きみを忘れた。
“きみを忘れた”。
これは嘘で有り自己暗示で有るから。
あまり意味も無いかもしれない。
「ねぇ、」
「……何?」
話し掛ける女性は、見事なまでのブロンドを揺らして遠矢を呼んだ。
母で在り義姉で有る女性だった。
そもそも。遠矢の家は普通でない。金持ちだから、の範囲を超えている。
遠矢は女性の子では無い。まして、父の子ですらないのだ。本当の父は、戸籍上『祖父』と言う項目に引っ掛かっている。
『祖父』なる“父”は、実の母を孕ませた。三十五も違う女をだ。
実の母は、現在『父』となっている“兄”の半分しか血の繋がらない妹だった。
“父”とは血の繋がらない、“兄”の妹。
つまり、戸籍上も事実上も祖母で在る人の、不実の子だった。だから、なのか。“父”は義理の娘を────それでも戸籍上は『実の』娘を、犯して妊娠させた。
そのせいかは知らないが。“兄”は、戸籍上の『父』は遠矢をひどく憎んでいる。
大切な妹……早くにして亡くなった母親が不実で作りながらも愛し託した妹を狂わせた、遠矢の存在を。
だと言え、遠矢にそんな事実は関係ないではないか。しかし“兄”には、『父』には有るのだ。遠矢が『祖父』に疎まれたならその逆も有っただろうが。
『祖父』はどうやら遠矢が愛しいらしい。猫可愛がりをする。甘やかすだけ甘やかす。
遠矢はそれが『父』の機嫌を損ねていることを知っていたが、そのせいで『祖父』を拒むことはしなかった。
しても無駄なんだ、と。気付いていたからかもしれない。
「何を考えているの?」
「別に……」
目の前のブロンド女性は、その過去を目の当たりにしていた。
母が遠矢を腹に宿す前から『父』と付き合っていたからだ。
戸籍上『母』の彼女は当時二十歳だった父より少し下、実の母の、年上の学友だったから。
「……」
ふわふわした女性だ。けれど強い。
十八で二十歳の彼氏と結婚し、狂った友達の子供を引き取ったくらいに。自分がそう言う立場ならどうだろう? 無理だな、と遠矢は確信している。己の至らなさはどうにも無自覚でいられない。
“兄”───『父』ゆえに。
「遠矢っ、その傷……」
しまった。そう思ったが後の祭りだった。考え込もうとして無意識に持ち上げた手。袖は当然重力に従い下がる。腕、手首手前に巻かれた包帯は、随分痛々しげに見えたかもしれない。
これは、虐げられた跡じゃない。
が、何度となく義弟で有り息子で在る遠矢が自分の夫に暴力を振られていた場面に遭遇し、夫の前で遠矢を庇ってきた彼女はそう思い込んでしまっている。
「……あの人、が……」
「違うよ。義父さんじゃない」
実の“兄”を義父と呼のは、いささか微妙な感覚だ。でも馴れた。
「本当なの?」
「本当さ」
「じゃあどうしたの?」
「転んだ」
「嘘を仰有い」
押し問答もいつものことだ。昔から。そう、昔から。
「そんなに言うなら見せなさい」
「それは────」
─────見ないほうが、得策です。だって、これはつらい。
“引き攣れた腕”、なんて。
いつからだろう。
煙草の火を、人知れず自身の腕に押し付けるようになったのは。
それでなくても。
それでなくても、腕や体は酷く醜いのに。
服を着てしまえばわからない。
けども、服を脱げば見える。
汚物と刻むかのように印された痕が。
実際は、大した跡じゃないかもしれない。専属の医師が、付いているし。
「疑ってるようだから言っとくけどねー……」
何より『父』の刻印は十五を境にぱったり無くなっていた。
「もう義父さんだってそんなしてないよ。心配してくれてるのに悪いけど、俺はもう抵抗出来る年なんで。まったく、いつまで経ってもガキ扱いなのね、俺は」
「そうじゃないけど、」
「それに、決まって俺が[悪さ]してたんだよ。何やったかまでは覚えてないけどね」
「そ、そんなはず……」
まぁ、身に覚えの無い[悪さ]だけど。
きっと、“兄さん”には質の悪い[悪さ]だ。
「とにかく、」
どっちにせよ。
「この話は止めーっ」
もう気にしない。
気に止めない。
誰もかも。
忘れてやる。
「……。じゃあ、話変わるけど」
「うん」
「遠矢、この家出て行くの?」
「うん」
あっさり。沈痛な面持ちの彼女に遠矢は頷いた。
「うん、て……。そんな話聞いてないわ」
「義父さんとはもう話着いたけど」
「私に、何の相談もくれないの」
「要らないかな、と思ったし。何より、反対するっしょ? 義母さん」
「当たり前でしょ? だってあなたは、」
──ああ。
「私の」
───やさしいなぁ。
「大事な息子よ?」
本当に想ってくれてるね。けれど。
忘れなきゃ。
忘れなきゃ。
きみを、忘れなきゃ。
『義父さん』─────いや、“兄さん”。
あなたは、まったくもって“正しい”。
だいたい、血が繋がらないからって娘を犯すような父親の子だ。
このままじゃ、二の舞いだ。同じ轍を踏む。
忘れなきゃ、……。
「遠矢?」
「さよなら、義母さん」
家を出た。十八から十九になる年、大学進学の年。
自ら、家を出た。
「はぁ、退屈……」
今日は講義の先生をやり込めた。大して面白くなかったが。
遠矢は、学内の中庭で休んでいた。視線は景色を見ていない。
楽しいモノは何も無い。合コンも行った、女の子とも遊んだ。髪を染めたカラコンした派手な色のセンス悪ノリな服を選んで外へ出て───。
それだけ。
「あー……つまんねぇ?」
座るベンチの前を、数有る他人が通り過ぎて行く。狭き門だ何だかんだと言いながら、所詮[学校]と言う概念が成り立つ程には人間が溢れてる訳だ。
「颯稀も今度のコンパ来いよーっ。可愛いコ滅茶多いぜ?」
一組、三人くらいか。そこそこ背が高いっぽい男らだ。遠矢のほうが少々勝ってるかもしれない。何気なく、テンションの高いその三人を見ていた。それでか気が付いた。
三人中二人は騒いでいるのに、一人は明らかに───とは言っても、多分周囲は気付いていない。遠矢だから気付いたのかもしれないが───当たり障り無く躱しているだけだ。
巧く流しているように見受けられる。笑っているが、おとなしさを演出しているだけで────。
「ありゃ[本性]じゃないな」
不躾に見詰め続けた。遠矢はサングラスをしていたため、それでも見咎められることも無く。
標的の青年は、莫迦みたいにはしゃぐ二人を冷静に、文字通り『冷静に』観ていた。
まるでそこに自分が関わっていないかのように。
表情は柔らかく笑うのに。
瞳は冷たい。
引っ掛かる。
[何]が?
[何]か。
「───。……あぁ、なる……」
成程と、感心した。
一人醒めた青年は、
義母に似た微笑いをし、
義父のように冷めた眼をして。
そこに在った。
遠矢の既視感は、ただの記憶だったらしい。にしても。
「……綺麗な顔、してんなぁ」
義父には無い顔だ。義父は──“兄”は、青年の石膏染みた無機質さでは無く氷みたいな冷たさだった。
義母にも無い顔だ。義母は──“義姉”は、美しくても華やかだった。
青年は違う。
仮面のように作り物のようで、“義姉”は太陽みたいだったけれどこちらは月のようだ。
陰と陽。正反対なのに。
「似てるなぁ」
“義姉”の表情を湛えた“兄”の眼をする二人と丸きりタイプの合わない青年。
“義姉”では無い。“兄”でも無い。────面白い。
遠矢は、高揚感を感じた。久方振りだった。
笑いが出た。止まらなくなった。声が洩れる。さすがにそばにいた見知らぬ他人が、怪訝に観てくる。
そうでも、遠矢は構わなかった。
興奮した。その勢いで相手を調べた。
小鳥遊颯稀。同じ大学の同じ一年、学部は文学部。
家族は父、母、姉、妹。本人は真ん中の長男。
人当たりは良く、男女共にそこそこに人気在り。やさしいと評判。根は真面目と評価。ここは“嘘”だと遠矢はわかっている。
知人に聞き回ったら出るわ出るわ。交遊関係が広いのはお互い様らしい。
そして調べれば調べる程、良い言葉しか出てこない。
素敵な徹底振りね、と本人に是非言ってやりたいと、遠矢は思った。
考えた。そうして、実行した。見掛けてから一週間。遠矢は青年、颯稀を待ち伏せした。学校の廊下で。現れた時颯稀は一人だった。
一見柄が悪くどこかのチンピラみたいな遠矢を、颯稀は一瞥くれたが反応はせず。表情が無いと、本当に凍っているようだった。
「───なぁ、」
颯稀が通り過ぎ様、遠矢は声を投げた。颯稀の足は止まる。
「俺と遊ばない?」
訝しそうに、眉間に皺を寄せる颯稀。遠矢は動じない。それどころか楽しんでいた。
「なぁ、遊ぼーよ。きっと楽しいから。ねぇ、受け入れて? 損はさせないし、退屈もさせない。だからさぁ、
他のヤツらみたく上っ面の皮だけで受け流さないでよ、ダーリン」
サングラスをずらしながらカラコンを入れた目で、少し低い颯稀を見据えた。
カラコン入れてて正解。
まともにやっぱ見れない。
あの目は、キツ過ぎる。
痛過ぎる。
これが、遠矢と颯稀の出会い。
何て偶然。
それから、いっしょにいる。
颯稀は相変わらず上辺は義母のように微笑し義父のように冷たく周囲を見流している。
遠矢は────多少変わった。
今では、自己の無責任さを利用していた。
サイトを開設したのだ。それも。
「自傷癖常習者のための精神系サイト?」
「そ。面白そうでない?」
傷を引き裂いてやる。
見知らぬ誰かのそれは痛み。
けど早々に忘れるよ?
だって得意だから。
忘れなきゃ。
忘れなきゃ。
きみを忘れなきゃ。
きみを忘れる。
誰でも忘れる。
すぐに忘れる。
ほら。
きみを、忘れた。
【Fin.】




