7.ファースト×××!
そびえる城門も城壁も、彼の生物には意味をなさない。地面を這うしかない人間を嘲うようにやすやすと上空を飛び越えた。
五百年ぶりに現れた氷竜に方々から悲鳴が上がる。恐怖と畏怖を従えた空飛ぶ巨大トカゲは、バルコニーの前にひらけた大広場に腹を擦るような低空飛行で侵入した。そのまま向かってくるのであわや衝突かと目を閉じそうになったら、バルコニーの手前で垂直に進路を変えた。
激しい風に霞む視界。一瞬交わる金。
眼が合った。
氷竜は伸びあがるように頭上の空へと上昇した。遅れて渦巻く突風にあたしは慌てて捲れ上がるドレスの裾を押さえる。「イヤ~ン☆」って、なにやらすんだ氷竜! あたしにマリリンは荷が重いって見てわからないのかっ。
真上で影を落とすホバリング中の氷竜を睨みつけた、けど。
…………冷蔵庫の前に立って扉を開けるとすうっと足元に冷気が下りてきますよね。言うなればそれの規模を数百倍にした感じ。頭の上で超大型強力冷蔵庫の扉がフルオープンです。降り注ぐ冷気の滝で修行僧。
しぬっ! 寒くて凍え死ぬ!
全身に鳥肌が立った。上下の歯がガチガチと景気よくカスタネット連打状態。うわ、ドレスに霜がおりてるし! あたしは堪えきれずに氷竜に向かって叫んだ。
「ごらぁっびょうり゛ゅう~! ごぉらぜでくぅぎじゃながっだら、れ゛いぎお゛ざえろ゛~っっ!!」
怒涛の鼻水が邪魔をして鼻声だったけど、言いたいことは伝わったらしい。
弱くなった冷気が風に吹き飛ばされた。あたしはようやく陽光の暖かさを思い出した肌をさすり、メイドさんに持たされていたハンカチでちーんと洟をかんだ。ドレス湿っちゃった。許してねメイドさんたち。恨むなら氷竜ですよ。
バサリ、翼が空気を打つ。
巨躯の氷竜は予想外な軽やかさでバルコニーに降り立った。氷柱の爪が石床に接すると相応の重量に亀裂が走った。あの、ここ崩落したりしないよね?
あらためて見た威容を誇る生物に、あたしは言葉を失い立ち竦んでいた。
大きさは三階建てのビルほど。東洋の蛇系じゃなく、西洋っぽい竜だった。側頭にヒレ状の耳を持ち、鋭く捩じれた双角……貫かれたら即死だろうな、アレ。
青灰の皮膚を隙間なく覆うのは透明な氷の鱗だった。身動きする筋肉の動きによって光を虹色に弾き返す。この鱗だけは純粋に美しいと思った。
ゆっくりと畳む翼は細かな鱗がついた皮膜。
縦に長い瞳孔の金色をした双眸があたしを捉え、見上げる位置にあった氷竜の頭がのそりと近づいてきた。
え、なに?
なにさぁ!?
初っ端から「おしとやかプリンセス計画」は頓挫しましたけど! ちょっと怒鳴ったくらい、あと目の前で洟かんだくらいで食べちゃうことないんじゃないの!? 短気は損気だよキミぃ!!
長い首をかがめ、手を伸ばせば触れそうな距離に迫った顔。金色の瞳に半泣きのあたしが映っていた。
大きな顎が開かれ、青い舌とぞろりと並んだ牙に絶体絶命だと眼を閉じた。
――べろん。
「ちょっ…ふ、ぐっ……!」
ひんやりと濡れた舌が顎から上へ。大きさでもって顔中を舐められた。二度、三度と続く狼藉に抗議しようと開けた唇に、細い舌先がねじ込まれた。
ぐるりと口腔をかき回される。氷竜の舌は水みたいに味がしなかった。
レモンの味って嘘だったんだ……。茫然と固まっていると、頭の中に澄んだ声が響いた。
『――おかしな味だが、気に入った』
口の端を舐めつつ、金色の瞳が満足げに細まった。
……オッケー。
今のは獲物の味見だったんだね、氷竜様。
深呼吸だあたし。落ち着けあたし。
ひーふー、ひーふー、ひっひっふー……。
フヒヒッ。
こらえきれない衝動がふつふつと湧きあがる。身体が小刻みに震えだした。
恐怖ではない。喜びなんてもってのほか。怒り。怒りだよ、このマグマのように燃えたぎる思いは!
「よ、く、も、ファーストキスを奪ってくれたなこの腐れ竜~~っっ!!」
いまだ目の前にあった竜の横っ面を張り飛ばした。
くっそ~、ビクともしやがらないし叩いた手の方が痛い! そして冷たい! でもあたしの「初めては夕暮れの公園のベンチで、会話が途切れた時にふと彼の顔が近づいてきて――」って夢がブロークンした痛みには及ばんぞ!
氷竜に嫌われちゃいけないとか、身代わりとしてお姫様らしくふるまわなくちゃいけないとかいう考えはどこかに吹き飛んでいた。
「乙女の唇をなんと心得ているんだそこの人外! これから咲こうという蕾をチョキンと切る非道ですよっ、未来のあたしの彼氏に対する許されない先取りですよっ。ああ、人生でワーストスリーにランクインする悲劇! いっそゴジラに奪われた方がマシだわっ!」
モスラよりゴジラの方が好きだ。あの着ぐるみ感あふれる動きが可愛いよね。
ギロリと殺竜光線を発射しながら睨みつけると、氷竜は小首を傾げた。
『なぜ怒る。貴女は私の花嫁ではないのか?』
「はぁ? なんであたしがあんたの花嫁なわけがあるのよっ!? …………いや、あるけど」
思いっきり怒鳴りつけて少し冷静さをとりもどした頭が、氷竜を怒らせない方がいいと警告していた。
「でもほらあの、あたしたち逢ったばかりじゃない? 初対面で挨拶もなしにあれはないと思いますがどうですかね? お見合いでも、お名前は、とか、ご趣味は、とかから入ると思うんですよ。様式を大事にしましょうよ」
あたふたと腕を振り回しながら言うと、氷竜がふっと白い息を吐いた。キラキラ輝くのは極小の氷が混じっているから。まさかブリザードブレスとか吐けちゃったりするんでしょうか、氷竜様。
今さらながら竜に噛みついた自分に青ざめた。
『――では、名を交わすことからはじめよう』
氷竜は優雅に首を退き距離を開ける。笑いを含んだ声が頭に響いた。
『初めてお目にかかる、ソレールの姫よ。我が名はセフェリノ。貴女を貰い受けに来た』
どこもかしこも冷たい氷竜だけど、見上げた金色の瞳だけはぬくもりを持っているような気がした。