帰る場所
調停者天秤といえば、ここら辺りではちょっとした有名人だ。
人好きのする顔をした若い男で、いつもキラキラとしたオーラを振りまいている。服装のセンスだって悪くない。存在自体に華があり、ヤツがいるだけで場が盛り上がる。
まるで花形役者のような存在。彼の爽やかスマイルに頬を染めない女はいない。そのお陰で、恋の鞘当てに巻き込まれること多数だが、そのどれもをアイツはうまく切り抜ける。
それどころか、争いごとが嫌いなアイツは進んでケンカの仲裁役を買って出て、たちまち仲直りさせてしまう。挙句の果てに、カップルの関係を以前よりもより良好なものに変えてしまう。そのせいで、天秤と関わったカップルは上手くいく、なんてジンクスが、まことしやかに囁かれている。
天秤が仲裁役を買ってでるのは、何もカップルのケンカだけじゃない。友人同士のケンカや親子喧嘩に兄弟喧嘩、家同士の骨肉の争いやら、企業の営利争いまで、それぞれにお互いの理解を促し、WIN-WINの関係に改善してしまう。ヤツは、民事の敏腕弁護士でもある。
「何かあったときには、天秤に任せておけば全てうまくいく」
誰が言い始めたのか知らないが、みんな気楽に冗談のようにして口に上せる。それでいて、半分くらいは本気でそう思っているんだから手に負えない。
そんな訳で、天秤のもとには何かと相談事が持ち込まれる。そういった相談事を解決することを、私事、仕事を問わず、ヤツは面白いと思っているようだ。
たまに顔を合わせれば、今は誰それの件で困っている、と実に楽しそうに語ってくれる。そんな話を聞いても天秤のように有効な策が思いつくでもなく、ご近所さんのゴシップ記事にもさして興味を引かれない俺は困ってしまうのだが。
しかし、完璧に見える天秤にも一つだけ、ささやかな秘密がある。
――天秤は、客人を家の中には招かない。
それは、誰もが知っている天秤が持つ人間関係のボーダーラインだ。他人にとってはささやかな、けれども本人にとっては重大な、ヤツの秘密を守るための措置。
アパートの玄関扉に手をかけて、ゆっくりと一つ深呼吸する。俺は、天秤の部屋に入ることを許された数少ない人間の一人だ。というか、ここは俺の部屋でもある。つまり、俺は天秤の同居人なのだ。だから、ヤツの秘密を共有しているし、是非とも是正する必要がある。
覚悟を決めてインターホンを押し、ドアノブを回す。
「射手ー、やっと帰ってきてくれたの? そろそろヤバイってのはわかってたんだけど……。俺、もうどうしたらいいのかわからなくなっちゃって。助かったよー」
玄関を開けて呆然とした顔をする俺を見て、涙を浮かべ心底ほっとしたという顔をする天秤に、開いた口がふさがらない。いや、正確には、にこりと微笑む天秤の向こう側に広がる光景に。
廊下の先にあるリビングでは、ソファーの上やら小さなコーヒーテーブルの上やら、あちらこちらに衣服が散らかされている。廊下に部屋へと続く扉は二つあり、手前のドアは開いていた。部屋の入口から寝乱れたままのベッドの布団が覗いている。その上にも衣服があり、この調子では天秤の部屋も衣服まみれと見てまず間違いない。
衣服の被害は甚大に見えた。脱ぎ捨てられたのだろう普段着と、コインランドリーで洗濯してきたのか袋に突っ込まれたままのもの、それにクリーニングから帰ってきたのだろうビニールが掛かったままのおしゃれ着が混在している。
靴を脱いで廊下を進めば、キッチンの様子が見えてくる。流しの上には使用済みの食器が積み上げられ、床には飲み終わった空のペットボトルや紙パックが散乱している。大方、溜まってから洗おうと思っていて、しかし、いざ溜まったら溜まったで、どこから手をつければいいのかわからなくなってしまったのだろう。
そう、完璧な天秤が隠し持っている、唯一にして最大の欠点。それは整理整頓が、からっきしと言っていいほど苦手なこと。
俺はずり落ちそうになるボストンバッグの肩紐を背負い直して、静かに気合を入れる。天秤からヘルプコールを受けた俺は、これを片付ける為に二ヶ月ぶりに帰宅したのだ。
吸い込んだまま息を止めて、ため息をつきそうになるのを必死でこらえる。
「とりあえず、荷物置かせてくれる? それから、手分けして片付けよう」
コクコクと勢い良く首を上下に振る天秤に、俺は困った様に眉根を下げる。いや、帰宅の度に毎回すごい惨状の家の様子に実際、俺は困っている。しかし、同時に、うっすらと涙を浮かべて俺の手を取る天秤に口元を緩める。
何度注意しても変わらない状況にため息をつきたくもあるが、こういう時にきちんと俺を頼ってくれる天秤が可愛くもある。
そして何よりも一番困るのは、天秤のこんな所が好きだと思っている俺自身だ。まったく、「あばたもえくぼ」とは、このことか。
自分の部屋にボストンバッグを置いて、俺はため息をついた。ベッドとクローゼット、作業用の机でいっぱいになってしまう小さな部屋だ。ほとんど帰ることがない部屋の主と同様に、あきれるくらい何もない部屋だった。生活感が溢れすぎてる天秤の部屋とは対照的だ。
何気なく机に手をついて違和感を覚える。ホコリが溜まってない。
一人暮らしをしていたころは、帰宅したときは部屋の空気がこもっていたし、使われない机にはホコリが溜まってしまっていた。
窓を開ける。心地よい風が、部屋から廊下へと吹き抜けていく。天秤が、時々でもこの部屋の窓を開け、ホコリを払ってくれているのかと思うと、急に部屋の中が明るくなったように感じられた。
「よしっ!」
小さく気合を入れて、俺は天秤の待つリビングへ向かう。
掃除においてもっとも重要なこと。それは、「要らないものは捨てる」。この一言に限る。第一、物を置くスペースも少ないのに、不必要なものをいつまでも置いておく余裕が、この家にありはしないのだ。
だから、俺は目についたゴミを片っ端から自治体指定の透明ポリ袋に突っ込んでいく。
「射手ー。俺は、どうすれば……」
「とりあえず、洗濯してある服と、まだの服を分けろ。クリーニングに出した奴はそのままクローゼットにしまえるだろ。洗濯した服は、適当にアイロンかけてたため」
戸惑って、わたわたしている天秤に指示を出し、俺は台所の整理にとりかかる。
積み上がっている食器に大量の水をかけて粗く汚れを落とし、洗剤を泡立てたスポンジで洗う。流しが開いたら、次はペットボトルのラベルを剥がして、中身を水洗いして袋に突っ込む。
「これ、たたむの面倒くさいんだよねー」
「ちゃんとたたまないとシワになるぞ。お前、シワのついた服を着るのはプライドが許さないって言ってたじゃん」
「でも、面倒なものは面倒なんだもの」
嫌がる天秤に発破をかけて、洗濯済みの衣服をクローゼットにしまわせる。天秤も文句を言うわりには、几帳面なたたみ方をする。それが終わったら、ベッドカバーとタオルケットと洗濯物を持たせて、歩いて三分のコインランドリーに向かわせる。
その間に、見えてきた部屋の床に軽く掃除機をかけ、風呂掃除。帰ってきた天秤にベッドを整えさせて、その後一緒に洋服をたたんでクローゼットにしまう。最後の仕上げに、見えるようになった部屋の床を水拭き。
なんだかんだで一日がかりの大仕事。使い終わった雑巾を絞りながら、俺はため息を吐きだした。
「ったく。俺だって掃除が得意なわけじゃないのに、これだけできるようになったんだぞ? なのに、何でお前は相変わらずかなぁ」
大した運動量ではないはずなのに、一日中走り回っていたかのような妙な疲労感と脱力感があった。できれば、またしばらくはこんな重労働はお断りしたい。
「だって、こうしておけば、射手が片付けに帰ってくるじゃない」
はあ、と俺がため息をついた向こうで、当の天秤がボソリと何事か呟く。それを聞こえなかったふりをして、俺はもう一度これみよがしにため息をついてみせた。
「そんなにため息ついてると幸せが逃げるよ」
「誰のせいだと思ってるんだ。誰の!」
「え、誰のせいだろう? 誰にだって得意不得意があるのは俺のせいじゃないよね?」
さらっと、笑顔でそんなことをのたまう天秤に、俺は肩を落としてもう一度ため息をつく。もう、半年分のため息を使い切った気分だ。
部屋の片隅にまとめて積み上げておいた古雑誌に白いすずらんテープを巻きつけていく。俺の写真が載った雑誌ばっかりだ。
「ねぇ、これが終わったら、晩ご飯食べに行こうね。もちろん、俺がおごるからさ」
「当然だ。休日なのに、こんな働かされて、お礼もなしじゃ割に合わん」
「そんなに大変なら、射手ももっと家にいれはいいのに。毎日少しずつなら、大変じゃないよ」
「ム・リ・だ」
さりげなさを装った天秤の提案を硬い表情で一蹴する。にべもない俺の返答に、今度は天秤が小さくため息をついた。らしくもなく黙りこんでしまった俺の手元、一番上にあった「絶景、世界の渓谷を行く!」と題された雑誌を天秤が横からかっさらっていく。
「あ、お前! それ、もう片付けるんだから返せよ!」
「別にいいじゃない。少しだけだから」
天秤が気のない様子で手の中の雑誌をパラパラとめくっていく。ところどころのページに四角く穴が開いているのは、天秤が俺の写真や記事が載っている部分を切り取った跡だ。
「まあ、でも……。しょうがないのかな。射手、いろんなとこ行って写真取ってるもんね」
「ああ……」
煮え切らない自分の返事に唇を噛む。本当は、そんな単純な理由じゃない。
確かに俺は滅多に家に帰らない。それは写真家という俺の仕事のため、というのもあったが、八割以上は俺自身の性格のためだった。そもそも、写真家になるのを選んだのだって、それが一つ所にとどまる必要が無く、それどころか色々な場所に行くような仕事だからだ。
自分でも厄介な質だとは思っている。けれども、家や近所の狭い範囲にじっとしていることは、どうしてもできなかった。
最初の一、二年は、それでもなんとかなるが、段々と我慢できなくなって、「ここではないどこか」に行きたくてたまらなくなる。全然そんなわけじゃないのに、軟禁されているような気分になって、いつの間にか「ここから逃げ出さなければ」という強迫観念にも似た思いに取り憑かれてしまう。
そんな俺を待っていてくれる天秤に対して、できもしないことを口先だけで誤魔化すことはしたくなかった。
「天秤は知ってるだろ。俺は、じっとしてることはできない質なんだ」
「そりゃあ、わかってはいるんだけどね。きみが、あちこち飛び回ってないと落ち着かないってことは」
ため息混じりに吐き出された天秤の言葉に、受け取った雑誌を強く握りしめた。天秤は困ったように笑って、現状を許し、受け入れてくれる。そんな天秤に甘えて、何も返してやれない自分が悔しかった。
「さあて、と。これ出したら終わりかな?」
空気を切り替えるように、ゴミ袋の口を縛りながら天秤が明るく言う。
「そうだな」
だいぶん綺麗になった部屋を見回して、俺は首肯する。まとめた雑誌にかけたすずらんテープをぎゅっと縛る。
少なくとも、床が拭けるくらいには片付いた。日は陰り始めていたが、見通しが良くなった部屋は、今日最初に足を踏み入れた時よりも明るい気がした。
「それじゃ、ご飯食べに行こう」
明るく笑って言う天秤に、俺は黙って頷いた。
帰り道。通勤時間を過ぎた住宅街は人通りが少なく、ポツポツと一定の間隔で白い街灯が道を照らしているだけだった。自然と、お互いに触れ合った手を握る。
水分を含んだ柔かな空気が、優しく夜を包み込んでいるようだった。見あげれば、綺麗な円を描いた月が薄雲に覆われて、ぼんやりと夜空に漂っている。
食事をしながらも、ずっと考えていた。自分が、一つ所に落ち着く可能性ってヤツを。けれども、その想像はどれもこれも現実味がなくて、とてもじゃないが俺が耐えられるようなものには思えなかった。
天秤の期待に応えたいのに、それが出来ない自分が歯がゆい。考えられるのは、それらの想像の向こう、ずっとずっと先の「いつかは」だけだった。
「今すぐは無理だけど、俺、がんばるから」
口に出したはいいけれど、蚊の鳴くような声にしかならなかった。思わず、繋いだ手に力を込める。その手を天秤は同じ強さで握り返してくれる。
「馬鹿だなあ。射手は無理しなくていいんだよ」
優しい声色で天秤が言う。目を合わせるのは気まずくて、うつむいて視線をそらす。それでも、包み込むような天秤の笑顔が、はっきりと脳裏に思い浮かんだ。
「射手の写真を見てれば、どんな気持ちで撮ったのか、すぐにわかるよ。美しい景色に心打たれたり、自然に笑顔になるほど楽しんでたり、過ぎ行く一瞬の光景を惜しんでたり。でもね、いつも同じなのは、射手の写真はすごくいきいきしてるのと、シャッターを切る瞬間、射手は毎回とてもワクワクしてること」
だから、射手の写真が載ってる雑誌をめくるのは毎回すごく楽しいよ、と事もなげに言う。筆不精で、電話だって滅多にしない俺との繋がりが、雑誌に載った写真だけじゃあ、あんまりだと、俺だって思うのに。
それでも、そんなことはなんでもないと言ってくれるから。変わらずに待っていてくれるから。天秤のその甘さに、俺はつけ込んでいる。
「ファインダー越しに覗き込んだ世界を手の中の小さなレンズで切り取ったら、そこには一体どんな光景が広がるのか。自分の手で切り取った世界は、他人にはどんな風に映るのか……。それが楽しみでしかたがない、でしょう?」
天秤はまるで自分のことであるかのように楽しげに語ってみせる。それは、まさに俺が写真を撮ることをやめられない理由の一つだったが、それを素直に認めてしまうのは癪だった。
「さぁ……、どうだろうな」
曖昧な言葉で誤魔化した俺に、「すべてお見通し」とでも言いたげに天秤は笑う。
「いいんだよ」
しかたないんだから、とでも言いたげに微笑んで天秤が覗き込んでくる。
――焦らなくていいんだよ。そのままでもいいんだよ。ゆっくりでいいんだよ。
その一言に含まれている意味に、
「いいんだ……」
――待ってるから。待っててあげるから。いつでも好きなときに、帰っておいで。
その一言に含まれている天秤の思いに、泣きそうになるほど、胸が締め付けられる。
二人並んで歩いて、あっという間に我が家にたどり着いてしまった。鍵を開けて、玄関のドアノブに手をかける。
目を閉じて、息を吐く。
覚悟を決めて、ゆっくりと息を吸った。
「ここが、俺の家だから……。どこに行っても、最後は必ず、ここに帰ってくるから」
ノブを回す。カチャリ、と扉が開く音がして、二人で片付けた部屋が顔を覗かせる。
半歩後ろに立っていた天秤が、俺の両肩に手をのせた。そうして、すっかり忘れていた帰宅の挨拶を俺の耳元にそっと囁きかける。
「おかえり、射手」
「……ただいま」
その言葉が、今の俺に返せる精一杯だった。