面白い話
直也は、いつも思っていた。
彼女の美奈と一緒にいるといつも気付いてしまうのだ。
「直くん、ジャケットのボタン、外れそう。貸して。」
美奈は直也のジャケットを優しく持ち上げると、自分の鞄からソーイングセットを取り出す。そして、丁寧に付け替える。
「いい大人なんだから、ちゃんとしてないとね。」
美奈はボタンに針を通しながら、だらしのない直也に言い聞かせる。斜め下を見ている美奈の顔は微笑んでいた。
年齢より落ち着いていて家庭的な美奈を、直也は愛している。鼻にかかる甘ったるい声も、可愛いと思っていた。
「あっ、そうそう。
江梨子が結婚だって。この前言ってた外資系の人。」
女は友達の結婚を引き出しに、「私達はまだなの」と言いたいのだ。それは直也も分かっている。それでも男は気付かないフリをするのだ。
「へえー、そう。エリートと結婚か。美奈も羨ましい?」
意地悪な質問をする。男女の付き合いとは、面倒臭いものだ。
「私は、別に。
エリートでなかなか会えない人より、直くんみたいにちゃんとデートの時間を作ってくれる人がいい。」
美奈は決して直也を見下さない。三流の大学卒でも、工場任務でも、美奈は満足しているのだ。
夜勤続きでデートが出来なければ、独り暮らしの直也の家でご飯を作って待っている。いつも笑顔で「お疲れさま」と言ってくれる。美奈は直也の理想の女性だった。
そろそろプロポーズでもするべきなのかも知れない、と直也は考えていた。
「それでね、江梨子と会った時にきいたんだけど。…あ、あのね。」
美奈は手を止め、直也の方を見る。
そして手をヒラヒラさせながら、話を続ける。
「えっ…江梨子のね、その………ふふっ。凄い面白い話を聞いたんだけど。」
美奈は笑いを堪えながら、話を続け様とする。だが、唇から息が漏れてしまう程、耐えられないようだった。
「あー、もう!笑えて、話ができない!あははっ!本当に面白くって。」
美奈は話を続け様とするが、『面白い話』を思い出して、ついに笑い出してしまった。
「あははっ!もー、凄いの!江梨子がね!はははっ!あー、面白い!」
美奈は膝の上にある直也のジャケットの存在を忘れてしまったのか、ジャケットごと『バンバン』と叩いていた。直也は針が美奈に刺さらないか心配になり、ジャケットを取り上げようとするが、美奈はジャケットを取られまいと、下へ置いた。
「直くん、聞いてる?江梨子がー、ぷふっ!外資系と新居を探しに行った時にね………あー、ヤバい!笑えるーあはは!」
直也は苦笑いを返す。またいつもの美奈の"唯一"の悪い癖だ。
そしてこれが、直也の結婚に踏み切れない、"理由"だ。
美奈だけが笑い転げていた。