い出すから。語り手がいて、そのひとは死なないんだ。そのひとの弟が、それでそれを書いた小説家も……あっ。太宰治だ”
“太宰治かぁ。最期、死んじゃうね。心中だったっけ”
“なんか、みーんな死んじゃうよね”
“それ、授業で習うたび衝撃なんだよね……。芥川龍之介でしょ、太宰治でしょ、三島由紀夫に、川端康成。服毒自殺、入水、割腹自殺、ガス自殺”
“ハイネは死なないよ。あ、死んだけどね”
“最後まで生きるんだね。キャンディはさ、どうなの?”
“どうって、なにが?”
“死んでみたいって思わないの?”
“思うよ、だってさみしいもん”
“わたしたち、まだ高校生だよ?”
“……ひとりで生きていけたらさあ、「さみしい」なんて思わなくなるのかな”
“ひとりで生きていきたいの?”
“んー、恵由はどう?”
“高校を卒業することもまだ先のことなのに、ぜんっぜん想像つかない”
“あたしは、死ぬときはひとりは嫌なんだ。恵由は夢ってないの?”
“そりゃあ、好きなひとと結婚することよ”
“……それだけ?”
“なによ、悪い?”
“別にぃ”
“どうせ、夢見がちだとか言うんでしょ。いーじゃない、今の恋は叶いそうにないんだし、未来に夢見るくらい……”
“そうじゃないよ。結婚したら、どうするのそのあと? ずうっとラブラブでいられたらいいけどさ。ほら、もし旦那が浮気なんかしたら?”
“そのときは、刺す”
“うっわあ、エキセントリック! 恵由って意外に過激だねえ”
“裏切られたら、かなしいじゃない。叶わない恋をしてるより、たぶんもっと。それなら、自分の手で終わらせたいかなあって”
“……それは、そーかもね……”
*
貴美子がなにを思って、このときそうつぶやいたのかは後になってわかった。
お姉さんの不倫現場を目撃したのだそうだ。じっさい目撃したのは、わたしたちが話をした数日後のことだったみたいだけど、お姉さんが道に外れたことをしてるのはなんとなく気づいていたらしい。高三が終わりに近づく季節のことだった。
“死ぬときはひとりじゃ嫌だ”って言ってたのは、お姉さんのなにかしら不穏な雰囲気を察していたからかもしれない。
死ぬ理由なんて、なにもなかった。
死ぬときはふたりが綺麗なときに、綺麗なままでそうしようねって恋人同士みたいな約束をした。天使みたいな貴美子の姿が人生の最後の映像になるなら、それもいいなって思った。しあわせなままで人生の終幕を下ろす。わたしたちの世界だけで。
思春期によくある衝動や煩悶だといえば、聞こえはいい。でもそんなものは、わたしたちのまえではなんの意味もなかった。
“死んでみたい”
それ自体が夢物語だった。
“おねーちゃんの髪ね、ほらあれ、ボロボロになった歯ブラシみたいだったよ。どんだけ引っ張ったら、ああなるのって不思議だよ。へーんなの……”
“ふうん……。お姉さんって、あのキャンディのマンガを全部読んだんだよね? あんな典型的な少女マンガ読んだひとでも不倫するんだね”
警察署からフラフラになって出てきて、髪はボサボサになっていた。くるくるした髪のとおりに流れていた艶なんてなくなっていた。頬はげっそりとこけて、そばかすの斑さが妖怪みたいだった。
幽鬼のように蒼白で生気のない貴美子をまえにして、わたしはよくそんなことを言ったものだと思う。でも、貴美子が憎かった。
天使みたいだったのに。どうして。天使じゃない貴美子なんて。
だから傷つけたかった。
それは冗談みたいな事件だった。
貴美子の家族が、彼女の姉とその不倫相手が痴情のもつれによって起こした刃傷沙汰の発展の挙句、貴美子を残して全員亡くなったのだ。貴美子がお姉さんの不倫現場を目撃して一ヶ月ほどあとだった。梅の蕾が、まだかたく芽を閉じている頃。桜の気配はおこりもしない、なにもない季節。
その瞬間、わたしたちの夢は壊れた。壊れてから気づいた。あれは、夢だったのかと。
バシン、と思いっきり頬を張られた。いったぁい、と貴美子を睨みつけた。風が地面を這うような、月もない暗黒みたいな夜だった。
“あの家に帰るの?”
幽鬼のような、あるいは妖怪のような彼女に訊いた。彼女の家が事件現場だったし、これからどうするのか見当もつかなかった。
“……恵由”
“……なに?”
“一緒に、死んでくれる?”
“綺麗でいてくれるなら、いいよ”
いくつもの季節に、いくらも繰り返していたダイアローグ。
貴美子の光をとおす黒髪が、校舎の窓の向こうに見えたとき。
貴美子がわたしを呼んでそれに振り返ったとき、かすかに揺れたスカートのひだに、セーラー服のリボンに。肩を並べて触れあった裾に。
無邪気で専横なやりとりは、きらめきとなって跳ねて舞いあがった。
“死ぬんだったらさ、春は絶望じゃなくなるね”
“……なんで?”
“だって、春で終わるから”
*
結論からいえば、わたしたちは失敗した。時間になっても教室にこないわたしたちのことを訝しんだ学校の先生が、まだ家にいたわたしの母に連絡をして、どういう順番を踏んだかは知らないけれど、母と先生たちが連れ立って貴美子の家にやってきた。
担任の先生がいなかったのは当然だと思った。なにせクラスの生徒一人ひとりの名前を呼んで証書を手渡さないといけないから。
わたしと貴美子が自殺を図ったのは、わたしたちの卒業式の日だった。
貴美子以外住むひとのいなくなった家で、貴美子の屋根裏の部屋で、彼女のベッドで、わたしたちはお互いの小指に赤い糸を結んで。一番労力がかからない、という点でガスによるものを選んだ。
やわらかで、静謐な春の光につつまれていた。しあわせは、わたしたちのものだと思った。
部屋に飛び込んできた母も先生たちも半狂乱だったけど、一番ひどいのは貴美子だった。まさに狂犬のように吠えて吠えまくった。先生を押しのけてわたしの母に掴みかかり、「邪魔をするなあぁっ!」とよだれを零し、目を剥き出しに、髪をふり乱し、セーラー服の襟もスカートもぐしゃぐしゃになって、地の底から唸るなにかをその身をもって放出させるように。爆発した。
鬼神、妖怪、狂犬。
もうそこに天使はいなかった。
*
目の前にいるのは、やっぱり天使だ。
ショートカットの髪はくるくるとしていて、そのうえを光が流れている。部屋の細かいほこりが、ふわふわと飛んでいる。天窓からの日差しは、彼女を恋しがるように纏わりついている。
薄くなったそばかすも、ふっくらとした頬も赤い唇もぱっちりとした目も。春の光に愛された天使。
「わたしのほんとの夢はね、ほんとうの意味ならもう失敗してる。だって、あんたの家族の事件があったから。でもあんたと二人で死ぬって意味なら、やっぱり叶うんだよ」
「じゃあいい加減、教えてくんない? あの男のことは?」
「……ごめんね。この家のこと、紹介しちゃった」
ふふ、とわたしは笑った。
「な、はあっ……!?」
「あいつ、もう立ち直れなくなるんじゃないかなって思わない? まずわたしたちの死体がある家でしょ、さらに過去に殺人事件があった家って知ったら発狂するんじゃない? 責任をとってもらおうにも当の本人たちはこの世にいないんだし。契約金が戻ってきたとしても、心に傷は残るでしょ。わたしからの結婚祝い……なーんて」
「恵由」
「婚約破棄の代償にしてはちょっと重すぎるかな。いろんなひとを巻き込んじゃうしね。でももう、どうでしょいいでしょ?」
「計画ってそのこと? だから売れたんだ? この家……」
「バナナの叩き売りの黒幕はわたしでしたーっと」
「よく周りにバレなかったね、あとあの男本人にも」
「婚約はしてたけど、会社への報告はまだだったからね。結婚式の招待状も作るまえだったし」
「それでもだよ……」
「悪いことするんだしね、とっても頭を使ったわよ。人も利用したし。自分の職業がまさかこんなことに役立つなんて、ここにきて天運がめぐってきたんだと解釈したわよ」
「人も利用って、まさかハニートラップってやつ?」
「ごめんね、貴美子」
「笑うところ、それ? むしろ男が人を蹴落とすためにすることみたいに思えるけど」
「人間なんてやろうとすれば、どこまでも卑劣で醜悪になれるものよ。わたしだって、もう高校生のあの頃のままじゃないわ……」
――――生きていかなくてはいけない。それこそが絶望だった。
死の憧れを絶たれたとき、貴美子と引き離されたとき、はじめてそう知った。
「別に訊く気なんてなかったけど、不動産屋なんかに勤めてるの不思議といえば不思議だったよ」
「“なんか”って、なによ」
「恵由が選びそうにないって意味よ」
「……もしかしたら、探せるんじゃないかと期待してたから。普通のOLやるよりよっぽど」
「親の監視下にあっただろうに、よくやるね」
「あんたに言われたくないけど。殺人現場の家を掃除しようなんて普通考えないわよ」
「心中しようと誘った相手を探すほうが信じられない」
「高校生で一緒に死のうなんて言うほうがよっぽど信じられないわよ」
「同意したじゃん」
「だから頭おかしいんだってば」
「なによ、それ」
「あんたこそなによ」
「おかしいでしょ」
「おかしいよ、だって、ずっと会いたかった……」
「恵由」
「会いたかったよ……」
天使に会いたかった。わたしを求めてくれた、わたしだけの天使。
勝てないって思っていたから、ずっと手に入れたかった。
そばかすがある、くるくるのショートカットの、わたしだけの“キャンディ”
引き離されたあと、彼女がこの家にいないと知ってずっと探していた。
――――ねえ、目張りってこんなもんでいいかな? もっとガムテープいる?
――――ガスの栓開けたら、天窓のブラインド閉めるからね。コードってこれよね?
――――ええーっ、この天窓の光きれいなのに。
――――ちょっとでも目張り効果があるほうがいいよ。なによ、変な子。自殺の方法話してたときはあんなに現実的だったのに。
――――……だって、きれいだからさ……
――――“春が絶望の季節”って言ったのはさ、春がきれいな季節だからよけいそう思ったんじゃない?
――――……今年は、桜はみれないねえ……。
――――なんにも知らないままで、死ねればよかったね……。
――――うん、でも、もう終わるから、いいよ。
――――そっか。
――――うん。
だれもいなくなった家の、貴美子の屋根裏の部屋。
春の冷えた空気とやわらかい光につつまれた天窓。
光が差しこむベッド。
制服を着てベッドに眠る貴美子と、貴美子の手をにぎりベッドの縁に幸せそうに目を閉じて顔を傾けるわたし。
二人の小指には赤い糸が結ばれていて。
いや、わたしはその部屋にはいないかもしれない。なにか足りないものはないか探して、どこか別の場所にいるのかも。それとも起きていて身を起こして、貴美子の目を閉じて微笑んだ顔をやさしく見つめているかもしれない。
でもどの場面でも、そこは静謐でやわらかく、うつくしい。
「恵由があたしを探して会いに来てくれたときさ……」
「うん?」
「あのとき、あたしの姿、張りぼてみたいでガッカリするんじゃないかってちょっと不安だったんだあ……」
「張りぼて? なんで? お姉さんのこと思い出さないように、綺麗にしてたんでしょう?」
「そうだったんだけどね。さっきも言ったけど、恵由は変わらず、ううん、高校のときよりずっと綺麗で可愛くなってたから」
「だから? 言っておくけど、あの事件のあとすぐにあんたが綺麗にしだしたのわたし知ってたわよ? それこそさっき言ったじゃない。たった一、二ヶ月しかなかったけど、警察署から出てきたあの妖怪みたいな姿を思えばものすごい進化だったよ」
「進化って」
「それに、この家の掃除したあともひどかった。妖怪再来って感じで」
「妖怪」
「狂犬だったかも」
「もーいいーっ! 張りぼてのほうが何万倍もマシじゃん」
「そう?」
「……叩いてごめんね」
「憶えてたんだ」
「いつも会いに来てくれて、うれしかった」
「そう」
「このタイミングでここに呼んだ理由、知ってるんでしょ」
「だから、いまさら?」
「もし結婚してたら? あたしとこうなる未来はなかった?」
「どう答えてほしいの? やっぱり運命みたいに引き寄せられてたって言ったほうがいい? あんたなんか忘れて、しあわせになってたって言ってほしい?」
「なんだよ、恵由の意地悪!」
「どうなろうと会いたいから来た。……それじゃダメなの」
「……なによ。やっぱり恵由はずるい。この家をあの男に売ってることも教えてくれなかったし」
「だからごめんってば」
「一緒に死んでくれる?」
「もとよりそのつもり」
「条件は?」
「――――もうないよ」
「……赤い糸、ないけど」
「なにそれ、そんなこと気にしてたの? 変な子。もういいってば」
「じゃあ、あたしのお願いきいてくれる」
「まだあるの! なによ」
「“ずっとがんばってきて、えらかったね”って言ってくれる」
幼い子どもが懇願するみたいな眸だった。
「ずっとがんばってきて、えらかったね」
「あと……」
「なに、まだあるの?」
いい加減、おかしくて笑えてくる。
「これはお願いじゃなくて、質問。もう“キャンディ”って呼んでくれないの? 恵由のなかでは、あたしはもうキャンディじゃない?」
天窓から差し込む春の光が、部屋の床にぽっかりと窓のかたちを空けている。
糸くずみたいな細かいほこりがふわふわとただよっていて、彼女のショートカットの黒髪にふんわりと寄り添った。
薄くなったそばかすも、ふっくらとした頬も、赤い唇もくるくるの髪の毛も。
ぜんぶ、わたしのもの。
あの頃の、わたしたちのもの。
「もうずっと天使で、わたしのキャンディだよ」
春が絶望の季節だと知るまえの季節、きらめきを両手に抱きしめていた頃。
わたしたちの肩に、セーラー服の襟に、貴美子のリボンに、わたしの踵に、彼女の上履きに。
きらめきがふり落ちて跳ねて、わたしたちは飽きもせずそれをかき集めて、頬をすり寄せて、また空へ放って。
いくつもの季節、いくらも繰り返された。
春愁も絶望の意味も知らなかった季節。
無邪気で専横な輝きを、ゆるされていた時間。
桜のふり落ちるのを、ただ静謐なうつくしさだとその目に映していた時間。
春愁を知るまえの季節。
春なんてさあ、絶望の季節だよね――――
いくらも繰り返された。
それは春を愁うまえの
春愁のダイアローグ
※1……片山敏彦訳「逝く夏」『ハイネ詩集』