1話:お兄さんは本の虫。
優男の風貌に、太陽を拒む白い肌。いつも着ているシャツにはしっかりと糊がきいている。腰には丈の長いセピア色のエプロンは折角の長い脚を隠してしまっているけれど彼にはよく似合っている。
少し伸びた癖のあるゆるやかな黒に近いブラウンの髪の毛は右耳にかけて赤いピンを2つ止めている。ぼんやりしたような眼差しはいつも何処を見ているか分からない。
学生が唯一解放される時間―放課後。大通りから奥まった所にある小さな図書室と喫茶を掛け合わせた様なお店。小さなアンティークテーブルとイス。そして古ぼけた棚に詰められた本の数々。離れた所にはキッチンカウンターがあり、その人はそこで飲み物を入れる。いつも行くと彼はいつもその部屋で何かしらをしている。今日はのんびりと古い装丁の本を読んでいた。あのぼんやりとした眼差しは、本を見る時も変わりなくぼんやりとその世界を漂う。
窓からは秋口の太陽の光が薄いカーテンに遮られつつも零れて室内に緩めの温度をもたらしている。ひんやりとした秋の空気を、少しだけ温めるその光。
やがて入口の私に気がついたその人は、こっちを見てから静かに本に栞を挟んで閉じ、ゆるやかに口角を上げて優しく微笑んだ。優男の顔立ちが優しく微笑むから、免疫のまるでない自分にはものすごく心臓に悪い。桜井結城さん。この小さなお店を管理する店長さんだ。
「何を読んでたの」
んー、と猫撫で声を出しながら、彼が戯れの様に本のページをパラパラと愛おしそうにめくる。
「泉鏡花の『高野聖』」
「…難しい奴でしょ」
「今はネットに大体あらすじが書いてある。それでざっくり把握して、ざっくり分かればそれでいいんです。こういうのには何度も読む事に意味があるから」
「それでも難しいよ…」
ましてや昔の人の言葉が載っている本だもの。授業でだって頭痛の種なのに。そう言うと桜井さんは不思議な事をいう、と面白そうに笑った。本を大事に両手で持ちながら、こちらを見つめる。
「昔なんて言ったって100年くらい前の話ですよ、沙織。まして僕らと同じ日本人。ちょっと前まで彼らが普通に使っていた言葉を、僕らが理解できないと言う事はない。むしろ分からない僕らの方が衰えちゃってるのかもしれない」
「…バカになったってこと?」
「さあね」
「……ひそかに私の事バカにした?」
「それはないです。だって僕もちゃんと理解はできないもの。僕だって同じ事だ」
ね? と尋ねながら桜井さんは椅子に座ったまま体重を後ろに預けた。ギィ、と苦しそうな木の音が室内に静かに木霊した。
「ざっくりとだけ教えましょうか」
桜井さんは変わらぬ笑みでこちらを見つめたまま、立ち上がると机の向かいに置いてある椅子を引いて視線でこちらを招いた。初めて出会った時からその自然な仕草は変わる事は無く、優しい微笑みでもってこちらを導く。
「…タラシだよね」
「嫌だなあ、下心があるみたいに」
ほら、いらっしゃい、と微笑む彼は近づいてきた私を有無を言わさずに椅子に座らせた。そのまま彼は本を抱えて立ち上がり、窓際に背をもたせかけるとまた栞を取ってから開いた。
「…昔々、信州に向かう為、山を登ろうとしていたある修行僧がおりました。
その麓のお茶屋で彼はある薬売りと出会います。そして二人は別れ別々の道を行きますが、薬売りの行った方角はとても危険な道。僧侶である彼は薬売りの事を心配し、彼の後を追いかけます。
しかしその途中、蛇に襲われ空から降ってくるヒルに血を吸われさんざんな目に合いながら彼がやっとのことで辿りついたのは一軒の家。
そこにはこの世の物とは思えぬ美しい美女がおりました。へとへとになった僧の申し出に美女は彼を泊める事を許しました。背中を拭いたいという僧に、彼女は彼の身体を清める為に川へと連れて行くのでした…」
低く、少しかすれた甘い声が無意識に自分の視線を桜井さんの唇に持っていってしまう。薄赤の唇が美しい声で言葉を紡ぐ様を間近に見てしまう。
「着物を脱がぬまま水で流していますと、女が言います。『そんな事をしていてはお召し物が濡れますよ、すべてお脱ぎになって。私が洗って差し上げましょう』」
その声が耳の中に、薬の様に溶けていく。甘く、緩やかに渦を巻き脳を包み込む様に。
「僧侶は女人の前で脱ぐのは大変恥ずかしかったが女は有無を言わさぬまま彼を脱がせてしまったので、仕方ないので女人の為すがままにしていた。ヒルに吸われ、あざだらけになった背中を手ぬぐいでは痛いでしょうと言い、女が手でさすり、水を流してくれる。その気持ち良さ、女の手の柔らかさ。
恍惚にならずにはいられない。それでも耐えに耐えているが、女の芳しい香りが、吐息が漂う。思わず尻餅をついてしまえば女が後ろから手を回して抱きしめてくる。
『いいえ、誰も見ておりませんよ』
慌てて離れると、女はそう言った。いつの間にか女は全てを脱ぎ捨て、全裸になっていた。僧はそれでも恥ずかしさと芳しい女の匂いに耐える。
帰り道、家へと帰る道中、女に様々な動物がまとわりついていくが、その様はまるで母の様でもあった」
ゆるゆると開かれ、とろりと流れる声の中に、僅かに紛れ込む妖艶さを垣間見る。ゾクリと、背中で何かが粟立つ。
「その夜彼は目を覚ますと、動物たちが家の周りを囲んでいる気配と、女のうめき声に気がつく。慌てて経を読むと、その気配は消え、女のうめき声も消える。
翌朝彼は礼を言って家を後にしたが女の事を忘れられず、女と共に生きようとしたが、女の家にいた男から、女の周りにうろついていた動物達は全て、女と一夜を共にした男達の哀れな末路だったと聞き、慌てて山を降りたのだった…」
やがて終わると桜井さんはパタリと本を閉じ、再びこちらを見つめて微笑んだ。これはきっと感想を聞いている眼だなあ。
「…なんか、エッチいね」
「あは、そうでしょ? 原文読むとその生々しさが良く分かりますよ。こんな女に出会ってみたいとすら思わせてくれる。でも彼女は魔性の女。一夜を共にすれば己の身が化生の物になり果てる。怖い、でも、抱いてみたい…」
「桜井さんも男だね」
苦々しく笑えば、桜井さんはコツリ、と靴音を一つ立てて一歩踏み出した。絶やさぬ微笑みが印象を柔らかくしているもののその裏の読めなそうな笑顔が時にイラつく事がある。
「ねえ、沙織」
歩み寄った桜井さんが座った私の前で立ち止まり、しゃがみ込んでこちらを見つめた。視線が近くなり思わずのけぞってしまうと、彼はクスリと声を上げた。
「いつになったら僕の名前、呼んでくれるんですか。僕はこの店のしがないお兄さんですよ。躊躇いなんてないはずでしょ」
「…そうだとしても私にとって桜井さんは桜井さんだよ…そんな仲でもないのに呼ぶなんて」
「えー…恋人ごっこの仲でしょ? 良いじゃないですかー」
ニコニコしながら見上げてくる瞳がとても綺麗で、思わず顔を逸らしてしまう。すると桜井さんはいつも笑うのだった。
「かわいい」
「桜井さん…!」
思わず振り返れば、いつものように微笑む桜井さんの儚げな笑顔。日の光が横から差して桜井さんの肌が透ける様に白くなって、頬は薄く上気している。気持ち良さそうに細くなった瞳に、とても嬉しいのが伝わってくる。
「沙織、コーヒー入れるから付き合ってくれません? ついでに飲みながら本の話でもしてあげます」
「…ついでって…ホント桜井さん、本好きだよね」
「そりゃあ僕は本の虫、ですから」
俯いたまま見上げると桜井さんはいつもの様に儚い笑みで微笑み返すのだった。
登場した作品の解釈は凄いざっくりざっくりって己の中で言い聞かせてなるべく短くしたので抜けている箇所もあります。間違いも否定できないので、その際は優しくご指摘下さい。一生懸命理解したつもりですが、最後には頭がパーンしました。