15話:呼んで。
私は早速危機に立たされていた。
「さ、呼んでみてください」
「そんっ…な事言われたって…!」
「もういいじゃないですか、呼んでも差し障りないんだから」
「だって…!!」
もうこんな会話も何回続けてるんだろう。私は桜井さんのプライベートルームでばれない様にこっそりとため息をついていた。腐っても―否腐ってないけど! 受験生の私は今桜井さんに無言の圧力という名の笑顔に招かれて、コーヒーを傍らに勉強を教えて貰っているのだった。しかしそれだけで終わる桜井さんではない。もうごっこではなくなった私達の関係で、未だに私は桜井さん、と呼んでいるのに対して彼はそろそろ名前で呼びません? と勉強の合間を縫い、事あるごとに持ちかけてくるのだ。どうしてこうなった。
正直のところ私はこれまでずっと桜井さんと呼んでいたせいか、今一桜井さんを名前で呼ぶ事が出来ない。どうしても出来ないんですよぉ!
それでも諦めないのが桜井さんである。私が勉強をしている最中でも、事あるごとにそれについてを追求するのだから。ふう、と隣でため息をついた桜井さんは、仕方ないなあと腰に手を当てて私を見下ろした。後私には如何せん困ったことがある。こうして隣の席で勉強を教えてくれるのはいいが、その距離が近くてどうしても緊張してしまうのだ。後桜井さん、やっぱり文系の方が強かった。理系は途中で一緒に悩んでしまう。それはそれで可愛…否、言わないでおこう。
「…沙織。貴女も本当に強情ですね。僕は名前を呼ばれたって一向に構わない。むしろ君に呼んで欲しいのに」
「こ…こればっかりは時間かかりますよっ! …今までずっと、…その…桜井さんって呼んで来たんだから」
「うーん困ったなあ」
と言いつつその顔は全然困ってなさそうだ。口元はゆるゆるで、むしろこの会話を余計に楽しんでいる節がある。こっちの方が困った事態だわ。シャーペンの頭を唇に当てながら、私は眉を潜めて桜井さんを静かに睨みつけた。それなのに彼は頬を赤らめてこちらを嬉しそうに見つめ返すだけだった。畜生何だよ可愛いな!
桜井さんのプライベートルームは整然としていて、でも彼の性格のように優しさも忘れていない。白の壁紙の室内で、部屋を占拠しているみたいなオッドマン付き二人掛けダークブラウンのカウチソファー。その前に木目調の落ち着いた雰囲気を醸し出すリビングテーブル、下に引いてあるのは毛足の長いふわふわとした黒いカーペット。目の前には1人で見るには十分なサイズのテレビが置かれている。カーテンはパウダーブルーの淡いカーテン。暖房は程良く室内を暖めている。
そして私の傍らには桜井さんお手製の飲みかけコーヒーが寂しそうに残っていた。勿体ない、もう冷めちゃった。
「余所見しないで」
切りこむ様な桜井さんのその声にハッとするその間もなく、振り向けば桜井さんの顔が身近にあった。うわわわ、もう勘弁して下さい! 貴方のその顔綺麗すぎるんですってばああ!うまく口が回らずにパクパク口を動かしてもうまく言葉に出来ない。
「あっ…のっ…ですね…」
「君は本当に僕の食べ物と飲み物が好きなのは嬉しいんですけどね」
「へ…」
少し残念そうに桜井さんはそう言って突然私の腕を掴んだ。な、何何? 近くにある桜井さんの顔に心臓がもう爆発しそうなくらいにバクバク言っている。空気が足りなくなって次第になんだかクラクラしてきた。掴まれた腕をそのまま引かれると、そのまま桜井さんの唇に唇が触れてしまいそうなほど近くなる。顎を桜井さんのもう片方の手で取られている状態だった。ホント目の前で桜井さんの吐息すら分かる。そう自覚しただけで心臓が飛び出しそうだ。
「…沙織」
「ふふふふふふふふゃい!」
「何その反応」
可愛いですね、と頬を染めた桜井さんがうっすらと、それはそれは妖艶に微笑んだ。いつもの優しい笑みじゃない! ヤバいこんな表情の桜井さん見た事ないよ初めてだってえええ!
私と目を合わせた桜井さんは薄く目を細めて微笑んだ。ふふ、という笑い混じりの吐息が頬にかかってぞくぞくする。顔が熱い。どうしたらいいのこんな状況!?
「呼んで」
「さ、桜井さん!」
「違う」
「え…」
「呼んで」
「う…」
ええ桜井さんてこんな人だったっけ! もう恥ずかしくて顔も何も真っ赤だよ! 綺麗すぎるんだこの人! 恥ずかしい、思わず目を瞑った私の目の前で桜井さんが婀娜めいた声で意地悪く囁いた。
「……でなきゃ、ずっとこのままですよ」
「そそそんな」
「僕はこのままでもいいけど」
「う―…」
「ほら、呼んで」
「…………………ゆ」
「ゆ?」
「…………」
「……ん?」
「……………ゆ、うきさん」
「よくできました」
ニッコリと笑った桜井さ…結城さんは、途端に手を離してそのまま頭を撫でてきた。優しいその感触にホッと胸を撫で下ろす。やばい、心臓がもう持たない…ドキドキして止まらないよ。両手を握りしめて胸を押さえているという意味のない事をしていてもダメなのは分かっているけど、やらずにはいられない。ふと結城さんを見上げると、彼はいつもよりも増し増しで頬を真っ赤にしながら優しく私の頭を嬉しそうに撫でていた。
「…ああ面白かった」
「え…」
「すごい勇気要りましたけど、でも楽しかった。君を困らせるのは」
「こ、困らせ…!」
「楽しいですね、君を困らせるの」
「何で…ですか!」
「クソ可愛い沙織が見れるし、何より」
それまで頭を撫でていた手がぱっと離れ、結城さんの両手が私を抱きしめる。あまりの出来事に一瞬何が起こったのか分からなかった。
「沙織が僕の事で困っているのが、本当に嬉しい」
ぎゅう、と抱きしめられた身体は、間違いなく結城さんの腕の中。次第に理解し始めた脳味噌が沸騰しそうなほど熱を上げた。しゅう、と頭のてっぺんから音が聞こえた気がした。火照った顔を隠す様に彼の腕の中に顔を埋めて、そっと囁く。
「……さく…結城さんて、……そんな人だったんですね」
「ええ。分かっていたでしょう? 僕はこんな人です」
「…わか…否、何となく」
「このまま抱きしめていたら、君はもっと困るんだろうなあ」
「う…困る」
「我慢してください。これからしょっちゅうは会えないんだったら、会える時間僕はたっぷり充電しなきゃいけないんだ」
「…ええ………あー…も、いいです」
「うん?」
「たっぷり困らせて下さい」
「……はい」
桜井君の名前って漢字変換で出てきたのをたまたま選んだのですが、どっこいクワ科の植物の名だったって今更な話。かわいらしい実がつく所は少し似ている気がする。沙織ちゃんはすらっとそのまま。