6.ミッション開始!
いよいよやってまいりました、婚約式。
相手が竜じゃない世の女性なら喜びに胸を弾ませるだろう日に、あたしは頭痛とダブルで襲ってくる胸のむかつきと戦っていた。ブーケより洗面器下さい。
「…………酒臭い」
信じられないという表情のエリー王子。
頭がガンガンする。他人の声も自分の声も騒音で、「なぜよりによってこんな日に!」と嘆く赤毛の後頭部を、やかましいとどつきたくてぺきぱき指が鳴ります。
昨日の夜は自棄酒なるものをしてしまった。以前こっそりなめてみたお父さんのワインよりフルーティーで飲みやすかったこっちのお酒。ボトルを抱え込み、重ねたグラスは記憶にありません。おかげで初めての二日酔い体験中です。
おまけに婚約当日の今朝は夜明け前から戦慄の地獄絵図だった。叩き起され半分眼も開いてない状態で湯浴み。ほどよくグロッキー状態になったところで、有能なるメイドさんたちによりヨダレを拭われお化粧をほどこされた。
ギシギシ悲鳴をあげる肋骨を無視してコルセットが締められ吐き気は最高潮、純白のドレスを汚すかと思いました……メイドさんたちに殺されそうだから根性で耐えましたが。
「……もうお日様が昇ってるけどいいの? こんなところで打ち合わせしてて」
「きみが昨夜部屋に入れてくれなかったから、ギリギリになったんだよ」
ふうん。サンからきみに戻ったんだね、王子様。
あたしたちは氷竜を迎えるというバルコニーの手前で話していた。何でも氷竜はエストレージャ山脈から飛んでくるし巨大なので、外に面したバルコニーで迎えるとのこと。
「今日の流れが書いてあるから、目を通してほしい」
「…………ごめんムリ。読めません」
「読めない?」
「ミミズが集団でブレイクダンスを決めてることしかわかりません」
紙にはうねうねとのたくった文字が書かれていたけど、一文字も解読できない暗号ですよ日本人にとっては。言葉が通じるから文字も読めるのかと思っていた。それはエリー王子も同じようで、気が抜けた顔をしながら用紙を懐に戻した。
「……それじゃあ口頭で説明するよ。氷竜はまだ山脈を発っていないから時間はあるし」
「どうしてわかるの?」
リアルタイムで知っているような口ぶりが不思議だった。この国に携帯電話レベルの通信機器があるようには見えないんですけど。
「派遣した騎士団に同行する魔術師達がサルバドールと常に連絡を取り合っている。実は氷竜が山脈に棲んでいることはわかっているけど、巣穴の場所まで掴んでいなくてね。少数の部隊に分けて潜ませ、氷竜が飛び立つのを待っているんだ」
現地行ってから巣穴確認って、めちゃくちゃ場当たり的な作戦じゃない。山脈っていうぐらいだから広大でしょ? 騎士が何人駆り出されてるか知らないけど、氷竜が飛び立つ瞬間を見逃したらあたしはお先真っ暗ってこと?
「氷竜が巣穴を発ったら、きみはバルコニーで待機して」
「王子は?」
「花嫁以外は迎えの場に同席しないんだよ。氷竜と挨拶を交わしたら城の南にある神殿へ向かい、きみと氷竜はそこで三十日間生活をともにする」
「なんだか結婚前のお試し同棲みたい。ねえねえ、あたしの国じゃ二人の相性が悪かったら同棲解消もあるんだけど?」
憐みを含んだ視線に覚るしかない。氷竜に嫌われたら結婚を待たずにお腹の中ですか。
「三十日目に神殿で誓いを交わし、氷竜とエストレージャ山脈へ向かう。これが決まっているしきたりのすべてだよ。細かな作法は気にしなくていい。今さらおぼえてもらうわけにもいかないから」
「――殿下」
現れた従者がエリー王子に耳打ちした。報告を受けた王子は頷くと、「さあさあ」とあたしの背中を押してバルコニーへ押し出した。
「滑り出しは順調だよ。氷竜が飛び立ったのを確認したそうだ。きみは敏いから言わなくてもわかっていると思うけれど、作戦の成功はきみにかかっている」
翠の瞳はあたしを通り越し、空の果てを見据えていた。
「健闘を祈るよ、“ディアナ”」
ふわりと顔に下ろされたヴェールの向こうに、励ますような笑顔も赤毛も遠ざかった。
……地味に効くなぁ、他人の名前呼ばれるって。
あたしは王子の眺めていた方角を見やり、遣る瀬無さに肩をすくめた。ジタバタしたってどうにもならないし、こうなりゃ腹をくくってヤるしかない。
竜だろうとトカゲだろうとかかってこい! 完璧なプリンセス☆を演じて女優魂みせつけてくれるわ! オッホホホホホッ!
……と、高笑いしたもののなかなか氷竜はやってこない。
暇なのと二日酔いなのとであたしは立ったまま意識が飛びつつあった。床に座り込んで休みたかったんだけど、よいしょと腰をおろしかけたらどこからともなくメイドさんたちの悲鳴が上がり、慌てて直立不動。私たちの努力を無にするんじゃないわよと怨念が籠められた視線が背中にブスブス突き刺さります。
あ、今。
きらりと空にダイヤモンドが光った。
目の錯覚かと思っていたら、ダイヤモンドは永遠の輝きでぐんぐんこっちに近づいてくる。
耳が翼の生み出す風音を拾い、ヴェールは強風にあおられて外れ飛んだ。
遮る物のなくなった視界いっぱいに迫る煌めき。
――これが、氷竜。