嗤わせるなと、きみは言う。
目の前で耕が泣いてる。
私は虚ろにそれを眺めてる。いや。目線は上を、遠くを見遣るようにしていたから、これは感じるの、間違いだ。
「─────ゆるさないから、“こんなコト”」
何の話だろう? 霞み掛かった頭じゃ何だかさっぱり理解出来ない。ただわかるのは。
「紗途子」
私の名前を頻りに零しながら、唇を戦慄かせ。私の手首を─────血が滴る傷を覆うように震えながら掴む耕の姿だけだ。
何が原因だとかそんなモノは無いかもしれない。
ただくだらなくも毎日毎日胃に積もり逝く、悲しい程の些細な、本当に細やかな[濁り]が。私の空元気に等しい耐性を凌駕しただけに過ぎないのだから。
────あぁ、耕が泣いている。
私が空虚な人間に、いやそれですら無い[存在]に成り下がったのを嘆いている。
あぁ……。耕。ごめん。
私が弱いから、あんたをいつも気遣わせてる。
馬鹿で物覚え悪くて頑健さだけが取り柄と言われ。
だけど誰よりやさしくて許容が在って人一倍に“観てる”。
知ってるのに、ね。
「……ごめんね?」
上向きのどこかへ彷徨う視線はままに私は耕へ謝った。いったい何に対してだろうか。判断出来てないのにね。
「……。───ゆるさない」
きっぱり、耕がそう告げた。
いつも子供みたいに笑う顔は今日は曇って。
強い“怒り”が垣間見得た。
私が怒らせた? そうだろう。私が泣かせたのだ。耕を。私が。
泣かせた。
不思議と、それには何も感じなかった。
嘘でも虚勢でもない。私はむしろ安堵さえしている。
耕が怒ってる。
私のために。
私のせいで。
それすら、うれしいのはなぜだろう?
耕がそばにいるのは「私が好きだから」らしいけど。
私が耕をそばに置くのは?
耕は真っ直ぐだから。
嘘を付くのは、それが正しい時だけ。
……だから。
うん。
耕が好きだな。
「嗤わせるなよ」
私の思考が非ぬ結果論を導いて、だいぶ平静を取り戻した頃。
まだ耕は私に言っていた。
「嗤わせるなよ。何か在ったくらいでこんなコト、すんな。俺がいるのに勝手に。紗途子。俺から消えるなよ。俺より大事なの? そんな程度なの? 俺は」
「そんなつもりは無い」
驚く程冷静な声音が耳を打った。勿論これは私の声。醒めた頭はようやく動き出したらしい。
流れた血に、錆びた脳にまるで絡繰り人形のような動作で私は耕に向いた。眼は、今頃正気を湛えてるだろう。
「そんなつもりは無い。ただ、疲れただけ。作業をしてて溜め息を吐くのと同じなだけ」
これは私の真実。
だけども、耕は怒るだろうな。もう空気だけで伝わってくるし。
瞳が、熱を持ってるみたいに見えた。
「バカ」
『馬鹿』
『莫迦』
────『愚か』
「嫌んなった?」
つい口の端が上がる。
「……な訳有るか」
わかっていたから。
「俺は、今も昔もお前しかいない。愛してるよ、紗途子」
ストレート過ぎ。
バカはどっちよ。
あー、愛しい。
「ん」
同じ言葉を返してやる義理は無い。これで充分。
これは私の“甘え”。
そして“打算”。
耕でなければ無いモノ。
嗤わせるな、ときみは言う。
変わり果てた、私に。
変わり果てる、私に。
そうして、私は安心する。
日々の変化に耐えて生ける。
【Fin.】




