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6話:桜の季節とお兄さんと甘いケーキ。

4月になりました。春です。私は高校三年生になりました。温かな空気が身体を柔らかく包み、桜がふわりと風に舞う姿を見て、ああ春だわぁ…とほのぼのと見ていた所にハッと我に返り、小夜鳴鳥に向かう所だったのを思い出して慌てて走り出した。やっと辿りついたドアの前で荒くなった息を整え、ゆっくりとドアを開ける。

直ぐにいらっしゃい、というのんびりとした声が聞こえ、ドアの間から身体を滑り込ませて中に入ると、桜井さんは左側のキッチンの方で丁度洗い物をしている最中だった。こんにちは、と普通に声をかけたのだが、桜井さんはいつもの事ながらふわぁ、とすごい嬉しそうな笑みを浮かべるのだった。その周りにはお花が飛んでいるのが私には見える気がする。本当に名前の通り春の似合うイケメンだなあ、と思う。

桜井さんはさあさあと私をイスに座らせると、またしてもキッチンに戻り飲み物の用意を始めた。ぼんやりとその作業を眺めていると、桜井さんが手を動かしながら感慨深げに呟いた。


「沙織も高校三年生ですか…いやあ時が経つのは早いものですね」

「…その発言、さりげなくオジサン発言ですよ」

「それは酷い。でも沙織からすれば僕なんてオジサンなんでしょうね…悲しいかな」


そう言ってやれやれと彼は首だけを振って感情を露わにする。その間にも部屋の中にはコーヒーの良い匂いが漂い始めていた。それからしばらく沈黙が続いた後に、突然桜井さんはふと思い出した様に顔を上げた。


「おじさんで思い出しましたけど…僕はさながら『少女病』なのでしょうかねぇ」

「少女病?」


訝しげに眉を寄せた私を、トレイを持った桜井さんがニコニコしながら近づいてきてテーブルの上にコーヒーの入ったカップを置いた。何だかんだで私の頼む物など決まっているのだとこの数カ月で彼は熟知していた。


「田山花袋の『少女病』って作品。知ってます?」

「知らないです」

「うーんほんとに最近の子は読まないんですねぇ」


オジサンはびっくりです。本当に目を丸くして驚いているからこっちも驚いた。いやあうん、だってどうしても難しいイメージ付いちゃうでしょう、昔の人の作品ってさ。そう思った事はひっそりと言わずに胸に仕舞っておく。下手に言うと桜井さんの本の虫が本領発揮してしまうくらいは、私とてこの数カ月で学んでいるのだ。


「まあホントにざっくりざっくり言っちゃうと、オジサンが美少女prprできなきゃ鬱だおってお話です」

「そんなまとめ方でいいんですか!?」

「だってホントにざっくりざっくりざっくりしたらそうなんですもん」


もん、という可愛らしい語尾でまとめた桜井さんはそうすると向かいの椅子にストンと腰を降ろした。拍子に木製のイスがギシリと音を立てる。


「ちょっと前の時代、三十七歳で作家を生業とする男は、少女好きでした。電車で可愛い女の子とくっつくのが堪らなく好きだったし、少女と仲良くなりたいのだけれど自分はもうオジサンだし、自分の風体も自覚していた。何より自分には妻子がいる。『ああなぜ若い頃に僕は激しい恋をしなかったのだろう?』 それを今時分思った所で変わりはしない、しかしむなしい、侘しい、それがとてもつらい。それならばいっそ死んでしまった方がいいと思える程男は悩むのです。

そんな男がその日の帰り道、だんだんと込み合ってくる電車に乗ると、隣にこの世のものとは思えない美しい少女が乗ってきます。それは以前一度だけ見かけ、そしてまた是非会いたいと思っていた美少女でした。その美少女がガラス窓を隔てた自分のコートに殆ど押しつけられるようになっている様を見たのです。ああこの子は誰の妻になるのか、式はいつなのか、その日はきっと呪うべき日だー思いながら男はその美少女の姿を目に、魂に焼き付けるのでした」

「……昔のオジサン変態…」


どん引きの私を見ながら、桜井さんはあは、と軽い笑い声をあげた。


「このお話の最後、オジサンは美少女に見惚れていたがゆえ、電車が大きく揺れたその拍子に路線に転がり落ちて、対向から来た電車に引かれてしまうんです。路線には長く赤い筋が引かれ、非常警笛が鳴った所で話は終わります」

「? …なんで電車から落ちちゃったの?」

「作品を読めば何となく分かるんですけどね、オープンタイプの電車だったのかなあって思います。ドアが自分で開けられるっていうんですかねぇ。僕も電車の事は良く分かんないんで。様するに今とは違う電車のタイプで、人がどんどん乗ってきちゃって仕方なく外の棒に掴まってたんだけれど、美少女に見惚れていて、電車が揺れた拍子に転がり落ちちゃったんですね」

「自業自得、でまとめるには可哀そう、なのかな」

「まあ男の心情を楽しむか、少女の美しさを想像して楽しむのか、それとも哀れ男の末路を憐れむのか、各々感想はそれぞれですけどね」


コーヒー冷めますよ、と促されて慌ててカップに視線を戻し、一口飲み込む。桜井さんはテーブルに肘をつき、手の甲に顎を乗せた状態で微笑む。カップを口に付けながら桜井さんを見上げると、彼はその柔らかな視線をゆったりとこちらに向けた。


「さて沙織、そんな少女病のオジサンからのプレゼントがあるんですが、受け取って頂けます?」

「へ?」


きょとんとした私を桜井さんは面白そうに見やってから立ち上がると、それまで作業をしていたキッチンカウンターに向かった。そして何やらバタバタと作業をすると手に皿を持って戻ってくる。きょとんとした私の隣に立ち、上から見下ろしてから彼はゆっくりとその手に持った皿を私の前に置いた。


「どうぞ」


目の前に置かれた皿に乗っていたのは、ベリーと苺がたっぷり乗った小さなタルトだった。ケーキを囲う様に赤いソースが綺麗にデコレートされ、ちょこんと緑色のハーブが添えられて色どり良く整っていた。あまりに美味しそうなその光景に目を丸くした私はしばらく言葉を失った後、再び席についた桜井さんを見つめた。優しい視線が見つめ返し、ゆっくりと口を開く。


「高校三年生になったお祝い」


それから桜井さんはどうぞ、と言って視線で私を促した。どうしよう、なんか嬉しい。


「あ、ありがとう…ていうかびっくりしました…」

「それは何より。こっそり作ってたかいがありました」


礼を言ってから手を合わせ、フォークを取る。う、うわぁ…相変わらず桜井さん何がツマミ程度の軽食なんですか! すっごいプロの人の出来栄え…!

己の中で格闘しつつフォークを刺しこむと、最初にベリーの柔らかな感触、下に辿りつく頃にはタルトのあのサクリ、という音がしてカツンとフォークの先が皿を小突く。それからフォークをすくい取るように持ちあげると、中にもベリーが一杯詰まっており、その下にカスタードの黄色がうっすらと顔を覗かせた。ヤバい、これ絶対おいしい。口に運んでゆっくりと下で堪能し、飲み込むまでにどのくらいの時間がかかったなど自分には分からない。言葉に出来ないくらいだった。


「その顔見れば感想は一目瞭然ですね」


堪能していた私を桜井さんはあのふわぁ、とした微笑みで見つめてくる。視界に思わぬ光景が映った所で私はハッと我に返り、その微笑みに慌てて言葉を返した。


「ご、ごめんなさい! あんまりに美味しくて…」

「いいえ」

「…ありがとう、ございます」

「喜んでくれたから、僕も本当に嬉しい」


白い肌がほんのりと染まって、目が細くなったあの表情がこちらを見つめる。嬉しい時に見せるその表情は、今は何か照れている様にも見えた。


「沙織が嬉しいと、僕がこんなに嬉しい…その事がとても楽しいです。ああでもホッとしました。高校生の女の子って何が好きなのかなぁ、って考えて、やっぱりここは王道にいっちゃったけれど」

「…や、そんな気負ってたなんて…なんかすみません」


すごくホッとしている桜井さんを見て、次第に申し訳ないという気持ちが浮き上がってきた。フォークを進めながら、途中ピタリとその手が止まる。


「いやいや、そんなんじゃないんです! そんな謝らせるつもりはなくて…! 何だかんだでいつも来てくれてるから、せめて僕が出来る事がしたくて…その…お祝いはかっこつけで…いや祝いたかったのもあるんだけど…!」


なんと彼はその顔を真っ赤にしながらあわあわと繋がらない言葉で弁明し、そして耐え切れなくなったのかもう片方の手で己の口元を押さえ、手を前に突き出して私から逸らした顔を見えない様に遮った。否…見えてる…見えちゃった。ええええええ! なんか見ちゃいけないもの見ちゃった! 何その表情! そんな表情見た事ない! うわあ…。

相手の表情に釣られて、自然と私の方も身体中が再度熱を持ってくるのが分かった。熱い。特に頬が。耐え切れずに自分も桜井さんから視線を逸らすと、二人の間に沈黙の間が続いた。静かな空間にチクタクと時計が針を進める音だけが響く。それからしばらくしてその空間にすら耐えられなくなり、私は視線だけを桜井さんに向け、熱い頬もそのままに重たく閉じていた口を開く事にした。


「…あの、桜井さん」

「……はい」

「兎も角…ありがとうございます。…その…嬉しいです…」

「……はい」


未だ桜井さんの方も顔が真っ赤で、口元に手を当てながら視線を合わせてくれたはいいがそのまま顔も言葉も固まってしまった。あああ、何かまた固まった。うわあああこういう時どうすべきなんだあああ!

結局私は羞恥に顔を熱くし、普段目にしない桜井さんの照れ顔を見ながら残っていたケーキを平らげる事になったのだった。桜の季節の効果、ホント半端ない。



「少女万歳ですな!」 おっそい更新ですがお気に入り・評価ありがとうございます。桜井君が読み聞かせする原作を自分で読み、自分であらかた解釈しているので基本おっそいです。短編を心がけているのですが中々難しい…次は少々曲がり道にも行ってみたいですー。田山花袋は「蒲団」も有名ですね。女の人の匂いくんくんしたうおって話。

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