23.「あたし」の名前。
ぐり、と柄をひねられ衝撃が痛みとなって弾けた。
「あっ、ああぁぁぁっ!!」
真っ白になる思考の中で、自分の叫び声が断続的に喉を震わせるのがわかった。氷竜の咆哮は寄せては返す波のような耳鳴りを残し、周囲の音が何も耳に入らない。ただ脈打つ心臓の鼓動が脳内でこだましていた。全身に脂汗が噴き出す。痛みから逃れようと身体が反り返り、後頭部がザリッと固い床を擦った。
痛いっ、痛いよぉっ!
助けてっお母さんっ、お父さんっ……!
痛いっ痛いっ痛いっ!!
『――姫っ!』
セフェリノの声だけは頭に直接響くからよく聞こえた。痛みだけに囚われてしまいそうだった思考が少しクリアになる。
『真実の名を! 真名を呼ぶ許しをっ!』
どうしてと思ったけど、再びえぐられたお腹の痛みで疑問も吹っ飛んだ。ドレスを斬り裂けない刃は同じ場所で内臓をかき回す。激痛に跳ねる身体を縫い止めるのは仕込杖。暴れるほど痛みは大きくなってぐったりと力を抜いた。
はじめて死ぬかもしれないと思った。
お母さんもお父さんもここにはいない。友達もみんな、元の世界にいる。
何にも縋ることのできないあたしが唯一縋れるものは。
涙でぼやける視界に金色を捜した。
セフェリノ。
「よ、んでっ……あたしのっ……な、は……」
――言葉がでない。
ひゅうひゅうと息が漏れるだけで、声にならない。
『貴女の名はっ!?』
「なまえ、はっ……」
~~言いたいのにっ!
魔術の縛りに声を奪われ、伝えられない。悔しくていっそう涙があふれた。
最後ならなおさら彼に呼んでもらいたい。知ってほしい。
あたしはディアナじゃない。
王女でも姫でもない。
山、だよ。
「……たい、よう……」
いつか二人で話したよね。この国は晴れの日が多いって教えてくれた。同じ言葉でも呼び名が色々あるんだって感心してた。
名前は言えないけれど、あたしとの話を覚えていてくれるなら、どうか気がついて。
『太陽っ、ソレール……――――“サン”!!』
セフェリノの言葉がもたらした効果は劇的だった。パンッと見えない枷が弾け飛ぶ感覚がして、鉛の服を着せられていたようにままならなかった全身が自由を取り戻し、羽のように軽くなった。痛みも引いて狭まっていた気道が広がった気がした。目を瞑って大きく息を吸い込むと甘い空気が肺を満たす。
誰かがゴクリと喉を鳴らした音に目を開けた。聴覚が元に戻っている。
サルバドール老師は驚きに眼を見張ってあたしを見下ろしていた。何にそんなに驚いているんだろう、仕込杖を握る手からも力が抜けている。
『いつまで穢れた身で触れているつもりだ』
はっと顔を上げかけたサルバドール老師の体を氷竜の尻尾が横なぎに払った。
勢いよく宙を飛んだ老人は壁に激突し、呻き声を上げてずるりと床にくず折れた。
……え?
普通人間があんなスピードで壁に叩きつけられたら、無事でいられないんじゃないの?
倒れたあと、ピクリとも動かないのはなんで?
あたしは怖くなって振り返った。
「……セフェリノ?」
『よくも我が伴侶を嬲ってくれたな。その命でもって罪を贖え』
前足を地に着け、低く頭を下げた氷竜。
これほど狂的に煌く金色を見たことがない。すでに動かないサルバドール老師を見据え、大きく顎が開かれた。喉の奥に青白い光りの点がぽつぽつと生まれる。光は急速に膨れ上がり、青々とした閃光が重複の螺旋を構成した。
何をしようとしているかに気づいてあたしは慌てた。
駄目だっ、セフェリノを止めなきゃ!
「やめてセフェリノっ!」
――ゴォウゥゥッッッッ!!
氷竜の息吹がサルバドール老師を襲った。猛烈に吹きつける冷気に手をかざし、指の隙間から見た光景。青い光の混じる吹雪がサルバドール老師の体に当たると氷になり、みるみるうちに厚さを増していった。氷は老人を覆うだけに留まらず、床も壁も中に閉じ込めていく。
「やめてっ! もうやめてっ!!」
あたしの絶叫に、ようやく細く絞られた息吹が氷紋を描いて消えた。バサリと翼が起こした風で渦巻いていた冷気がサアッと床を流れて、異様なオブジェがあらわになる。
広間の一角に厚く大きな氷の塊ができていた。半透明の中心には、床に倒れた姿のままサルバドール老師が閉じ込められていた。
あぁ……制止は間に合わなかった。
倒れていたとき、まだ老人は息があったかもしれない。気絶していただけかもしれない。でも、氷の中のサルバドール老師が生きているとはとても思えなかった。
じわ、と目頭が熱くなってきた。両手で顔を覆う。
ごめんねセフェリノ。どうして止めてあげられなかったんだろう。
どんな悪人だったとしても、人を殺めるなんてこと、セフェリノは望まない。
やさしい氷竜。
きっと彼の心は傷つくだろうに。