2話:お兄さんは天使の笑顔して結構変な人でした。
桜井さんと出会ったのはほんの偶然だった。学校からの帰り道、たまたま前を歩いていた猫が入っていった路地裏について行った事が事の始まりだ。特に何て事ない黒猫が路地を歩き、そしてその店の前に辿りつく頃にはどこかに消えていた。小さな『小夜鳴鳥』と書かれた看板と、扉についた呼び鈴だけの古ぼけた扉の前に立ち尽くし、そして無意識にーほぼ無意識だった―その扉を押し開いてしまった。
そこは喫茶店というには本がいっぱいある処で、一瞬本屋さんかな、と思ったのを覚えている。
真正面に置かれたアンティークテーブルには香ばしい香りを漂わせたカップと、イスに座って本を読んでいた儚げな雰囲気を持つ一人のお兄さんが顔を上げてこちらを見つめたから余計に驚いた。
何というかお兄さんはイケメンだ、という印象が第一だった。
黒に近いブラウンの癖のある髪をサイドでピン止めし、白いシャツはパリッと糊が効いている。腰に巻いた丈の長いセピア色のカフェエプロンが真っ白なシャツと対抗してよく映えていた。
しかし何故かその時、向こうの方も同じように驚いた顔をして、瞬間2人の間に沈黙が生まれた。しかしそれからお兄さんは次の瞬間、ふわっと花びらが綻ぶ様に破顔したものだから思わず息を飲んだ。
「……いらっしゃい」
「あ、あの…」
戸惑う私にお兄さんは黙ってイスを勧め、それにつられて腰を落ち着けると今度は逆にお兄さんが席を立った。見下ろしてくる瞳は春の日差しの様に温かかった。
「君みたいな可愛らしいお嬢さんが来てくれることなんか初めてだから、余計に驚いちゃいました。いつもおじさんばっかだしね」
「そ、そうなんですか」
思わず出た声がうわずってしまい慌てると、お兄さんは楽しそうに笑った。
「良かったら、来店記念に一杯サービスしますよ」
「え! いやお金払います!」
「満足してくれたら次来た時に払って下さい」
前の方に設置されたキッチンカウンターに向かいながら、お兄さんはその綺麗に整った顔に笑顔を浮かべたまま白いシャツの袖をまくり上げた。現れた程良い筋肉のついた腕は顔の白さとは違いうっすら焼け、そこそこに健康的な肌の色をしていた。
「君が来てくれる口実づくり。ねえ、お名前教えてくれますか」
「はい?」
その儚げな微笑みがこちらを魅了し、瞳が日の光を浴びてキラキラと輝く。本当に嬉しそうに笑うその笑顔に少し癒されたのは少し黙っておこう。
「僕は桜井結城。このお店『小夜鳴鳥』の店長さんですよ。ああ、やっと話し相手になってくれそうなカモ…否お客さんが現れた…嬉しいなあ」
ん? 何か今聞いちゃいけない単語が混じっていた様な気がするんだが気のせいか? 怪訝そうな顔を向けたのだが、彼―桜井さんはニッコリと微笑みを絶やさぬまま見下ろすだけだ。
「気のせいですよ、お嬢さん。さてお嬢さん、僕にお名前を教えて頂けませんか?」
「………沙織。深山沙織です」
「……沙織……覚えました。早速ですがこれから沙織、って呼んでもいいですか?」
「え……ああ、はい? 初対面ですけど私達!?」
桜井さんの言葉を飲み込んで咀嚼して理解するのに10秒くらいを要し、ややあってひっくり返った声が私の口から零れた。桜井さんはキッチンカウンターの方からえ―と無邪気に間延びした声を上げる。うわあ彼の背後にキョルルン、とか擬音が付きそうだ。
「もうお知り合いですよ、これで二人の仲は急接近、ね?」
何がね? なんすか貴方。ほえほえした笑顔で責めてきますねお兄さん。眉と眉を寄せたまま固まってしまった表情を、片手にマグを抱えた桜井さんはえい、と眉間に空いているもう片方の人差し指で押しつけてぐりぐりとしてくる。
「折角のかわいらしいお顔をそんなしかめてちゃいけません、さ、これを差し上げますから」
と言って差し出したマグの中には真っ黒な液体―コーヒーが湯気を立ててその水面を揺らしていた。ピタ、とその場で固まり、香ばしい匂いに釣られおずおずと口元に運んで飲み込んだ。おいしい? と目の前で桜井さんがニコニコ顔で見つめてくる。う、良い笑顔すぎる…
「…お…おい、しい…です」
「なら良かった」
そう言ってから桜井さんはそれまで座っていた席に再び腰を落ち着けて再びこちらを見た。優しい眼差しが印象的な人だと思った。
「此処はコーヒー以外に紅茶もラテも入れられるから、次は好きなの注文してください。料理はツマミみたいな軽食ですけどね、こちらも良かったら」
「…此処は喫茶店なんですか?」
コーヒーをすすりながら、私はそれまで思っていた事をおそるおそる聞いてみる事にした。桜井さんはテーブルに置いていた自身のマグで飲みながらそうですよ、と変わらない、ほえほえとした笑みで答えて言った。
「僕はもともと図書館の臨時職員でした。でもね、結局図書館って客商売なんだけれど、県なり市なりのお役所仕事なんですねえ…僕には合いませんでした。まあ仕事自体は楽しかったですけどね」
まあはたから見て人間関係は興味無さそうな感じではある。否、皆まで言うまいて。
「それで、このお店を始めた…?」
「ええ。幸い実家には祖父が買い集めた本が沢山ありました。昔は書店さんも営業に来ていた時代で、祖父は勧められれば買ってしまう様な人だったから。情けない事に何でも買ってしまうから今では家にお金なんて残ってません。残ったのは沢山の本の山。家族もため息ついてたくらいですから」
「へえ…」
そりゃあ特異な人だ。感心しつつコーヒーを飲んでいると、桜井さんは飲み終わった自分のマグを持ってまたカウンターキッチンに向かい、見えないのだがどうやらマグを洗い始めたらしかった。やがて水音が止むと、桜井さんは濡れた手をエプロンで拭いながらこちらにやって来て話を続けた。
「でもね、新しい本はなけなしのお金で買うからここには少ないけれど、祖父の買いあさったその本たちのお陰でこんなお店を開く事が出来ました。それだけは感謝、ですかね」
「…でも正直利益は無さそうですね…」
「あは、それは言わない約束ですよぅ。僕だって気にしてるのに」
ちっとも気にしたもの言いじゃない気がするのは私だけなのだろうか。むむう、と再び寄ってしまった眉間を戻す事を意識しつつ、最後のコーヒーを飲み干すと礼を言って立ち上がろうとした。
「僕が片付けますから、とりあえずココに置いて」
ちょいちょい、と桜井さんが肘をつく目の前のテーブルを指さすのでためらいながらもそのままコトン、とマグをテーブルに置いた。
「沙織は本が好き?」
「え…まあ嫌いではないですけど。…そんなに読む方でもないです」
「そう。でもこの空間は落ち着くでしょ? 店長さんと言いながらね、僕はここを管理しているだけ。この空気を作り出しているのは、ここにある本たち。彼らが自然にこの空間を演出してくれているんですよ。時が止まった様な、しいんとした、それでいてゆったりとした感じ。言葉にはしづらいから、肌で感じてくれればいいけれど」
「…それは、何となく分かります」
まるでここだけが時間を忘れてしまったような空間。緩やかにとろとろと流れていく空気が心地よい。
古い本の匂い。昔の本にかかっている薄いパラフィン紙がカサリと音を立てる。
「今の本は色々装丁が凝っている。それはそれでいいけれど、昔は昔の良さがあるんですよね。僕はこの古い本の手触りとか、ページを繰った時の匂いとか好きなんですよ。僕らの時間が過ぎていくのにこの子たちは古き良き時代の空気をちゃあんと保存している。ページを繰る時、時々切なくなるんです。
ああ、良いなあって」
言いながら周りの本棚に視線を向ける桜井さんの眼差しは愛おしげで、本への愛情が伝わってくる。ああ、でもね、今の本も勿論好きなんですよ! と爽やかに言っているその顔も嬉しそうだから、皆好きなんだろうなあ。何かこっちまで嬉しくなってくる。
しかし問題はその後だった。それから桜井さんの本談義は20分くらい続き、最初の嬉しさは5分くらいでどっかにぶっ飛んだ。聞いているこっちは10分くらいで耐久力が無くなった。おおい本だけでこのイケメンどこまで語れるんだよおおおお! 中身なんかちっとも語っちゃいないのに。そりゃ好きですよ。読書は嫌いじゃないよ。でもここまで語れねーよ!
何とか話の切れ間を見つけ出し、そろそろ帰ります、と言ったその途端にそれまで喜びに満ちていた表情が一変、キューンと眉が下がり哀しそうな表情を作った。おいおい、なんかプルプルしてる子犬を見ている気分だよ。心なしか桜井さんの頭に垂れ耳が付いているのが見えるよ…。見下ろしてきて桜井さんが消え入りそうな声で呟く。
「…もう帰っちゃうんです?」
「……すみません」
「………また、来てくれますか?」
子犬の様に濡れた瞳にぐ、と言葉を詰めた私は、ややあってゆっくりと頭を縦に降ろしたのだった。その後の彼の喜び様は今でもはっきりと思い出せる。まさにワンコみたいだった。
他作品がゲログロ路線なので、まさか自分からこんな天使の笑顔した変人が生まれるとは思いませんでした。変人が読んでる作品も大概偏ってますあしからず。次回から本領を発揮させたいです。