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5話:冬の日はホットチョコレートとお兄さんの語りで過ごしましょう。

冬の寒さが本当に身に染みる季節になった

はぁ…と白い溜息を吐くと私は薄暗い冬の空を見上げ、毎度の事ながら小夜鳴鳥へと歩を進める事にした。お店に辿りつく頃には怪しかった空模様が見事にどんぴしゃり、雪がはらはらと舞い始めていた。ひたりと頬に舞い降りた雪の冷たさに顔をしかめるとかじかむ手でノブに手を掛ける。張りつきそうな程冷え切ったノブが最終パンチで、もう身体は冷えに冷え切っている。

カランカランとベルが甲高い音を立てて扉が開くと、調節の利く間接照明が室内を照らしていて、テーブルには小さなキャンドルが乗っている。あれ、今日はなんか違うなと思った所でキッチンカウンターにいた桜井さんが丁度顔を上げた。


「沙織! いらっしゃい、寒かったでしょう」


すぐに温かいものを入れますね、と微笑むと、桜井さんは再びキッチンで手を動かし始めた。私は何も言われなくともいつもの席に腰を降ろすと、桜井さんのいるキッチンの方を見つめる。キッチンの灯りは室内の照明とは別についていて、その灯りに照らされた桜井さんの表情は真剣だ。あのほえほえとした笑顔を見せる人がキッチンで作業をする時はまるで別人になるから本当に不思議。

やがて一通りの事を終えたらしい桜井さんがニコニコしながらトレイを抱えてこちらにやってきた。そのまま私の傍らまでやってくると、トレイからカップとお菓子の皿をコトリと置いて、自分は向かいの席に座って組んだ手の上に顎を乗せてこちらを見つめる。


「これ…」

「いつもコーヒーなので、今回は趣向を変えてみました」


どうぞ、と差し出されたのはホットチョコレートだった。こげ茶色の液体の上に3つ白いマシュマロが浮かんで、その真ん中にミントがチョコンと乗っている。視線で桜井さんに許可を取って、手を合わせて両手で包むようにカップを持ち口に入れると、トロリとした液体が舌にまとわりついた。甘い。でも奥の方で苦味もちゃんと主張している。


「…ホットチョコって初めて飲んだけど、おいしい」


それでも甘いけど、と付け足せば、桜井さんはまあたまにはね、とほほ笑んで言った。


「お出ししたのはアメリカン・スタイル風のホットチョコレートです。上にマシュマロが乗っているのが特徴なんですよ。あくまでも本場で学んだわけじゃないから『風』、なんですけれどね」

「へえ」

「日本ではもっぱらホット・ココアがメインなんですけど、こんな寒い日だからチャレンジしてみたくて。沙織の好みも考えて甘さは少し控え目に、チョコレートはダークチョコレートを使ってみました。苦味も少しあるでしょ?」

「うん、遠くの方にいるの分かる」

「そう、良かった。お菓子はマフィンにしてみたんです。甘さも控え目、中にオレンジピールを入れてます。こちらもどうぞ」

「ありがとうございます」


礼を言ってマフィンの方にも手を伸ばす。ふんわりとしてオレンジの酸味も効いている。本当にすごいなあ…。

そんな私とは裏腹に、ふと空を見上げた桜井さんが、薄暗い曇り空を見上げてぼんやりと呟いた。


「こんな曇り空を見て、ふと芥川龍之介の『蜜柑』を思い出しました」


そしてホントにこちらのネタも尽きないなあ…。クスリと半ば苦笑いで声を上げると、あっという顔の桜井さんが眉を下げてこちらを見返した。しょうがないなぁ、この人。


「良いですよ、聞かせて下さい」


そう言った瞬間にぱあっ、とその表情が明るくなる。本の事となるとホントに分かりやすい人だ。桜井さんは自分の分のホットチョコを飲み込んで、ゆっくりと話し出した。


「ある曇り空の冬の日の事なんです。主人公の『私』が上り二等客車の隅に座り、発車の笛を待つシーンから始まります。彼自身は、言い様のない疲労と倦怠を抱えていました。ぼやがて発車の笛が鳴り、間もなく私の乗っている二等室に一人の娘が入ってきます。

動き出した汽車に安堵を覚えながら、私は改めて目の前の席に座った娘を見てみます。油気のない髪をイチョウ返しと呼ばれる髪型に結って、ヒビだらけの頬を気持ち悪い程赤く火照らせ、垢じみた萌黄色の毛糸の襟巻がだらりと下がったその膝の上には大きな風呂敷包みがありました。それを抱えた霜焼けの手には明らかに違う客車の切符が握られていたのです。


私はこの娘の下品な顔立ちや不潔な服装などを好みませんでした。おまけにここは二等室で、彼女の切符は三等室のもの―そんな区別さえ付かぬ愚鈍な心も腹ただしい。

私は巻煙草に火をつけると娘の存在を忘れようと夕刊を広げて見ます。その間にも私は娘の存在を気にせずには居られませんでした。


『このトンネルの中の汽車と、この田舎者の小娘と、そうして又この平凡な記事に埋まっている夕刊―これが象徴でなくて何であろう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくてなんであろう』 私は一切がくだらなくなって夕刊を放り出し、少し眠る事にしました。


しばらく経った後、何故か不安な気持ちに駆られた私が思わず辺りを見渡すと、いつの間にかあの娘が隣に来て窓を開けようとしています。これからトンネルに差し掛かるし、山の腹が窓近く迫っているのに何故開けようとするのか―私には理由が掴めません。それから娘が懸命に開けようともがき、トンネルに入ると同時にその戸は開きました。途端に汽車の煙が入って来て、私は息も付けぬ程せき込んでしまいます。その間にも娘は窓から首を伸ばし、じいっと汽車の進む方向を見つめています。やがて汽車はトンネルを抜け、貧しい町外れの踏切に差し掛かっていました」


そこで一息つくと、桜井さんはまたカップに口を付けて笑った。


「ここで問題です。なぜ娘は煤で咽返るトンネルの中、窓を開けたのでしょう?」

「えー…分かんないよ。窓開けるんだから、何かを見る為なのは何となく分かるけど…」


私が困って眉を下げると、桜井さんはそうですね、と微笑んだまま小さく呟いた。


「それでは続きをお話しましょう。町外れの踏切を通りかかり、少しすると踏切の柵の向こうで、頬を真っ赤にした三人の男の子が並んで立っていたのです。そして彼らは電車が通るのを見ながら手を上げ、一生懸命声を上げていました。その瞬間、あの娘が手を振ったかと思うと、懐から5,6個の蜜柑を出し、その男の子たちに投げたのです。


―私はその瞬間息を飲み、全てを理解しました。おそらく娘はこれから奉公に向かおうとしていて、見送りに来ていた弟たちにその蜜柑を投げ、労を報いたのだと。

全ては一瞬にして通り過ぎて行きました。しかし、私の心には切ない程はっきりと、今の光景が焼き付けられたのです。そして次第に得体の知れぬ朗らかな気持ちが湧きあがってくるのを感じました。次に私は茫然と顔を上げ、別人の様に娘を見ます。この時私は初めて、言い様のない疲労と倦怠と、又不可解な、下等な、退屈な人生を忘れる事が出来たのでした…」


おしまい、といつもの様にその言葉で締めくくった桜井さんは微笑みながら黙って私を見つめて来た。


「えーと…多分この私は作者の事なんだよね」

「そう。作者は仕事の関係でよくこの路線を利用していたんです。これは彼の経験を元に書かれたお話ですね」

「…それで、この私は最初、人生が面白くなかった。平凡だった。でも、その子のその行動で心が晴れたんだね」


私がそう言うと、桜井さんは静かに首を縦に降ろしてそれを肯定した。


「良いお話、とまとめてしまえばそれだけですけど、深いですよね」


ほう、とため息をついた私のカップを取り払い、次に桜井さんは口直しに、と言っていつものコーヒーを持って差し出してくれた。礼を言って口をつけ、その苦みを確かめる。桜井さんも自分のカップに注いで、コーヒーをゆっくりと味わって、また口を開いた。


「そしてこの作品は、放り投げられた蜜柑の色がとても色鮮やかに、読者の中に再現されるんです。薄暗い曇り空、汽車の煙、寂しい町並み。その中にただ一つ、鮮やかに浮かぶオレンジの色…」

「……だからコレもオレンジなの?」


フォークでぴし、とマフィンを刺しながら私が問うと、桜井さんは何故か黙って明後日の方向を向いた。あ、図星かこんにゃろう。


「…仕込みか」

「あああそんな顔しないで下さいよ! ほんの出来心だったんですってぇ!」

「そうだよね、桜井さんはそういう人だって分かってた私」

「誤解ですってばぁ!」


ほんとしょうもない人だ、全く。




何かが足りないと思っていたら季節をすっ飛ばしていた事にしばらくして気がつきました。なので春の季節は修正して再投稿し直しました。ご迷惑をおかけしています。ホットチョコとココアの違いは、板から削るかパウダーか。ざっくりいうとそんな感じ。アメリカでは二つとも同じ意味で使われるらしいです。たぶん。

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