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「お祖父様はね、悪い人ではないのよ」
颯稀が目線を走らせると、要子はにこりと、微笑んだ。
「急に、何だ」
要子の家庭教師をしている颯稀は、今日も遠矢の実家でも有る要子の家を訪れていた。窓に面して設置された机の横に立ち、勉強を教えている真っ最中、唐突に机に向かう要子が言い出した。
「お祖父様の話よ、先生」
「……だから、急に何なんだ?」
参考書片手に訝しげな面持ちで眉を寄せる颯稀へ、要子は笑顔を崩すことも無く平然と返した。
「お祖父様、嫌われているかと思って」
「……。何で」
「だって、お兄様の事情を知っていたら、嫌いでしょ?」
会話にならない状況に疲労感を覚える颯稀だが、要子はそんな颯稀の様子を知ってか知らずか、否確実に把握しながら、ころころ笑って話を続ける。
このままでは、きっと終わらないだろうと判断した颯稀は、あきらめて要子の話に付き合うことにした。
「嫌う程知らないよ。お祖父さんのことなんて」
「じゃあ、お祖母様のことは?」
「……そっちも」
事実だ。遠矢を取り巻く環境はわかっている。けれど遠矢はおろか、個々の話なんぞは興味も湧かないため、尋ねたことも無かった。……と言うか。
「他人様の胸糞悪いあれこれを、責任を取る気も追及する立場にも無いくせに、下世話に吐かせる趣味は無い」
遠矢のことは、出会い頭に流れで聞いただけに過ぎず、自ら聞いた訳では無い。別にシチュエーションが違えば、きっと颯稀は絶対聞こうとはしなかっただろう。もっとも、ああ言う出会い方でなければ、颯稀は遠矢と現今のような付き合い方はしなかっただろうけど。
颯稀の答えに、要子は笑みを深くした。喜色を含みつつ、どこか憐れんでいるみたいな、嘲ているみたいな。こう言う顔をする要子は本当に遠矢に────いや、当主である二人の父親にそっくりだった。何だかんだ、紆余曲折在ろうと血は繋がっている証拠だろう。颯稀はつい、ふ、と笑いを洩らした。要子はそれを見咎めて、初めて笑顔以外の表情を見せた。片方の眉が跳ねて、少し気に障ったらしい。
「……何ですか? 先生」
「何も……ただ、よく似ているな、と思っただけ」
「……」
颯稀がそう笑うと、むすっとした顔で若干頬を膨らませて、要子は黙り込んだ。
拗ねているのだろうけれど、半分は照れているのだろう。
要子は、遠矢が、大好きだから。
まったく面倒極まりない兄妹だった。颯稀が息をそっと吐いた頃合いで、要子は再度問題を解く手を動かしつつ口を開いた。
「……それはともかく、お祖父様とお祖母様の話よ」
「……。続けるんだ、それ」
自分の中では終わっていたので、まさか続投されるとは思わなかった颯稀は、苦笑する外無かった。ずっと机脇に立っているのも億劫なので、近くの椅子を引き寄せ腰掛ける。
「そこから見えるでしょう? 離れ」
面も上げずノートから視線すら上げずに、要子が言う。言われ、颯稀は窓の向こうを見た。微かに木々の奥で、屋根が覗いていた。
「アレが?」
「そう。離れ。お祖母様、千鶴子様が沙千子さんをお産みになられた場所」
「────」
颯稀は僅かに目を見開いた。語っては淡々とノートの問題に取り掛かる要子を余所に、つい食い入るように屋根だけの離れを見詰める。
『沙千子』。
遠矢の母親。正確には実母で、当主の実妹。
そして。
「殊、特別ってことも無いのよ。お父様も、離れで生まれたの。ウチにお抱えの医師がいるのはご存知でしょう? “不義の子だったから”、離れで産んだとかじゃないの」
先代の妻、千鶴子が、不実の末に身籠った、先代とは血の繋がらない娘。
「お祖父様にはね、不義だとか不実だとか小さなことだったの」
要子はページを捲った。淀み無く話しているのに、問題も進めているらしい。器用で頭が良いところも、兄妹同じだった。たまに颯稀が己は要らないのではないかと感じる程に。まぁ、もともと颯稀の家庭教師はただの方便でしか無いのだが。
「お祖父様は跡継ぎがいて、家同士の絆が強化されたなら、お祖母様個人が誰と何して結果、子供が出来たとしても構わなかったのよ」
たとえ托卵されようと、自身が育てることになろうと良かった。そう。
「どうでも良かったの。でもね」
沙千子さんを愛してしまったの。颯稀は要子へ視点を移す。要子は、ここで動かしていた手を止め、ノートから目を離した。
「普通なら異常なこと。けど、お祖父様からしたら些細なこと。それは、そうよね。お祖父様にとって、沙千子さんは赤の他人だもの。
年こそ違えど、戸籍で実の娘でも、遺伝上はひとりの女性だった」
遺伝上は。颯稀はその言葉に、ほんの少し引っ掛かりを覚えた。遺伝上だろうが、実の親子として赤子から暮らしていて、だのに平気で手を出せるだろうか。ましてや、相手は実子、実父の認識でいると言うのに。
実際、沙千子は壊れたではないか。
世間では賛否両論在るかもしれないけれど、少なくとも颯稀には、有り得ない感覚だった。更に言えば当主にも。ゆえに。
ゆえに遠矢は忌み嫌われたのだ。
「要子は、」
「はい」
「お祖母さんが悪い、こう言いたいの?」
祖母が不義密通して他人の子なんか孕んで産まなければ、起こらなかった悲劇だと。
しかし、そうするなら、現在は無かった。
遠矢はこの世におらず、要子だっていなかったかもしれない。
颯稀が岬家と関わることも無かった。
「違いますよ」
颯稀の問いに、きっぱり要子は言い切った。
「違いますよ? そう言うことじゃ、無いんです」
謳うみたいに、要子は指をペンに絡めたまま、顔を窓へ向けた。
「“誰が悪い”んじゃないの。“誰もが悪い”の。
だけれど、“誰もが悪いことしたかった訳じゃない”」
沙千子さんは愛されていた。お兄様も、真実はね。そう、言いたいの。要子の高さから、角度的に木に埋もれる離れは屋根すら望めないだろう。
けれども真っ直ぐに、要子は窓を越えた先に在る離れを見据えていた。
「……遅れてしまったけれど、お兄様にクッキーを持って行ってくださらない。本当は、誕生日にお持ちいただきたかったのだけど」
遠矢の誕生日は三日だった。今日は十三日。十日も経っていた。
その間、家庭教師の日は在ったのだけども、要子が体調を崩し寝込んでいたのだ。今日は回復して、久々の授業だった。
「体は、もう良いのか?」
平坦ながら気遣う颯稀に、要子は小さく自嘲混じりに笑った。
「そもそも私は脆弱だもの。慣れたわ。それより、お願い」
颯稀が立つ反対側で机の横、壁際に在る棚からすでにラッピングされた袋が取り出された。要子が颯稀の前へ、ついっと出すと恭々しく両手で颯稀は受け取った。
「仰せのままに、────お姫様」
颯稀がお道化て受領すると、刹那双眸を瞬かせた要子だったが、悪戯っぽく微笑した。
【 了 】




