quietly,gently,lightly.
“実家に帰るんだ”────いつものように、笑って告げた。
遠矢。
俺はただ、“そうか”、とだけ返した。
それが去年の年末。十二月二十九日だった。
誰もが真面目になんて取り組まない課題に、優等生の仮面を未だ剥げない俺だけが追われ。ふとカレンダーに目をやれば、月は年越しから一月以上経って数字を一つ進めていた。
二月。違和感だ。そうして、はたと。
───遠矢とこの前会ったのはいつだったかと。そう唐突に。
考えるより先に体が動き、どこへ行くのと尋ねる母にも返事はそこそこ。俺は家を出て駅を目指した。
遠矢の家は電車に乗らなきゃ行けない。割と不便で、しかし必要な距離。遠矢のマンションへ一直線に向かう。早足で。
手土産は要らない。常にそうだからだ。
何か必要なら遠矢が言って来る。もしくは買っている。不足を知らない部屋なのだ。だらしないような人間なのに実は几帳面な遠矢、その部屋だと。
着いた部屋はめずらしくドアに鍵が掛かっている。普通鍵が掛かっているのは当たり前で、けれど俺は眉を顰めた。こんなことは俺が来る際は無いからだ。中にいるのか、いないのか。判断付きにくいまま迷いは一瞬。俺は使ったのがもしかしたら初めてだったかもしれない鍵を取り出し鍵穴にきっちり奥まで嵌め込んだ。次いで回転させる。鈍い手応えと共に重く重なっていた金属の解除された音が響いた。
中は真っ暗だった。途端に不安になる。電話すべきだっただろうか? いや、でもしたところで繋がったか怪しい。
遠矢は俺の電話には必ず出るけども。毎回と言う保証は無い。あきらめたように溜め息を吐き、俺は中に足を踏み入れた。靴を脱ぎ上がりながら、特にここから眺める分には見当たらない変化に安堵した。
遠矢が実家なんかに行くからだ。
行くのが悪いとは言わない。けれども、話を聞いている限り決して歓迎されないあの場所へ、敢えて出向いた意図が見えなかった。
もっとも、アイツに見い出だせるモノなど欠片も無いが。
中の暗闇に馴れた頃。俺はすでにリビングの真ん中で様子を窺っていた。横手には、遠矢の自室兼寝室が在る。
「───」
耳を澄まして気付いた。音がする。法則性に則った弾み方。音楽───歌?
歌声だった。洩れているのは遠矢の部屋。中にいた?
遠矢のマンションなのだから、遠矢なのだろう。しかし何でこんな真っ暗闇で、光も入れず電気も付けない? それも何で歌って?
内容は聞き取れないが歌っていることは確かだ。
一人でアイツは何してるんだ。まさかイカれたのか? もう?
俺は焦る気持ちとつられそうになる体を宥め付け、隣りの部屋を開けた。捜した主を拝むために。
「……遠矢……?」
かくして中に、ヤツはいたのだが。
「魚肉はツルンと素晴らしい……色はキレイなピ、ン、ク~、魚肉、魚肉、魚肉ソーセージ~……」
……。何だその調子っ外れな歌は。てかなぜに魚肉ソーセージ!?
脱力し、やはり同じように暗い寝室の入口で、俺は膝を突いた。
脱力だ。脱力。遠矢は俺がいるのをわかっているのかいないのか。仰向けでベッドに寝っ転がって、未だ魚肉ソーセージを賛美する歌を口ずさんでいる。……何なんだ。
「遠矢?」
俺は立ち上がり遠矢の横たわるベッドに近付いた。様子がおかしい? 変な歌を自作で歌い出すのはたまにやっているとして。だから構わないにしても。
どうして反応しないんだ?
「遠矢」
怯えさせないように、俺はベッドに腰掛ける。遠矢の傍らに座り、遠矢の額に手を伸ばす。驚かせないようにそっと。
もしかしたら夢現なのかもしれない。睡眠薬を使っているなら有り得る。
以前そうしなきゃ眠れない日が在ると、遠矢が零していた。慢性的な不眠症なのだと。常ではないから余計質が悪いと。
そうぼやく遠矢は笑っていたけれど。
「遠矢」
額に手を宛てがい前髪を梳く。そうすると幾分か反応が返って来た。
歌が止む。
「遠矢、」
「───……俺はね、要らないんだよー」
突然だ。抑揚の無い声で、空を見詰めたまま、遠矢が言う。
「じぃちゃんがね、本当は父さんなんだけど、“将来は俺に会社継がせたい”んだって」
複雑な家庭事情、それでも坊ちゃんな遠矢にはそんな問題も浮上するだろう。俺は黙って聞いてやる。
「でもさ、義父さんはー、───本当は異母兄さんで伯父さんなんだけど───はさ、俺には継がせたくない訳よね」
そうだろうな。聞いていれば遠矢には何の罪も無いと言う、勝手な家の都合だが、その都合が“勝手だ”と済ませるには随分深刻で、あまりに大きい。
遠矢は流れに任せるしか無いだろう。生まれた時からの刷り込みだしな。俺は、まだ何も口を挟まず額の辺りと前髪の生え際を、髪を梳くたび離れ戻っては撫でる。安心したように、遠矢は目を閉じる。
「…要らない子なのにな…」
俺はお目にかかったことが無いが。異母兄の実の娘、遠矢の義妹で有り姪で有り従兄妹を、『要子』と言う。
“要る子”。
加えて遠矢は“遠くの矢”。二度と刺さって戻って来るな。そう言われてると昔笑ってた。
平気な振りで強がっていた。
「莫迦だなぁ、お前は」
つらいなら、行くなよ。
サイドテーブル上の睡眠薬と二本の酎ハイに、俺は薬の効き具合を心配する。たがそうしながら。
「お休み、遠矢」
ただ寝付けるように、そっとそっと頭を撫でていた。やばかったら救急車を呼んでやれば良い。
【Fin.】




