シャルの哲学や処世術とか日常風景eTc-早朝編
ふん、何もかもくだらない。
今日も今日とで、わたしはただ在る為だけに生きる。
人生とは、面白くない。
それはなぜか?
答えは明瞭、わたしが神の領域に至っているからだ。
って思っている、信じている、これは必要な絶対必須の信仰だ。
人間とは、全てに無関心・無感情になれるほどの、神の精神性と、人間の其れを最高レベルで共存させ再現させるのがよい。
自我や自分というモノを最大限排する事によってのみ、人間は全ての、自分を含めた他人に無上に感情移入とかができるから。
「弱者切捨てか、くだらない」
リビングのテレビが、昨今のそのような世辞を語っていた。
弱者切捨て、それはいけないことだ、絶対に認められないし、許せないことだ。
なぜなら、弱者とは、誰でもなりえる存在だから、つまり自分だ。
運も実力のうちとかいう、だが真実は、運こそが実力の全てだ。
生まれて今まで、一瞬一瞬の全ての思考、その結果は全て運だろう、確立や乱数でしか決まりえない。
身体が丈夫だとか、恵まれた環境や状況、その他、ありとあらゆる巡り会わせとか、森羅万象の全てが運のみで決定される。
つまり、弱者の成立に自己責任などというのは、ある意味や観点、観測などから言えば、言えない事もない、ような気がするのだ、人間の直感や感性などから言えば。
もちろん、世界や、全体的な人生というゲーム全ての責任とするなら、それが責任を取らなければいけないだろう。
世界を成立させて、創造した神。
それを本人とするか、他の誰かにするか、それは各々の信念に基づくが、私は自己責任として切り捨てられたくない。
だから、私は弱者切捨ては、できる限り最大限、理性と感情の働く限界で拒絶し嫌悪する。
この世の事象や現象、世界の在りよう、存在が置かれるゲーム要素として、ない事を熱望する。
ニュースが東南域の紛争について流れる。
まったく腹立たしい話だ、やはり世界には神がいるべきだな。
まあそうでなくても、神と同等それに比する、現人神のような人間がトップに立つべきだ。
世界には害悪な弱者と、有益な強者が沢山いる。
弱者が上に立つと、多大な不利益が発生し、世界は荒廃するのだ、当然の事実だが、愚かな人間はこれを真に理解しない。
真の強者、自己愛にも、それと似て同一なる、ただ一つ、狭い範囲の他者愛にも溺れない。
そんな、神格レベルの人類愛、そういう脳の機能を持つ存在が、上に立たせるには最良に過ぎる。
優れて豊か過ぎる精神性、人格性等々によって、世界全体の為にある事を、至上の快楽・娯楽とするのだ。
まあ、そのような理性を保たせるには、多大な感情が必要である。
至高の位置に存在し、なおかつ本人が無上に幸福で、生きる事に溺れなければ、どうなるか知れない。
自分が最終的に生きたいから、他人も生きたいだろうと思える、所詮は他人は自分の延長線上でしか、なりえないのだから。
つまり何が言いたいかと言うと。
そんな知的生命体の臨界点に位置する存在の発生条件、維持前提として、世界が神の格で面白楽しく可笑しくなくてはならないのだ。
当然な話で、神の格の存在の人間が生まれる為には、神の格で、この人生というゲームが楽しくなければ絶対に不可能だ。
まあ厳密な話で言うと、全体的にそのレベルで楽しくなくても、発生確率も維持前提は整いえる。
だが最大限高確率でソレらを在らせるには、局所・局地・範囲的にでなく、全体的に神の格であった方が良いのは言うまでもない。
ちょっと外に出よう、ずっと家に居るのは性に合わないのだ。
ちなみに朝、AM5時半、薄暗くも明るくなってきた頃だ。
冴え渡った感覚が、周囲の世界を広く深く捉える。
この世は、勿体無い、惜しいと思える事象・現象・存在・世界・ゲーム要素に溢れ返っている。
あと少しでも、運が良くて、運命力が高ければ、超一流・10倍100倍に超一流・神格に至れる一流や二流、それ以下が在るのだ。
または、凄く優秀で有能、世界の為に多大に在れるのに、世界に飽きたり絶望したりして、無意味やマイナスになってしまう存在も沢山ある。
私はそれを、なんとかしたいと思っている。
なぜなら、私がそんな時に、そうなった時に、誰かになんとかして、どうにかして欲しいと望んでいるから。
長い長い一本の並木道に到着した、人気も人目もない場所。
わたしは、何も無くても、常に多幸症だ。
頭の中に、至高の世界が存在しているからだ。
無数の娯楽、その媒体が、情報として存在しているのだ。
たとえば、今まで読んだ星の数ほどの本。
それが頭の中で形を成し、何時でも手にとって読めるようになっている。
もちろん細部まで、むしろ実物よりも読み易い形だろう。
平行思考で、幾つモノ本を同時進行で、ページを捲くる必要もない。
わたしは私の世界が、この世界で至高である事を確信している。
これこそが神の世界であると、掛け値なしの本心から、絶対に言ってしまえるほど。
目の前に、黒猫が通りすがった。
私はそれだけで、無上の愛情、親愛と希望と娯楽、およそ感じえるプラスの感情を其れに抱ける。
それと同時に、マイナスの感情も抱くことにしている、なぜなら、それは娯楽になるからだ。
娯楽とは、高次元に質量ともに摂取・創造・情報収集すればするほど、人間を強く優しく逞しく、大概はする。
だから、私はただ目の前を通りすがった猫にすら、殺意を抱くのだろう。
しかし、この暴力性は危険だ。
人間とは、余裕が無くなれば、つまり弱者になれば、平気で他人を傷つけて、尊厳などを奪い、無意味ですら、それをする存在だ。
積極性や行動力など、人生を楽しむ面白がる可笑しがる、高次元に生きる能力。
つまりは力や強さは、当然、周囲にいろいろに、広く深く、浅く狭くも致命的にも影響や強制力を与え得る。
私は神のように強い、実際上の力を持っている、だから、絶対に弱者に落ちてはいけない、そうなるくらいなら死ぬべきだ。
強者であるから、この殺意を猫にぶつけないのだ、ただ娯楽として、己の殺意を観測することができるのだ。
復讐心と同じだろう。
弱者は絶対に復讐するが、強者は絶対にそれを発散せずに、ただただ生きる糧にするのだ、それが最善を尽くすであるがゆえに。
私は強さや力を手にすればするほど、絶対にそれを身勝手に使う事は許されない、私が絶対に認めない。
これらそれによって、さらに私は己の強さ、精神的な面の、それを支える為の実際の・実情の力、その強度を無上に幾らでも強固にしたいと思える。
朝日が本格的に昇ってきた、眩しい。
なんとなく生の実感を覚えた。
こんな、本当に何気ない事に幸せや喜びを感じれる、人間とは無上に素晴らしいのだと確信できた。
この娯楽を感じるに優秀な脳の機能は、無限大だと想うのは、錯覚だろうか? どうだろうか?
とにかく私は、今己の脳の機能に、無上の期待と希望と愛情と信仰を、確信的な自信と共に寄せている。
これはロマンに溢れていると思う、無限に夢と理想と願望、恋愛感情ですら在りえる。
世界は、遠からず神格に至るだろう。
世界の面白さが、全体的に神ゲーレベルになるのだ。
そして世界に存在する全ての存在が、世界というゲームを、掛け値なしの限界臨界まで楽しんで、神のような知的生命体になるのだ。
わたしは、一秒でも早く、その理想世界実現の為に生きたい。
相対的にみて、そうでない今を生きるのは、全人類が無上の不幸であり、恵まれない状況環境下に居るのだと、痛烈に想う。
とつぜん、走ろうと思った。
なぜか? それは歩くよりも、走った方が面白いからである。
このような、無茶や無理が効くのも今だけかもしれないのだ、できる限りの最善を最大限尽くさないと駄目だ。
若さや、恵まれた状況・環境、幸福な状態が一定以下になれば、無茶や無理も効かなくなるから、走れなくなるから。
私はそれを今、知っている、骨身に染みて、無上の痛覚を刺激されるような心地で。
無上に運がよい、そのような存在、神に無上に愛されているような存在に、ならなければいけない。
運任せなど、運に対する敗北に、ほかならないではないか?
わたしは運に勝利したい、運命に挑戦し、超越し、運では説明のつかない、この世界において絶対の超越した存在に至りたいのだ。
世界というゲームにおける、バグか何かとしか思えない、そういうのになりたい、ただの願望で欲望だ。
それはこれは、どうしようもない熱望だ。
私は運によって、世界に確実に存在する其れ、その対象によって、無上の塗炭の日々を経験した。
運によって、敗北によって、一度全てを失ったのは当然、さらに無上の不幸と、恵まれない最悪、最劣悪を体験した。
そして、運によって、失った全てを取り戻せた奇跡。
これは、もう、運に絶対に勝利し、究極的な常勝指向に、ならざるを得ないではないか?
限界まで、早く、長く、走り、最高にハイになった。
脳に血流が多く流れている感覚。
錯覚じゃないのは、実感でわかる、実際上でも、情報処理能力は上がっている。
当然だろう、意識野が拡大しているのだ、一度に意識できる情報が多くなっている。
意識できる情報が多くなれば、検索処理も円滑に大量になる、情報も多く演算できる。
「はぁっはぁ、、、はぁ」
走り続ける、ずっとハイだ。
躁の後に、鬱が来ないのだ。
若干のテンションの上下はあるが、躁状態の範囲内、鬱がないと言える。
もっと気持ちよくなりたい、そういう嫌な気分はあるが、それがストレスにはならず、ただ不満を貯めて、それがエネルギーになるという現象。
ストレスに悩む、そのレベルは超えている、私は安定して躁であり続けられる、本質的強者なのだ。
このような安穏な世界に、わたしにストレス足りえる事象が、果たしてどれほどあるだろうか、無い、のではないだろうか?
ほんとうに、人間の脳は偉大だ、意味不明に機能が出来上がっている。
この世界のゲームバランスが崩壊しない程度に、絶妙に出来ている。
もっと優秀でも、劣悪でも、たぶん駄目だろう。
ちょっと知的に遅れているだけで、傍目からは同じ人間とは思えないほどの劣位を表し催すのだから、優秀でもそうだろう。
優秀だったら、多分人間は神に至っていただろう、しかし神は無我だ、生きている意味が無い。
無限大に不完全な存在、絶対に何かが欠け続ける、絶対に不可能な事を可能にしたいと思い続けられる、無限に上位概念を創造できる。
そんな神になれないのに、なれないからこそ知的生命体としては、現実を生き続ける事ができる存在、それが人間なのだろう。
「こんなに冴えてるのに、人類の誰よりも、一瞬で沢山の事を考えれるのに、わたしの信じる神の領域に、到達できる気がしない。
でも、そこに夢を見ざるを得ない、無限に目指し続けたい、その過程も結果も、全てが生き甲斐で、楽しいのね」
凄い、なんでも別によかったはずなのに、今の機能状態で在るのだ、それが神秘的でロマン的で。
唯一の高等生物であり、絶妙に完成している不可思議。
なぜこれほど丁度良い塩梅で成立しえたのか?
自殺をするのは人間だけ、動物は絶対に自殺しない、安定しているのだ。
だが人間は、シーソーのように不安定なのに、それを安定させつつ不安定にさせる脳の機能を持っているのだ。
それが意識と言えるリアルタイム自我。
不安定なまま絶望しても、生き続ける人間が大半。
なぜ絶望の中で、希望を見出して生きるというのか、この黄金パターンを成しえる上で、一体どんな複雑怪奇な物理現象が脳で起こっているのか。
おそらく、人間の脳は、永遠に周回し、終わりの見えない宇宙のように、なっている、そんな気がする。
宇宙の起源までノスタルジックし、ビックバン理論で決着、というか思考停止させて、帰路のあと帰宅した。




