9.翼の下で眠る。
迎えに顔を出した神官長とかいうおじいさんはセフェリノを見て卒倒せんばかりで、挨拶もそこそこに逃げていった。
見た目は怖い人喰い竜だけど、話せば親しみやすいのに。マル秘情報を教えてあげる間もなく、だだっ広い神殿にぽつんと二人きりにされてしまった。お見合いで有名な、「あとはお若い二人で……」ってやつ? セフェリノは人じゃないけど。
「ここで生活って、寝るところもないよ……」
小学校で教室のうしろに椅子と机を寄せて掃除したけど、あれと同じ。信者さんが祈りを捧げるときに使うらしい椅子や机の類は壁際に山と積まれて、かさばる図体をした氷竜のために中央が広く開けてあった。
「セフェリノはベッドいらないんでしょ?」
『ああ、私はどこでも寝られるな。エストレージャでは洞窟をねぐらとしている』
巣穴が洞窟って、想像通りだ。その体でスプリングベッドで寝たいって言ったら怒るけどね。
『――姫、掛布は用意してあるようだが』
セフェリノが、ちょい、と氷の爪で指した場所に、折りたたんだ毛布が置いてあった。
……身代わりだからって待遇悪すぎない? 本物のディアナ姫だったら絶対毛布で寝かせたりしないでしょ。今朝まで使っていたふかふかベッドを想って、あたしはむくれた。
『どうした、姫。怒っているのか? 腹が減ると怒りっぽくなる。これを食べるといい』
「いらない。二日酔いで気持ち悪いから」
セフェリノとご対面の緊張で忘れていたけど、あたし二日酔いだったんだよ。
ぶり返してきた頭痛によろめきながら毛布に向かった。このさい横になれるなら毛布でもダンボールでも新聞紙だってかまうものか。
置いてあった果物やパンが入った籠を咥えて途惑っているらしいセフェリノに、「適当に食べてて、あたし寝るから」と手を振った。
『姫?』
「しばらく話しかけないで。セフェリノの声頭に響くんだもん、頭痛がひどくなる」
絶句したらしい気配を肩越しに感じながら、あたしは即行眠りの世界に旅立った。
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夢をみた。
他愛ない内容だった。
友達とカラオケに行ってた。
歌いに行ってるんだか、おしゃべりしに行ってるんだかわからないの。
お父さんのゴルフの自慢話。
頷いて聞いてあげる。下手の横好きなの、知ってるけどね。
お母さんの卵焼きは世界一。
褒めたって何も出ないわよって言われるけど、いつもお弁当に入れてくれるの。
そんな日常の――夢を、みた。
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「…………どわぁ!」
眼が覚めたら視界いっぱいに金色の目玉があった。
心臓が止まるかと思ったわ! 仰け反ったあたしは肩で息をしながら、ビビらせてくれたセフェリノを睨みつけた。
『――泣いている』
ハッとして拭うよりも前に、冷たい舌が頬を舐めていた。
右、左と順番にめぐる。腫れて熱をもつ瞼に冷たい舌は快くて、制止するのを忘れていた。
『塩辛いな。悲しい夢をみたのか?』
「…………ちがうの。楽しい夢、だったから……」
『楽しくて泣くのか。人間とは不思議なものだ』
絶対泣きたくなかったのに、一度堰をきった涙は後から後からあふれてくる。この世界で、初めてやさしくしてくれたのは、氷竜だった。
同じ人間でも、この城の人間は誰一人として、あたしを対等の存在とみなしていない。身代わり、影武者、危険な場面でバトンタッチしたスタントマン程度の扱いだ。
そのくせ貪欲に求めてくる。命が惜しければ任務を果たせ、と。
眠っていたのは短い間だったようだ。外はまだ明るかった。
よれよれのドレスと崩れたメイクをどうにかしたいなぁ。
『姫、貴女に渡したいものがある』
思いっきり泣いてすっきりしたけどブサイクになったあたしは、腫れぼったい瞼をこじあけて、何やらソワソワと尻尾を揺らすセフェリノを見た。
『開けてみてほしい』
「なにが入ってるの?」
牙に引っかけぷらんと揺れているのは、不釣り合いに小さな巾着袋だった。どこに隠し持ってたんだろう?
胡散臭く思いつつ受け取って、袋の中に手を突っ込む。入っていたのは、硯と墨、丸められた羊皮紙に文鎮がわりなんだろうか、丸い黒石。筆のかわりに羽ペンが入っていた。小瓶に水も入っている。これで墨をすれってこと? 至れり尽くせりだ。
羊皮紙を広げると、例のミミズがはったような文字が書いてあった。う~ん、読めない。
「……なにこれ?」
『最後の部分に署名を。私は記入済みだ』
「どうやって書いたの!? いや、それはいいけど。なんなのこれ?」
下の方に一際超絶技巧が光る第一回ブレイクダンス大会優勝候補がポーズを決めているけど、セフェリノって書いてあるんだろうか。
『人間はそうやって誓うのだろう? 結婚誓約書だ』
――死刑執行書じゃん!!
あっぶな~! 何にサインさせる気だ、この喰わせ者竜! 結婚は人生の墓場っていうけど、まさしくそうだよあたしの場合。危うく自分で自分の首に縄をかけるところだった……。
「一応もらっておくけど、署名は三十日後にするね」
一切合財を元通り袋に放り込み、口をギュウギュウに引絞って紐は厳重に玉結びで蝶結びにしておいた。ふう、一安心。
なに、セフェリノ。拗ねたように床引っ掻くのやめてくれない? 敷石がごりごり削れてるんですけど。
『…………姫は私のことが気に入らないのか?』
性格じゃなくて、嗜好がおおいに気に入りません。
ファーストキスに味見とかされて(しかも“おかしな味”判定だったし)、気に入るかっての。もっともセフェリノにしたら、自分のために用意された花嫁故の振る舞いなのかもしれない。
「気に入らないってわけじゃないけど、世間体があるでしょ? 晴れて三十日後に皆の前で祝福されながら署名する方がいいもの」
言ってて舌を噛みたくなる。
愛想笑いで取りなすとセフェリノは納得したようだった。
その夜。
セフェリノが長い首を横たえる傍らに毛布を敷き、あたしは修学旅行の夜のように目が冴えて眠れずにいた。
天窓から差し込む月明かりにキラキラ輝く氷の鱗。「冷気を抑えないと神殿から出ていく」と言ったからか、セフェリノは隣に居ても平気なぐらいに冷気を抑えている。例えるならすっかり溶けた保冷剤。ひんやり冷たいけど、触ってられないこともない。
欲を言えば暖をとれる方が好ましいので、「もっとあったかくなれないの?」と注文をつけたら、『私は炎竜ではない。融けて消えろというのか?』と、困った声で言われた。
うん? 山脈に消え失せろとは思ってるけどね。
「…………セフェリノ、寝ちゃった?」
『起きているよ。私は人間ほど睡眠を必要としない』
金色の瞳があたしを映した。
『姫は眠れぬようだ。私といるのが落ち着かないからか?』
「それもちょっとあるけど、これからどうなるのかなぁって考えてたの」
気の緩みからこぼれた本音。
今ごろ騎士団は氷竜の巣穴で《竜心珠》を探しているだろう。セフェリノを見る限り、作戦が気取られている様子はない。《竜心珠》は見つかるのだろうか。仮に見つかったとしても、本当に家に帰してもらえるのだろうか。
ひとつ生まれた不安は波紋のように次々と広がって、胸を暗いもので塞いでしまう。
頭に響く穏やかな声が、落ち込んでいく思考を引きとめた。
『憂うことはない。貴女がそう望んでくれるのならば、私が貴女を護ろう』
真摯な瞳はただまっすぐにあたしを見ていた。
喉が詰まった。
応えられない。
何を言えばいいの? 種が違う。嗜好が違う。なのに、氷竜が豊かに表す感情は人と似通っている。喜ぶのも拗ねるのも困る様子も人と変わらないのだ。この国の誰より真剣にあたしに向き合ってくれている。
悪意に悪意を。好意には好意を。では、誠実さには……?
黙りこくったあたしの態度をどう思ったのだろう、金色の瞳が苦笑するように細められた。
『――もう眠れ、姫』
寄り添う竜から音もなく広げられた皮翼が月を遮り、あたしの上に影を落とした。