14話:ね、おいで。
今日の私はただ憂鬱だった。勉強ははかどらず、気分転換の様に小夜鳴鳥に訪れてみる事にした。秋も終わりかけ、季節は冬の時期に移行しようと動き出していた。外の風は肌を切る様な冷たさになってきたし、暖房が欲しい季節でもある。マフラーを手で押し上げてから扉に手を掛ける。室内に入った瞬間に爽やかな笑顔の桜井さんが出迎えてくれて、少しざらついていた心も和む。
いつもの様に椅子に腰かけて桜井さんを見上げると、視線が会った瞬間にきょとんとした桜井さんを視線が合い、彼は花びらが舞う様にふわぁ、と微笑んだ。
「今日はちょっと疲れてますか」
私の元にやってきた桜井さんはそして私の頭に触れてそっと撫で始めた。うわぁ、すごいなんか癒される…。おとなしく撫でられていると、目を細めて桜井さんが面白そうに口角を釣り上げた。
「まるで猫ですね」
「…あ…や…すみません…」
いいんですよ、と桜井さんは撫でながら答え、そして自分の隣に腰を降ろして真正面から私と同じ高さに視線を合わせる。先ほどまで笑っていた顔が一転、心配そうにこちらを見つめていたので私は苦々しく笑って答えた。
「勉強、あんまりはかどってなくて」
「そうなんですか…高校生は大変ですもんね。忙しいのに来てくれてありがとう」
「いいえ、桜井さん。今日は気分転換ですから」
「…そう?」
「ただ、もう少しするとまた、会えなくなっちゃうけど」
「そう…」
ああああ止めてぇそのワンコ的な眼差しは!悪い事している気分になるのおお!仕方ないんだってばぁ! しゅーんと眉を下げて、その美麗な顔を悲しそうに歪めるその様に久々に湧き上がる罪悪感。そして久々に桜井さんの頭に耳が見えました。いつの間にやら互いに正面に向き合って膝を突き合わせて、気恥かしい空気に互いに顔を逸らしている何ともいえない状態で。横目でちらりと桜井さんを見ていたら、桜井さんの犬耳がピコピコ動いていて、しばらくして何か思いついた様には、と顔を上げた。
「…良かったら、僕のプライベートルームに来ませんか」
「え?」
そう言った桜井さんは突然立ち上がるとそのままカツカツと喫茶店の扉まで行き、扉を開けてから何かをしてまた扉を閉めてまたこちらに戻ってくる。ぱん、と手を叩いた桜井さんは私を見下ろして楽しそうに微笑んだ。
「これで今日は店じまい。ね、僕の部屋、この奥なんです。上がっていって?」
「え…」
いや、勿論興味が無い訳ではございませんが、いきなりですか。いきなりお部屋デート?! え、私心臓の用意してないんですが。いや、そんな事ではなくて!
「勉強、教えてあげますから。ああ、ご褒美にコーヒーとお菓子くらいは付けてあげます」
「あ…そうですか」
ですよね! ですよね! ああびっくりしたわ! この人が言うと洒落にならないんだもの!
自分の胸の内の葛藤と戦っていると、カツンと靴音が近くで響いて、桜井さんが私が座っている椅子の背に手を掛けたのが分かった。顔を上げた瞬間に耳元に吐息交じりの声が吹き込まれる。
「それとも…他に何か期待してたんですか?」
「滅相もない!」
「…そう」
チッ。小さな舌打ちが聞こえました。あれ、桜井さんですか今の…? そう思い桜井さんを見つめたのだけれど、その時にはいつもの笑顔に戻っていた。しかしその笑顔は、無言の圧力を意味していたのを私は見逃す訳がなかった。
「ね、おいで」
時折覗く腹黒さ。