13話:僕は君が好きだ。だからそう、勇気を出すよ。
やがて泣きやんだ私に、桜井さんはホットココアを出してくれた。黙って受け取った私はそれを静かに口に運んで、一つ息をつく。優しい甘さが舌に残り、心を落ち着かせてくれた。心配そうに見下ろしてくる桜井さんを見上げ、震える声を絞り出す。
「ごめんなさい。桜井さん」
「なんで沙織が謝るの」
私からカップを受け取った桜井さんはただ困ったように笑ってこちらを見返した。春の日だまりにも似たその優しさの残る微笑み。でもどこかせつなさも混じり合ったその微笑み。
「桜井さんが自分の事、いつか話してくれるって言ってたのに…だから本城さんを責めないであげて。本城さんからは本当に何も聞いていないの。仲直りしてね」
そう言うと桜井さんはふ、とその表情に影を落とす。
「……僕がいけないっていうのは分かってる。いつまでも言わなかったから。勇気が出ない、唯の意気地なしだから。…でももう勇気を出します。聞いてくれますか」
「…はい」
窓の外で風がざあああ、と木々を凪いでいくのが見える。悲しそうに微笑んだ桜井さんは、私の左手を自分の右手と絡めてしっかりと握りしめると、少し間を置いてから話し始めた。
「…僕が前の職場…図書館を辞めたのは、実はストーカーにあったからなんです」
「…ストーカー…?」
私がオウム返しの様に聞き返すと、桜井さんはそうです、と硬質的な声で頷いて返した。ぎゅう、と握りしめた手に少し力がこもる。
「……図書館と言うのは、裏を返せば変人奇人が良く集まる場所なんですよ。絶対的に良いイメージなんか付けられたもんじゃないです。
玄関前に口に出せない様な汚物を置いて行く、自販機に八つ当たりしてぶっ壊して去る。本は黙って持っていく、本を水に濡らしても汚してもそれが? って顔している。そう言う人は一部ですけど、いるんです。まあ、内部の人間関係も混濁してましたけど…
その中でもストーカーは稀ですが…同僚だった女の子はある男にしょっちゅう付きまとわれて、今日は何時までなのとか、髪型変えたね、今日は○○ちゃんいないの、って状態で数カ月後に彼女は辞めました。
結局女の子が多い所だから本当にそういう事あるんですよ。で、女の子ばかりだから客の男は皆付け上がって見下してかかるんです。男ってね、自分で違う違うって思っても、本能で女性を見下すんだなあって、本当にそう思いましたよ。自分も男なのにね。
そう言う事もあるから、施設によっては警備員置いたり、夜は男の人をカウンターに置いたりするんです。それでもやっぱり男性は少ないから、なかなか遅くまでやる事は厳しい。そう言う人も居るし、ヘタしたら犯罪者だってホームレスだって入って来れるんですし。
僕もそんな感じの、唯一の対抗手段としていました。流石に男にはつきまとうまいと、自分自身も回りも思ってました。それが間違いでした。
最初はただの良く本を借りに来てくれる常連さんだったのに、次第に昨夜○○でご飯してたね、帰りは何時、番号教えて、調査相談なんかで対応したら関係のない話も合わさって小一時間は捕まるし、ペンを貸したら目の前でキスして返されました。その時はもう気持ち悪くて…棚で配架してても後付いて回るんですよ。棚の影からじっとりとした目が…見えるんですよね。それで…帰りも後付けられて、家も知られて、警察に届け出したんですけど歯止めが効かなくて。
無視を決め込んでたんですけど、向こうが耐えきれなくなっちゃったみたいで、ある日刃物を振り回して掛け込んで来られて僕は怪我をして、もう流石に職場には居られなくなっちゃって。それで心機一転頑張ろうってここに移り住んだんです」
「……壮絶ですね」
余りの衝撃で言葉が出ない私を見て、でしょう、と困った顔の桜井さんが言った。
「…図書館内の人間関係にも疲れていたんでもうボロボロでした。女の園って本当にエゲツないですからね。…本が好きだって気持ちだけで働いていたかっただけなのに、結局現実の方がそれを許してくれない。更に襲われて、軽傷ではあったもののそれまでの事で大分参っていた僕は、一旦実家に戻り心なき人形のようにしばらく過ごしていました。実はこの街にあるんです、実家。そこで窓辺からいつも外をぼんやりと眺めては祖父の残した本を静かに読んでいる日々でした。
ようやく落ち着いた頃、僕は勉強をして、それから家を出て今の店を始めました。もともと祖父が残していた土地が離れた所にあったので、そこを改良して此処を作ったんです」
「そうだったんですか…」
未だに言葉が出ない私を見て、桜井さんが今度はそっと頭を撫でてきた。
「…びっくりしたでしょう、怖がらせるつもりはなかった。…怖がらせたくなかった」
「いえ…」
「でもね、良い事もありました……ここの街に来て、勇気を出して図書館に久々に入って、ある女の子に僕は凄く心を惹かれた」
桜井さんがふと、思い出したように顔を明後日の方向へ向けた。
「棚から取り出した本をふとした拍子に落としてしまって、そっと拾って静かにごめんね、って撫でてあげていた女の子…荒んでいた僕の心があっという間に攫われていきました。本を大切にできる、本が好きな子なのかな、って思いました。すごい温かい気持ちになったんです。こんな事で惹かれてしまう僕もとことんバカだと思うけど…どうしようもなく惹かれた」
「あ…」
優しい眼差しが、ゆっくりとこちらを見下ろした。
「ちょうどあの全集の棚だった…それが君だった。君は覚えていなかった、自然な行動だったんだろうけど…」
差し伸べられた両手が私をそっと包み込んだ。冷たい指先が上がって来て頬を滑る。優しい感触に涙が出そうになる。桜井さんはふわぁ、とあの春の陽だまりの様な微笑みを浮かべた。
「ここに来てくれた時、嘘なんじゃないかと思った。このまま返したらもう二度と会えない気がした。だから…でも…最初は勇気が出なくて…こんな関係を結んでしまった…僕は本当にズルくて臆病で意気地なしなんです」
「桜井さん…」
「ね、沙織」
そっと涙を拭った指先が髪の毛の中を滑る。優しい眼差しがより一層近くになって、今度は心臓の音がばくんばくんとうるさくなった。桜井さんは頬を染め、微笑みながらゆっくりと口を開いた。
「もうすぐ君が初めてこの店に来てくれた時期になるんです、覚えてますか。長かったけど、あっという間だった気がする。…それで、それで…その……さっきは言いそびれちゃった…けど…今度は、」
一旦言葉を切った桜井さんが、大きく息を吸って私を見つめる。
「…この関係を、本物にしたいんですけど、良いですか」
「へ…」
思わず目を真ん丸に見開いて私は目の前の桜井さんを思わず見つめ返した。顔を真っ赤にした桜井さんは恥ずかしそうに一旦目を逸らすとちら、と不貞腐れた様に横目で私を見やった。
「…何度も言わせないでくださいよ」
「いや…あの…今…」
「全く、時間が経っても相変わらずですね」
仕方ないなあと微笑ましく笑った桜井さんは頬を染めたまま私の手を取って、その手の甲に口づけた。頬がかああ、とあっという間に熱くなる。桜井さんは本当に嬉しそうに、どこか泣きそうにほほ笑んだ。
「…恋人ごっこ、本物にしましょうか」
「さくらい…さん」
「僕と本当の恋人になってください」
―もう君が離れていくのを見るのは嫌なんだ。
抱きしめられた温かさに、溢れた涙を止める事が出来なかった。
勇気を出せなかった結果があのカモ発言だったとは言うまいて。
いつまでも先を書こうとしない自分に頭の中で桜井君が早く進めろとお告げを出してくるので崖から落とされそうになりながら進めていきます。