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8話:お兄さんのいない間。

「あ」


外は手を遮りたい程に眩しく、じーわじーわとセミの鳴き声がお店の中まで聴こえる中、桜井さんがめずらしくそんな声を上げた。驚いて本から視線を上げると、キッチンの方で桜井さんがしまった、という顔をしている。


「どうしたんですか」

「……いえね、ちょっと買い足し忘れていたものがあったのを忘れてまして…ああ行くまで覚えてたんだけどなあ」

「……でしたら私、留守番してますよ」

「え? でもお客さん来たら困るし」

「表に出かけてます、って掛けておけばいいんじゃないんですか?」

「ああ、そうか」


本当にそっか、と言う顔で納得するもんだから思わずくすっ、と笑ってしまった。それを聞いた桜井さんは照れ臭そうに微笑むと、小さなバッグを指先に引っかけてキッチンから出てくる。いつも腰に巻き付けているブラウンのエプロンを外すと、私の座る前のテーブルに置き、お言葉に甘えて、と言って私の頭を撫でながら微笑んだ。


「直ぐに帰ってきますから、絶対に待っていてください」

「…こんな難しいの与えられて帰れる訳ないじゃないですか。待ってます」

「そんな事ないですよ、今回も短いでしょう」


分厚い全集をぐらぐらと動かし、少し不貞腐れる様に口を尖らせて答えれば桜井さんはうっすらを頬を染めて、頭に乗せていたその手を優しい動きで左右に動かす。名残惜しそうに髪の毛に指を絡ませながら離すと、桜井さんは手を振りながらお店の扉を開けて行った。

応えるように手を振って桜井さんを見送ると、再び与えられた本に視線を戻す。堀辰雄の全集の中にある「死の素描」という話。短いし、読みやすいですよと言われても自分から読むのはいささか気が引けるものだ。まさにおそるおそる、と言った感じでページを開く。

物語は病に倒れた「僕」が傍らの天使―今でいう看護師に蓄音器をかけてくれと頼む所から始まる。天使に書いてはいけないと言われていた手紙を見つかって、僕は手紙を読む。天使は手紙の受取人の方に興味を持ったようだった―「貴方の恋人はどこにいるの?」「パラダイス・ビルの地下室なんだ」「何年くらい前からお知り合いなの」「千年くらい前から、僕にはそんな気がするんだ…」


そして僕の話は恋人の彼女との馴れ初めに続く。この僕と彼女どちらがお互いをより多く苦しませる事が出来るかという、何とも良く分からない約束をするのだ。

その結果、僕は公園のベンチで彼女を待っている間に左の胸が痛むまでになった、と思った。僕はその痛みを、彼女を思うあまりに起こった痛みだと思っていた。だからこそ僕はその痛みを誰にも言わずにいた。勿論、彼女にさえも。


そして僕はある夜の日に高熱を出して倒れ、現在の病院に運ばれた。

僕を担当した天使―看護師はつくづく間違いの多い人だった。彼女が皮下注射と静脈注射を間違える度に脳貧血を起こす。僕は無意識世界へ落とされる。ある日なんか発作中に天使が慌てて口の中に赤インクを流しこむのを意識しながら、無意識世界に落とされる。再び意識を戻した時、それは僕の発作の為のイリュウジョンだと信じようとする。


『それ以来、自分の血に何だか赤インクが混ざっている様な気がしてならないのだ。』


そのうちに、僕はふと、僕の天使は、実は天使に扮した死のスパイではないかしらという疑問を起こすのだ。そうだとすると色々不可解だった事がはっきりする。彼女の為に起こすこの脳貧血。これは死の素描デッサンではないのだろうか。針を刺されながら、いつの間にか僕の腕に、死のイニシアルの刺青が出来上がっているのではないだろうか、と僕は悩むのだ。

そこまで読んでから、私は本から顔を上げて一息ついた。

なんか不思議な作品だなあとは思う。でも今では決してあり得ないだろうな。だって失敗だらけの看護師によって自分の生死を委ねられるなんて今じゃ考えられない。実体のない現実意識と、ふわふわとしている非現実世界とを行き来しているような不思議な感じが否めない。


(口に赤インクを注がれているってあるけれど、本当に注がれているのかな。実はそれはこの僕が見たものだから、本当に赤インクって訳じゃないんだろうけど…)


脳貧血を死のデッサンと言ってしまうあたり、僕は大分死に取りつかれているのかしら。貧血ってようは酸素が無い状態だから、脳に酸素が無い状態って事だよね。脳が息を出来ないって、苦しいんだろうな。朦朧とする意識の中で考える事だから、死の素描って言う事は、『僕』は、「これは死の予行演習なんだ」って考えたっていう事?


「…わっかんない」


またしても深くため息をついて、本に視線を戻す事にする。

―ある夜、僕は半睡状態を続けていた。赤い木綿の布で覆われた電球が部屋を悪夢のように凄惨な光でもって照らしている。隣の部屋で大きなベルの音がなる。止んで、僕の天使の声がする。

電話が切られる。突然モーターの爆音が響くと、僕の身体は電気に掛けられた様にしびれて動かなくなる。でも僕は抵抗しない。

時計が二時を打つ、天使が僕の部屋に入ってきてまごまごしていると、それからドアを半分開けて廊下に出て、エレベーターの所に行く。天使はUPかDOWN、どちらを押すかが分からなくなる。

そしてとうとう天使はDOWNの方を押した。そして死とその助手の乗ったエレベーターの檻は僕らの前を通り過ぎて上に上っていってしまった。

それを僕はベッドの中から見ていた。彼らが再び降りてくるのは時間がかかる。

その間に、僕の悲鳴によって駆けつけた医者が僕の応急手当てをして、僕は危うく死から逃れた。いつもその不注意によって僕を死の淵まで迷わせた天使は、最後の瞬間で僕を死の淵から救いあげたのだった。

しかし僕は死の淵からは脱する事が出来たが、その間に助骨を一本ダメにした。僕がよりよく生きるには、その化膿した助骨を一本すっかり取り除いてしまう手術が必要になった。僕にはその手術に耐えるより仕方がない。


『その代わり、その骨で、僕にイブを作ってくれないかなあ…』


僕はベッドの傍らで天使に向かいそう言った所で話が終わる。


「……」


途中で何かが分からなくなって何回も何回もその後半を読み返し、その違和感にやっと気が付いた。後半は僕の半睡状態から始まる。と言う事は…


「これは、本当の死の瞬間まで来ていた、ってコトなのかな…」


天使が電話に出るそのシーン。「…私は、エレベーターのボタンを押せばよろしいのですね…」

それと、天使がUPを押すかDOWNを押すか分からなくなるシーン。これは…天国からの使者を迎えるってコトなのかなあ。うーんでもDOWN押したら上にいくの?下に来るんじゃなくて。それとも抽象的な意味合いかなあ。


「まあ…助かったってコトなんだよね、最後は生きる意思が見えている感じもするし。んー…でもこれは…何回か読まないと分からないなあ」


パタリ、と重たい音を立てて本を閉じてから、机に顔を乗せた。自分で考えるのは難しい。いつも桜井さんに読み聞かせて貰ってるからなあ。あらすじだけ分かってから読むのと、自分で読むのと違うなあ。はあ、とため息をついていたら、自然と言葉が零れた。


「…早く、帰って来ないかなあ桜井さん」


早く帰って来て、聞かせてよ。いつもみたいに、優しい声で聞きたい。苦いコーヒーと甘いお菓子と、この静かな空間と、桜井さんがいて欲しい。桜井さん、まだかなあ…。ぼんやりと机に顎をのっけていると、必死に頭を動かしていたせいかまどろみがそろそろと襲ってきた。だんだんウトウトしかけたその時、お店のドアが突如音を立てて開く。

慌てて意識を覚醒させて起き上がりドアを見つめると、長身の影が丁度ドアをくぐってきた所だった。


「……あれ?」



「死の素描」は堀辰雄全集 第一巻(筑摩書房 昭和52年発行)に掲載されています。今のとこ全集にしか掲載がないみたいです。今流行りの「風立ちぬ」も載ってます。風立ちぬは長かったので自分はこちらにしました。あらすじもなく、自分で読み解こうとして何回か読み直して苦戦しても読み解けなかった…分かる人頼みます。

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