7話:お仕事中じゃないお兄さんに出会いました。
桜井さんにいろいろ読み聞かせをしてもらっているから、自然と私の方も原作を読む事が増えてしまった。原作も全部買えるわけでなし、かといって桜井さんの所で読める時間も限られているから、図書館に行く回数も知らず増えた。まあ受験勉強てがらっていうのもあるんだけど。
静かな図書館の室内の中は空調が効いていて過ごしやすい。まるで空間の主よろしく佇んだ本棚の森の中、棚の分類番号を探しながら、ようやく目的の場所にたどり着く事が出来た。長いものだと一つの本にまとめられるけれど、短編みたいに短いと全集とかに載る方が多い、という事は桜井さんから聞いていたので全集の分野をブラブラしつつ本を取ってページをめくってみる。
いつぞやに聞いた芥川龍之介の『蜜柑』はそれこそページにすると6ページ。原稿用紙にしたらどのくらいなのかは分らないけれど、この枚数でこんな表現ができるのは凄いなあ、と思う。
他にも色々見てみようと思って棚を見て回って、棚から本を取ろうと手を伸ばしかけていたら、不意に綺麗な手が伸びてきてその本を代わりに取った。
びっくりしてその手の主を見上げると、その人はなんと桜井さんだった。今日はお店の制服ではない、爽やかなスカイブルーの五分丈のシャツにテロンとしたベージュのジョッパーズパンツに、黒と白のコントラストのハイカットスニーカーという、なんと私服だった。あわわ、桜井さんの私服!
あわあわする私に、桜井さんはもう片方の手の人差し指を唇の前に当てて黙っているように示し、その手で外の方を指差した。外に出て話そうという事らしい。私はそれを理解してロボットの様にカクカク頷くと、受け取った本を抱えて貸出カウンターの方に歩きだした。カウンターの前までくると桜井さんは耳元に顔を近づけ、そっと囁く。
『外で待ってますね』
いい声でそう囁かれたものだから、全身ぞわぁ! と鳥肌が立った。うひゃあ! そのままロボットのようにカクカク頷くと、桜井さんはふ、と笑みを浮かべてから外に向かっていった。その様を茫然と見つめて固まっていた私は、次の瞬間ハッと我に返ると、慌ててカウンターに向かい貸出を済ませるのだった。
「こんな所で会うなんて偶然ですね」
外に出て桜井さんと合流した後、とりあえず近くで何か飲み物でもという事になり、私は桜井さんと並んで今歩いている。どうしてこうなった。
「…は、はあまあ。受験生なもんで。…桜井さんはよく来るんですか。…ああ、元お勤め先でしたっけ」
出会った頃にそう言っていたのを思い出して尋ねると、桜井さんはちょっと困ったような顔をした。
「さっきのとこじゃないですけどね。本当は諸事情で辞めちゃったんです」
「諸事情…ですか」
「また話してあげます。沙織に聞かせる勇気が…まだ無いだけだから」
ちょん、と私のおでこを軽く小突いた桜井さんはそう言うとしばらく沈黙し、それから申し訳なさそうに私を見て言った。
「そんな顔しないで…沙織に聞かせられるようないい話じゃないんです。だから、もう少し時間を下さい」
「桜井さん…」
行きましょう、といつもの優しい微笑みに戻った桜井さんの左手の指先が優しく私の右手の指に触れ、それからそっと視線が合う。その仕草に私は瞬間戸惑う。だって桜井さん、私との関係は「ごっこ」なんでしょう? 勘違いされちゃうよ? 視線がウロウロと彷徨う私を見て、桜井さんはほーら、と目の高さを視線に合わせられ、桜井さんのきれいな顔が一層近くなる。あわわわ、近い近い! 火照る顔をそのままに距離を取ろうとするが、桜井さんはその前に私の右手を掴んで自分の元に引き寄せた。その拍子に前のめりになってしまって、足の筋肉をフル回転させ何とか踏み留まる。
桜井さんはそれを面白そうに見やってから私を見て言った。
「僕の事嫌いじゃないなら、捕まえていて下さいよ」
「そういう言い方はズルイです…」
不貞腐れて言うと、桜井さんは悪戯がうまくいった子供のように笑った。それから捕まえた私のを再度しっかりと握りしめると、行きましょう、とまた私の耳元で優しく囁いた。
◇ ◇ ◇
しっかりと握りしめられた指先を意識しながら、火照る顔を隠せない事がとてもジレンマでもあった。ああもうこの人、周りの目なんか全く気にしちゃいないんだな。そおっと桜井さんを見上げる。白い肌。明るい外で改めて見ると、桜井さんの目が大きいんだなと思った。その大きな目を縁取る長いまつ毛をそして今更意識した。黒に近いブラウンの髪をサイドに寄せ、赤いピンで二つ止めるそのヘアスタイルは仕事の時と変わっていない。でもそれがとても似合う。違う髪型を想像出来ない。
―そのくらい、桜井さんと出会ってから経っていたんだ。
1年まではいかないけれど、それでもいつもキッチンにたっている桜井さんを見ていたから今日はとても新鮮だった。いつも店でしか会わないからなあ。
(……私、桜井さんの事知らないなあ)
気が付けば彼の事を知っているようで知らない、その事に改めて気が付かされる。どうしようもなく本の虫だって事。楽しい時、嬉しい時は頬を染めて目を細める癖がある事。放っておけないくらいワンコだって事。
(……そうよ。放っておけないの。雨に捨てられた犬みたいに、どうしても放っておけないの)
もやもやするの。じりじりするの。目を離したらいけないって気持ちになるの。
じろじろと顔を見ていたのに流石に気がついたのか、桜井さんが唐突にこちらに顔を向けた。どうしたの、と言う顔になんて答えていいのか分からずに顔を逸らす。
「沙織、言ってくれないと僕分からないです」
そうは言っても何喋っていいのか分からないんです!
「沙織」
「……」
「イケナイ事、しちゃいますよ?」
「なんですかそれは!?」
とんでもない大ボケに高速の勢いで条件反射よろしく突っ込みを入れてしまった。ぐはあしまった! 真っ赤になった顔のままきょとんとこちらを見つめる桜井さんの視線とこんにちはしてしまった!固まった私をしばらくきょとんとしたまま見つめていた桜井さんは、やがて何かが切れたかのように声を上げて笑いだした。今度はこっちがきょとんとする番だった。
「な…なんで笑うんですかぁ!」
一生懸命に笑いを堪え、目に涙を溜めた桜井さんは左手で涙をぬぐうと、ごめんなさい、と言って謝ってくる。
「…別に…沙織を卑下してって訳じゃないんです…くっ…」
「また笑ってる!」
「や…すみません……あーもー…何て言うか…貴女って本当クソ可愛いですね」
「は…何言ってんですかぁ!」
「そのまんまですよ。クソ可愛いクソ可愛いホントクソ可愛い」
「褒めてんのかけなしてんのか分かりづらい!」
「ああそうくるんですね、やっぱり沙織らしい」
「もうっ!」
何回かの言葉のキャッチボールの後に、流石に落ち着いたらしい桜井さんが私の頭を撫でながら笑って手を引いた。
「ほら、機嫌直して。お店についたら僕が飲み物奢ってあげますから」
「………本当?」
「ホント。勿論、沙織の好きなの注文して良いですよ。なんなら小夜鳴鳥の時も一つサービス」
「…………分かった」
頷いた途端私の横の桜井さんが見えない方も片手で顔を押さえ、顔を真っ赤にしながらこちらを見て固まってしまったので、しばらくの間道端で向かい合わせで突っ立っている事になってしまった。それからどうしようもなくなって我に返った私の方が、固まった桜井さんを何とか元に戻して店まで引っ張っていき、飲み物を奢って貰った。始終うっすらと頬を染めながらほほ笑むさながら天使の美貌の桜井さんは私にしょっちゅう話しかけては何故だか悶絶していたけれど、もう気にしないようにしよう。私だって少しは余裕を持ちたいんだもん!
閑話として砂糖を投下してみましたが、溶け残って終わりました。どうもほのぼの甘甘は難しい。ほぼヤケクソのように終わりました。