10話:お兄さんに対する気持ち。
心が痛いよ。助けて、助けて、苦しいよ。
いつの間にか辺りが薄暗くなってきていて、泣きながら走ったせいが喉が空気を吸う度にヒリつく。誰の視線も今は構っていられない。やっと誰も居ない場所までやってきたそこは小さな公園だった。息を潜めている遊具の間をくぐり、ヨロヨロと小さなブランコに腰を降ろす。その瞬間に今まで堪えていたものがボロボロと目から零れおちた。拭っても拭っても止まぬそれに抵抗する術すらない。うっすらと暗い空気は昼間とは違ってどこかひやりとしている気がする。ぎゅうとブランコの鎖を握りしめた時、不意に誰かの手が肩に触れた。
「!」
びっくりして後ろを振り向けば、そこには息を切らした本城さんがいた。先程までの笑顔とは打って変わってその顔は険しい。あれ、もしかしなくても追って来てくれたんだ…。ぼんやりとそう考えていると、本城さんは息を整えながら無理矢理話し出した。
「ご…ゴメン…沙織ちゃ…俺もいけなかった…」
「…ほんじょうさ…」
涙を隠しきれずに瞳に浮かべたまま本城さんを見上げると、本城さんは本当に困ったように眉を下げて私の頭を撫でながら隣のブランコに座りこんだ。夜空がだんだんとその輪郭を濃くしていく。キラキラと星がそれに伴って輝きを増す。キイキイとブランコを揺らしながら本城さんはポツリと呟いた。
「ごめんなぁ、沙織ちゃん。俺、ユーキはもう話せる様になったかなって思ってたんだけどさ。ダメみたいだな」
「…そんなに酷かったんですか。前の桜井さん」
「うん。凄かったし酷かった。…まだでもマシかな。前の職場でね、ほんとアイツは色々とあったの。それで精神的に追い詰められちゃって。…まあ詳しい事はアイツに聞いてよ。それでさ、しばらく酷かった。その時は飲まず食わず誰にも会わずで目は何処を見ているのか分からないし、何とかアイツに会った時は俺、死んでる、こいつはもう身体だけ残して魂は逝っちゃったんだなと思ったくらいに…アイツは壊れてたんだよ」
そう言って本城さんは隣で夜空を見上げた。本当にその時は人間を止めてしまった、そう感じたよ。私は何と言って良いのか分からなかった。ただこれだけは分かる。あの人は優しいから、きっと優しい分まで傷ついてしまったのかもしれない。
『沙織』
―ああ。
この胸の痛みを、止める事が出来ない。あの優しい笑顔を思い出すと、その分胸が痛い。きゅう、と締め付けられて、そして悲しくなる。その理由を今私は認めてしまった。なんで逃げちゃったんだろう。なんで受け止められなかったのだろう。嫌われただろうか。そう思ったら涙が後から溢れて止まらなかった。泣き続ける私に、本城さんがぽんぽんと頭を叩きながら優しく言った。
「沙織ちゃん、俺から言うのもなんだけど、ユーキを嫌いにならないでやってよ。ユーキはそれまで女の子と一緒に居る事なんかなかったんだ。どうしても出来なかったんだ。だから、沙織ちゃんが居た事が、俺はとても驚きだった。きっとユーキは沙織ちゃんの事受け入れられると思うんだ」
「…でも本城さん…」
「うん?」
「私……逃げて来てしまった…嫌われてないかな…」
それを口に出してから私の心は更に深く沈んだ。ああ、逃げるべきじゃなかった。今更思っても仕方ないのに私ったら…。それを見た本城さんは大丈夫だって―とのんびり言いながら手をひらんひらんと振った。
「ホントに大丈夫だってー。むしろ落ち込んでるよ、アイツはそう言うヤツだ。だから今すぐじゃなくてもいい、沙織ちゃんが落ち着いたらまた顔見せてやってくれないかな。今日はもう遅くなっちゃったし」
「……はい」
「それこそ、沙織ちゃんの気持ちに整理がついたらでいいから」
「……は…え?」
「ユーキにはちゃんと言っとくよ、待ってろクズって。ね?」
こちらを見下ろしてにこーっと、それはそれは含みのある笑みを本城さんは向けていらっしゃった。その笑みの意図する所を察し、途端に顔が羞恥に燃える。いやしかし最後のクズって、クズって聞こえた気が…お兄さん何気に怒ってらっしゃいますね…。それでも微笑んで本城さんは私の背中をぽん、と優しく叩いて、明日の天気は良さそうだねえみたいなノリで言った。
「君に全てを任せちゃって悪いねぇ」
「……は……は…いえ」
「お兄さんはホント安心したわー。いや良かった良かった、殴られたかいもあったなあ。痛てーけど」
「えっ! あ! そそそそうですよね、大丈夫ですか、冷やす物とか」
「あははは、うん多分腫れる―」
「腫れるーじゃないですよ本城さん美容師さんなのに! お仕事柄そんなのダメじゃないですか!」
「何とかなるなる―、これでまたユーキんとこ戻るからさー。アイツの頭もそろそろ冷えてんだろうし」
ああああ、何この天然系爽やかチャラ男お兄さん。自分に無頓着すぎるよ! 桜井さんに殴られた頬をさすりながらニコニコ笑っている本城さんは、さて、と言って私の隣で腰を上げてこちらに手を差し伸べた。夜空をバックにした本城さんは何と言うかやっぱり爽やかイケメンでした。
「でもまずは沙織ちゃん送ってかなきゃねー」
「えっ! いいですよ!」
「んーん。だってそうしないとまたユーキに殴られちゃうお兄さん。だからお兄さんの為にも近くまでは送らせてね、さおちゃん」
「いつのまにやら呼び方が!」
「えーもうお友達じゃーん。ホントマジで飽きないわ面白いねー。ユーキに飽きたらいつでも俺待ってるからおいでよー」
何言ってんだこの人は。ああ何だかこの手の人最近身の回りに増えた気がするのは気のせいなのかな。
自分は公園なんてある場所で育っていないので下界は果たして1人になるってどこやねんと悩みました。