カッターの刃。
カッターの刃は、随分と赤く錆びていた。
私が使い込み過ぎたからだろうか? それともただの酸化? わからないけれど。
「あ、またYukari書き込んでる」
パソコンではなく携帯でネットをしている私は、画面を覗き込みながら一人屋上のベンチで零した。
今覗いているサイトは、いわゆるメンタル系で。自殺したいとか自傷行為したりするとかの子が集まって意見や情報を交わすサイトだった。
私も、そんな仲間の一人だ。
私は曰く“常連”で。もうサイトの管理人さんとも他のいつものメンバーともお馴染みだった。
特にYukariは、ここ最近私とよく遣り取りしている。簡易チャット板(無料BBSを用いたモノ)で。
「……ふーん。“血は奇麗なんかじゃない”、か」
私が今朝書いた“血が流れるとゾクゾクして満たされる気になる”と言う発言に対しての返信だった。
『じゃあ、何で自傷するの?』
書き込んで、携帯の機能を開いて《再読み込み》。
『私が私に勝つために。』
再び読み込まれた画面に更新された発言が返っている。
Yukariとはあらかじめ“昼休みになったらチャットしよう”とメール済み。
お互い、この空の下でどこか近いのか遠いのかわからない場所から会話している訳だ。何だか不思議で奇妙な違和感。
『勝つため、ねぇ……。その時点で負けてない?』
書き込む。再読み込み。更新されておらず。
「お?」
めずらしく、返答に困っているようだった。更に再読み込み。更に、更に……。
けれど、何度も何回もやっているのにYukariから返事が無い。もうすぐ昼休みが終わる。
「……仕方ないなぁ」
ぽつりと洩らした。もう一度、やってみて、駄目だったら放課後にしよう。
再読み込み。
「……あ」
『───たとえそうであっても。私は血を美しいなんて思わないから。』
更新された、Yukariの台詞。
会ったことは無い。電子上だけ。なのに。
なのになぜ、Yukari本人に直に言われたような気に、私はなったんだろう?
相変わらず授業はつまらなかった。淡々と進む時間。つまらない。
ウチは女子校だ。エスカレーター式女学校。そう言えばYukariは共学でこそ在るものの似たようなエスカレーター式の学校らしい。 ……同い年だったか?
カリカリとノートに滑り文字を刻むシャープペンの手を止めて、Yukariの識っている限りのプロフを思い浮べる。
確か女で。
片親(母親だったか?)に、育てられていて。
双子の自分にそっくりな兄がいる。
リストカット暦は三年……こんなトコロか。
『“手首”って切ったら案外目立たないモンなんですね』
記憶が朧で怪しいけど、こんな感じだった。
Yukariが現われたのは。
それから何だかよく出てきて書き込んでいくようになりいつの間にやら短期間で“常連”の仲間入りだった。的確、逆撫でしない物言い、冷静な観点。
てっきり年上かと思いきや実は同年代。
変な感じだ。
だけれど、それは皆変わらない。
一見、冷静で穏やかで、《いいヤツ》扱いされるヤツがこんなサイトに行き来するものだ。大したコトじゃない。
でも私はYukariは違うように思う。
問われたら答えられないが、何ともなしに。
きっと、彼女は私や他の人みたいにどこかしらに在るだろう必死になってる部分が欠落しているのだ。そんな風に感じた。
直接訊いた訳じゃないからはっきりとはわからないけど。
「……」
思考を中断して、再度どうでもよ過ぎる授業に戻る。カリカリ、カリカリ黒板をなぞりながら目で教師の持つチョークの行方を追いながらノートに刻む。
空は気持ちの好い青空。雲が散切れて舞っていた。
たとえば、
ヒトが、何かの物質だとして。
数千円の価値しかないように。
それに心が入るコトで上乗せされて幾らかになるとして。
私には、
どれだけの価値が在る?
わからないじゃない。
この空を飛んでしまえば。
この地を跳んでしまえば。
あとは墜ちるだけなのに。
……私自身に何の価値が残ると?
放課後、屋上に来た。
白い雲が飛び飛びに在る空を見上げる。右手にカッター。左手にそれから出される刃が当たっている。軽く、引く。血がつーっと流れた。夏は良い。制服に血が付く心配が半袖なコトで多少減るから。
ベンチに座って眺めた。上に拡がる空。無駄に淡い青。無駄に散り散りな雲。私の手首から、流れる赤。
放心したようにただ見詰めた。
「……そーいやYukari来てるかな?」
思い立って開く折り畳み携帯。画面ですぐブックマークを開いた。通信。ぱっと、しばらくして表れるサイト画面。簡易チャットにカーセル合わせて確定する。開く。
そこに、在ったのは管理人さんからの書き込みだった。
『[血]ねぇ……俺にはわからないかな?』
最近の書き込みだつい、数分前。
急いで、私もレス。
『何で? わからないの? どうして?』
仮にも彼はこのサイトの管理人だ。彼だって同じ性癖が在るはず。なのに。
まだこのページを見ていたらしく、彼から返信された。
『基本的に俺は[根性焼き]だから。血はあんまり関係ないんだよね』
───納得……。
そうだった。彼はそんな方法だったんだ。リストカットではないんだ。
気が付けば、手首の血は止まっていた。そっとそれをウェットティッシュで拭うと、白に近いブルーのリストバンドをした。
どんなに浅くて薄い傷も、度重ねれば随分わかり易くなるものだ。だから、私はいつからか幾つかのリストバンドを持っていた。校則に違反しない程度に目立たない柄無しのモノを。
元運動部の私には部活にいたときのクセだからと言えば済む。
“無いと違和感が在るの”
笑ってそれだけで、周りは深く突っ込んでこなかった。
装着し終わって、溜め息を軽く口にして、液晶に目を戻す。
再読み込みしたら、管理人さんからもう一つ返ってきていた。
『まぁ、ヒトそれぞれだからな。仕方ないだろうよ、そんな誤差は』
ごもっともだ。そんなモンだ。わかる。わかり過ぎるくらいには。
そして、その押し付け合いに疲れを来すとやっていられない。
傷を創る。《逃げ道》として。
あれから数分してから家に帰った。部活を辞めてからはもうこんなサイクルだ。自宅にPCは有っても家のモノで兄が主に所有者。勝手に使えないから、携帯を使っている。今流行りの“定額制”とやらで携帯は取り上げられずに済み前より出現率も上がってしまった。良いんだか悪いのだか。
今の状態が、一昔前なら信じられない。
一昔前ならまだこの時間コートにいた。コートでボールを追って。
一昔前なら。
二階建の我が家で私の部屋は二階に在る。コの字型の二階で、私の部屋は兄の部屋の現在寮制学校に行ってしまっている姉の部屋を挟んで向かい側に位置する。階段を上り切ると、丁度兄が部屋から出てきた。
鉢合わせ。まさに今この瞬間。
私は兄が苦手だ。幼い頃からウチでは姉と私が良く言えば《快活》、悪く言えば《男勝り》で。未だそれは変わっていないのだが兄はと言えば、その頃は《お人形さんみたい》が評価だった。おとなしかったのだ。そして無口。
今はそれに無愛想が加算され、たがしかし人当たりの良さと抜け目の無さでなぜか愛され続けている兄。至って本人の意志は読み取れないと言うのに。
裏表が激しいのだろうか。やはり苦手だ。
「……おい」
擦れ違いざまに兄が声を掛けてきた。視線の先は私の───手首。
先程、切ったばかりの。
「何?」
素知らぬ風に聴いてみる。兄は目線を私の目に合わせた。私は途端に反射的に逸らす。莫迦だ。それじゃ、[何か]有ると訴えているようなモノだ。
「……」
兄はそんな私を微動だにせず顔色一つ変えずに見据える。やっぱ、兄は苦手だ。
「……────まぁ、良いんだけど」
兄は一息、顔を上に逸らして吐いた。
それから私の脇を通過しながら私の頭を撫で、……言った。
「体に傷作んのも大概にしとけよ」
「……」
残された、私。
ぽつんと、階段を囲むように部屋が在る廊下に。
「……フッ……」
案の定と言うか、兄は知っていた。
そんな気はしていたのだ。そんな気は、してた。
それでも止めないのだ。実に兄らしい。
考えの読めない、周囲に無関心な兄らしい。
兄は“そう”だった。
私が怪我をし、泣く泣くコートを去った時も。寮に入っていた姉までも駆け付けたと言うに。
兄はそう言う人だった。
そんな兄が、私は羨ましかった。
何事にも動じない、兄が。
手首を切っても、依然自己の感情に嬲られてばかりの私は。
今も尚カッターの刃を錆付かせるコトしか出来ていない。
【Fin.】




