9話:お兄さん、どうしてなの。
しかしそう叫んだその声は桜井さんでは無かった。店の中に入ってきたのは明るい茶髪のひょろっとした美麗お兄さんだった。そんなお兄さんがじいーっとこちらを見下ろしている。桜井さんより背が高い気がするわ。っていうかなんですかこの人。イケメンだ、そしてなんかチャらい!! しばしぽかーんとそのお兄さんを見上げていた私は、やっとの事でそのひょろ長美形お兄さんに話しかけた。
「あの…今桜井さん…店長さん買い物に出てて…直ぐ戻ってくると思うんですけど」
私がおずおずとそう言うと、それを聞いたお兄さんは一瞬きょとんとするが直ぐ事を理解し、にこーっと笑った。
「あー、そっか。分かったOK。じゃー少し待たせて貰おう」
そう言ってお兄さんは私の目の前の、桜井さんがいつも座る席に腰を降ろした。でもお兄さんは足が長くてちょっと窮屈そうだ。もぞもぞと足を動かし、落ち着く姿勢が出来なかったのか結局足を組んで、私の方を見つめた。
「お名前は?」
「へ…あ…沙織。…深山沙織です」
「へーそっか。沙織チャンね。へーあのユーキが…へー」
「さく…店長さんとお知り合いですか?」
何だかニヤニヤとこちらを見つめているお兄さんに居たたまれなくなって聞いてみると、お兄さんはすんなり、あーうんそうなんだ、と肯定してみせた。
「俺は桜井結城の大学時代からの友達で、本城柚流っていいます。今は美容師さんやってまーす。よろしくー」
「は、はあ。よろしくです」
「あはー緊張しいだな。気楽にしてよー」
あはははーと少し間延びした声でほえほえと笑う本城さんは、どこか桜井さんにも似ている。ああ、こんな感じだからお互い相性は良さそうだな。勝手な想像だけど。かしこまってイスに座る私を見て、本城さんは更に、えーもう畏まらないでよーと少し唇を尖らせて言った。おおい、何か困った大人が此処にいるぞお。本城さんは窮屈そうな足をぶらぶらさせながらごくごくサラリと言った。
「でさー、沙織ちゃんはユーキの彼女なのー?」
「ぶっ!!」
本城さんのさりげない発言にびっくりして色々と吹いた。こんな天然発言すらも桜井さんに激似とは世間てば狭い。というか穴を掘って入りたい。本城さんのげらげら笑う声を聞きながら、私は恥ずかしさのあまり俯いてしまった。しばらくしてから、やっと落ち着いた本城さんが涙を拭きながら私の方を見つめて言った。
「あーウケるわー。いやいや悪気があった訳じゃなんだけどねー。悪い悪い。で、本当のトコどうなのさー沙織ちゃん」
「……そんなんじゃ、ない、です」
「ふぅん」
あれ、なんでこんなに胸が痛いんだろう。だって私と桜井さんの関係って、所詮はごっこなのに。痛くも痒くもない筈なのに、何で。頬づえをつき、人指し指を机で一定のリズムを刻みながら、本城さんはしばらく私を見つめてそれからにこりと微笑んだ。何だか楽しそうな笑顔だ。
「俺さあ、実はそうなら良いなって思ってんだ」
「え?」
今度はびっくりして顔を上げる番だった。見上げた本城さんは相変わらずにこやかで、その笑顔は良く知っているあの人を想像させた。やっぱり二人は何処となく雰囲気が似ている。
「その様子だとユーキ、話せてないみたいだね。まだ引きずってるか…そろそろいいかと思ったんだけどな…」
「引きずってる…?」
「うん」
チャらいお兄さん―本城さんは少し悲しそうに眦を下げると、うーんと天井を見上げて悩みながら口を開く。
「…んー…でもこれは本人から言うべきかな。つらいけど、話せたら本人も楽になるんだろうし…。ごめんね」
「…いいえ。聞きます」
「少しだけ言っておくと、前の職場でユーキ、色々あったんだ。それだけ言っておくね」
「はい…」
「ごめんね」
少し悲しそうに笑った本城さんにそう謝られた私は、ただいいえ、と返すしかなかった。前の職場の事。そう言えば前に桜井さんはその事を言いよどんでいた気がする。いつか話してくれるとも言っていた気がする。それは桜井さんのどうしようもない傷なんだろう。果たしてそんな傷を、私が聞いて話してくれるだろうか。
「大丈夫。ユーキが沙織ちゃんを傍に置いているんだから大丈夫」
私の心の葛藤を読みとった様に、本城さんが優しく言った。うりうり、と頭を撫でられて少し恥ずかしくなった。うわあ、すみません…ってなんで謝ってるんだ私。うりうりと私の頭を撫でながら、本城さんは面白そうに笑っている。
「かあいいなあ。ユーキ、本当に可愛いんだろうな」
「あ、あのお…」
「やっぱ俺が貰ったらダメかなー」
何を言っているんだこの人は。動揺するから止めてくれ。口をつぐんだまましばらく撫でられるままにしていると、突然店のドアが激しい音を立てて開いた。見上げると、今度こそ息を弾ませた桜井さんがそこに立ってこちらを見つめていた。本城さんがおっ、と声を上げて桜井さんに向けてヒラヒラと手を振る。
「よっすユーキ」
「ゆ…ユズル……」
桜井さんの視線がつい、と本城さんの方を向くと途端にむうとしかめ面になった。あわわ、こんな桜井さんの顔初めて見る…。桜井さんの低い声が本城さんを責めたてる。
「何してんだ」
「沙織ちゃんと遊んでました―」
「離せ」
「ういっす」
それから本城さんが私の頭からパッと手を離すと、桜井さんがツカツカと寄って来て私を抱きとめて本条さんから引き離した。その行動に本城さんがふぅん、と軽い声を上げた。
「…それだけ出来る様になったら、そろそろあの事も話してやれよ」
「っ…お前! まさか!」
途端桜井さんの顔が曇り、険しい顔で本城さんを睨み付ける。そんなのも意に介さないという様に本城さんは視線を軽くあしらって、桜井さんに諭す様に続けた。
「言ってない。お前が言えるようになったら、お前自身も楽になると思ったんだ。まあ触りだけは漏らしたけどな」
「この!!」
私の目の前から桜井さんが消え、次の瞬間に桜井さんは本城さんに殴りかかっていた。全身から血の気が引いていく音が聞こえ、私は悲鳴に近い声を上げながら桜井さんの背中に縋りつく。
「やめて! ホントになにも聞いてないよ! 」
私が縋りつく前に桜井さんは本城さんを2.3発殴っていたけれど、私が叫ぶと途端にその拳が止まった。それから我に返ったように拳を見、そして自分の下敷きになっている本城さんを見つめる。本城さんはどうやらそのまま桜井さんの怒りを受け止めたようだった。殴られた頬を庇い、へにゃ、と笑いながら、しょうがねえなあとため息をつく。
「ったく人の話聞かねえなあ。色々あった、としか言ってねえよ。言ったろ、お前自身が話せる様になれば、お前がアレから解放される、そう思ったって」
「あ…」
「ほら、どけ」
本城さんがよっこらしょ、と身体を起こすと、桜井さんは無言のまま後方に引きさがった。何を言えば良いのか分からないと言った顔でおろおろしている。本城さんはそんな桜井さんを無視して、過ぎ去りざまにその肩をポン、と軽く叩いた。
「だから、話してやれ。お前はもう出来るはずだろ」
「…おれ…は…」
「沙織ちゃんも不安がってるだろ」
そう言って本城さんは桜井さんの背中をとん、と押した。よろよろとよろめきながら桜井さんがゆっくりとこちらを見た。その顔は、まるで見てはいけないものを見てしまったかのような恐ろしい顔をしていた。その瞳から目が反らせない。
「さくらい、さん」
膝を折ってその場に崩れ落ちた桜井さんはその両手で顔を覆った。ガクガクと身体が震えている。友人を殴った事のショックが大きいのだろう。私は両手を伸ばして桜井さんの身体に触れようとする。震える桜井さんに今は何て声を掛けていいのか分からない。こんな優しい人のこんなにも深い傷にどう触れていいのか分からない。傷つけたくないのだ。今はただひたすらに傷つけてはいけない気がした。肩に触れながら、桜井さんにそっと語り掛ける。
「…桜井さん…」
まるで子供の様にうずくまる桜井さんに優しく語り掛ける。ああ、こんな事しかできないのか。歯がゆい。もどかしい。悔しい。こんなに傷ついている人に何も出来ないなんて。私はこれ以上何を出来るんだ。すると、うずくまっていた桜井さんが震えながらも私を見上げて唇を開いた。
「…も…」
「え?…」
「…やめ…ろ…」
怯えた眼差しが私を越して、他の何かを見ている気がする。ガタガタと震える身体はもはや桜井さん自身では止められないみたいだった。どうしようと思った瞬間に、突如桜井さんの肩に触れていた手がバンッ! と激しく弾き飛ばされていた。私はびっくりして弾き飛ばされた手を押さえ、桜井さんを見た。ジンジンと手の甲が痛み、熱を帯びる。ショックで頭が回らない。ユーキ!! 本城さんが桜井さんを呼び、何かを叫んでいる。何で、どうして。桜井さんはまるで何をしていたのか分からない様な、焦点の合わぬ瞳を驚愕に見開き、こちらに向けていた。
「あ……おれ…は」
「…えと…今日はもう帰るね…桜井さん」
「……ア…」
「……ごめんなさい」
頭の中がグルグルと混乱している。涙が理性を飛ばして零れ出す。ああ、涙ってこんなに冷たかったのかな。ねえどうしてどうして、桜井さん、桜井さん、桜井さん。私は振り向く事なくそのまま駆けだしていた。
大分見直して悩みましたけど、これはこの形で行こうかなと思いました。桜井君はとても優しい子で、同時にとても弱い臆病者な子なのです。今はそれだけを言っておきます。沙織ちゃんが癒しになれる道を目指していきます。