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旅立ち

カクヨムにて4~6話と分けて投稿していたものです。

 崖の稜線を歩いて行くと、対岸の村が小さくなっていく。聖なる青白い炎が天に突き立てられた柱のように見えた。横目に見える村の影を、なるべく見ないようにして歩いて行く。今すぐにでも村に戻りたくなる衝動を抑えながら、前を歩くジェイドについて行く。少しでも足を止めれば、村人たちの思いがついてくるような気がして、足を止めないで歩く。

 何度も歩いたことのある道だったが、今日は初めて歩くような感覚になった。ふわふわとどこか現実感がなく、足の裏から感じる泥や落ち葉の感触も、どこか曖昧に感じる。黙ってただジェイドの真っ白なマントの後を追って歩き続けた。

 昨夜はあんなに軽々と振るうことができた神具が、やけにずっしりとした重たさを持っていた。背中の荷物にしっかりと括り付けられて、音も立てず静かに背中にいる。


「ここらにしようか」

 稜線を過ぎて道を下り始めた辺りで、ジェイドが立ち止まった。

「ちょっとここで待っていなさい」

ジェイドは今まで来た道を戻り始めた。振り返ってジェイドを見ていると、わざとの木の枝や草の葉を折り、足下の落ち葉を乱している。その姿をぼーっと見ていると、いつの間にかジェイドの白いマントも見えなくなり、ガサガサという音も聞こえなくなった。

 一人、森の道に取り残された。そう思うと、途端に背中がぞわりと泡立つ。

「ジェイド! ジェイドどこ!?」

 アイルは大声でジェイドを呼ぶが、その声に驚いた鳥がバサッと木の上から飛び立った。その音に思わずびくりと全身が震えた。鳥が声を上げて飛び立った後、急な静けさが襲いかかってくる。風の音、その風に揺れる木々の音、ふっと鼻孔をかすめる獣の香り。周りを見渡して目をこらしても、ジェイドの真っ白なマントは見えない。葉の緑、樹木の茶色やくすんだ灰色、花の赤や黄色、紫色、そして葉の隙間から見える空の青色。森で目立つ純白が目に入ってこない。

「ジェイド! ジェイド!! 返事してよ!」

 周囲をぐるぐると周り、道を行ったり来たりとして足を止めることができずそわそわとする。……置いて行かれたのだと、そう思った。いったん村に戻るか、そう思って歩いてきる

「どこに行く? ここで待っていなさいと言っただろう?」

大きく肩を震わせて振り向くと、ジェイドが怪訝な顔をしてアイルを見ていた。歩いてきた方向と反対からジェイドは現れ、アイルの顔をのぞき込んだ。

「ジェイド、どこに行っていたの!」

「どこって……追っ手が来れないように、足跡を消して、別の場所に行ったように工作をしてきただけだが……お前は、あーあー足跡がこんなについてしまって……」

 ジェイドが下を向き、アイルもジェイドの目線を追って足下を見た。落ち葉がなくなってしまい、泥の上にグルグルと何重にも足跡がついて、アイルがそこで動き回っていたのが丸わかりだった。

「森では足跡と気配を消す、静の精神で狩りをしろと教えていただろう」

「ごめんなさい……」

うつむくアイルに、ジェイドが頭をかいて謝った。

「いや、俺も配慮が足りなかったな。どこに行くか言わずに、一人にして悪かったな」

そう言うと、ジェイドはアイルの頭を軽く叩いた。アイルの目からじわりと涙が出てくる。何故涙が出てきたのか分からず、そして恥ずかしさで顔を上げることができない。ポタポタと、目から水滴があふれ出てくる。自分の体が、自分の物じゃない感覚で、落ちていく涙を見ていた。

「一緒にここらの足跡を消すか」

顔を上げると、袖で目をゴシゴシと吹きながら、アイルは頷いた。


 足跡を消し、道から逸れた藪道に進む。獣でも通らない道は、草木が背の高さまで覆っている。辛うじてジェイドの頭とマントが見えるので、アイルは見失わないように早足でついて行く。途中から背中の神具が木の枝に引っかかり、アイルはつんのめって転びそうになる。見かねたジェイドが背中から神具を外し、「神具は何よりも大事に。外布はどうなってもかまわないが、剣は決して離さないように」とジェイドは言いながら、アイルの手を握って手に神具を持たせた。


 道がだんだんと緩やかな下り坂になっていて、微かに水の流れる音が聞こえだした。

「この先って、もしかしてアロン川?」

アイルが聞くと、ジェイドは「そうだ」と答えた。

 アロン川は、村の湖を水源として流れている川だった。村の生活用水でもあった湖だったので、あまり村を出たことがないアイルでも知っている場所だ。嵐が来たときに、川の水源が壊れていないかと、村の大人たちが見に行っていたのを覚えている。

 アイルはぎゅっとペンダントを握りしめた。


 川の水音は大きくなったり、歩いて行くと遠くなったりするが、確実に川の近くまで来ていた。やがて、視界が拓けると、大きな岩が所々ゴロゴロと転がって、草木はまばらに生えている場所に出た。水しぶきを上げ、清廉な大きな水の流れがある。

「少し休憩しよう。昨夜から何も食べていしな」

 ジェイドに促され、川の水をポットに汲んでくるために、岩の隙間をぬって川傍にまで行く。手を川に突っ込めば、指先から背筋まで凍りそうな冷たさが伝わってきた。アイルが水を汲むその間に、ジェイドがなるべく平らな場所を目星をつけ、焚き火を作っていた。拾ってきた小枝に聖火をつけ、焚き火を大きくして、簡易的な獣と魔物よ避けの結界にする。木の枝と石を挟んで、うまい具合に平らにし、木の枝を組んで紐で縛ると、そこに鍋を吊した。ジェイドは荷物から乾いたパンと干し肉を出すと、肉を小さく裂いて、パンの上にのせていた。アイルの汲んできた冷たい水を鍋に入れ、茶葉を少量入れると、お茶を煮出す。大体の道具は、ジェイドの担いでいた荷物から出てきて、アイルは敷物を自分の荷物から出して敷いた。

「アイル、さ。食べなさい」

 差し出されたパンと干し肉に、アイルは首を振った。体は疲れている、腹も減っている、と思う。けれど食べる気が起きない。

「食べたくないもの分かる。けれど食べなさい。流し込んででも、食べなさい。食べないかなら無理矢理食べさせる」

 ジェイドの真剣な声色とまなざしに、アイルは渋々パンを受け取った。木のカップを鍋に直接突っ込んで、ジェイドがお茶を汲んだ。ぽたぽたとしずくが垂れ、湯気の立つカップを受け取って、アイルは堅いパンを奥歯で噛みちぎる。

 ……味がしない。そのパンが古く固いからという理由ではないことは、アイルにも分かった。お茶を口に含んでパンを柔らかくし、何度も咀嚼して塊のまま飲み込んだ。喉から這い上がってきそうになるのをお茶で何度も流し込む。

 こんなに美味しくない食事は初めてだった。いつも、温かなスープに、採れたての新鮮な野菜、適度な味付けの肉や魚が、こんなにも恋しい。冬はあまりメニューにレパートリーがなく、文句を言っていたことも懐かしい。

 いつの間にか、またぽろぽろと目から涙がこぼれてきたが、堅い干し肉を奥歯で噛んで引きちぎった。肉の濃い塩気に、思わず眉をひそめる。それでも、お茶を含みながら何度も何度も噛んだ。

 涙が出てきていることについては、ジェイドは一切指摘しない。拭ったりもせず、アイルの顔をあまり見ないようにしてくれていた。

 やっとも思いでアイルは一切れのパンと干し肉を食べきった。ペンダントを握り、祈る。

「食の恵みを与えた神々に感謝を、恵みと、作り手、食の時間を与えられたことに、感謝申し上げる」

 アイルが顔を上げると、ジェイドも同じように祈っていた。ジェイドの首にも、アイルと同じペンダントがあった。

「俺も、十五歳の誕生日にじいさまにもらったんだ」

そういうと、ジェイドは服の中にペンダントを入れて、仕舞った。

 お茶を飲み干し、煮出したお湯を木筒でできた水筒に入れると、荷物を担ぎ直す。ジェイドは素早く火を消して焚き火の跡も隠した。このまま川沿いを歩いて行くとジェイドに言われ、アイルは頷いた。


 大きな川音を聞きながら、更に歩く。石だらけの足下に、時に体がぐらつく。手に持った神具が、段々と杖代わりになっていく。神具を包む布袋は、どんどんと泥で汚れていった。そんなアイルをそっと見ながら、ジェイドは速度を落とさず歩いて行く。転びそうになりながら、アイルはジェイドについて行った。手に持った神具が、まただんだんと重たく感じられた。

 自分の影が足下から、そしてどんどんと横へ横へと伸びていく。ふと、アイルは足下とジェイドの背中しか見ていないことに気がつき、顔を上げて足を止めた。後ろからの足音が止まったのに、ジェイドが気がついて振り返った。

「アイル、どうし……」

 口を開きかけたジェイドが、ざっと後ろを向くと、剣を抜き、杖と一緒に構えた。アイルも、腰から剣を抜く。

 強烈な腐肉臭。魔物特有の臭いは一瞬で濃くなり、ジェイドとアイルが周囲を警戒する。茂みがガサガサと動き、魔物がゆっくりと姿を現した。

「モサモサソウとハイヨルクサか」

 鮮やかな緑色のツタを持つ魔物と、淡く真ん中のコア部分が光った植物の葉が絡んだような姿をした魔物だ。強くはないが、刺されるとしばらく体が動かなくなる毒性があるのが特徴だ。

 慎重に魔物の横に回り込み、ジェイドとアイルは一気に魔物を切り刻んだ。ブスブスという音とともに、魔物は黒い灰のようになって姿を消した。アイルが素早くハイヨルツタの一部分を切り取って、手持ちの瓶に中身を搾り取った。

「お見事」

 ジェイドがその手際に、思わず感心した。ハイヨルツタの粘液は傷薬になるのだが、倒した魔物が消える前に処理しないと、手に入れることができないのだ。

「なんだかんだ、村で傷薬は貴重だったしね……」

 粘液にあとから熱処理をかければ、簡単な傷であれば治すことができる。小瓶を腰ベルトにつけたポケットにしまい、剣も鞘に収めた。


「そろそろ野営の場所を決めないとな」

「ここでは駄目なの?」

「岩でごろごろして、寝れたもんじゃないぞ?」

 足下を指さして、ジェイドは言った。昨夜からまともに寝ていないんだから、少しは体を休めないとな、とジェイドは言う。アイルは、まだ体が動くような気がしていたので、首を傾げた。体に感じる疲れはあるものの眠気はあまり感じていないので、一晩でも歩けそうな気がしているが、ジェイドは頑なに野営地を探すと言った。変だな、とアイルはまた首を傾げなからジェイドの後についていく。


 川から離れ、森の方へまた入っていき、土と草を踏みしめて歩いて行く。やがて、ぽっかりと拓けた場所が現れた。木々が生えていない、まるで森の広場のようだった。真ん中に切り倒された切り株があり、切り株には丸く列をなした小さなキノコが並んでいた。上を見上げれば、丁度月が頂点にかかってきているところだった。

 アイルはその光景に、空を見上げながらぽっかりと口を開けた。

「なんだか、不思議なところだねジェイド……ジェイド?」

ジェイドの方を振り向いてそう言うと、ジェイドは月の影になっている方向を見て、腰の剣を抜いていた。

「じぇい……うっ」

ジェイドの名を呼ぼうとすると、魔物の濃い臭いがして、思わず顔をしかめた。影になっている方をアイルも見ると、小さな洞穴がある。

「俺たちを誘おうとするとは、この辺の主かな」

ジェイドは杖と剣を構える。アイルも腰の剣を抜き、構えた。神具は落とさないよう、背中の荷物にしっかり括り付けた。

 濃くなる魔物臭、洞穴からぬるりと姿を現したのは、三つの頭をもつ蛇の魔物だった。見たことがない珍しい魔物、ジェイドが言ったように、この辺の主かもしれない。

 慎重に足を前へ進めると、左側の蛇頭が口を開き、炎を噴き出した。とっさに飛び退き、後ろに跳ねるように下がる。湿った草には燃え移らなかったが、落ちていた小枝は燃えやすかったのか小さな火種を残す。間髪入れず、真ん中の蛇頭が口を開くと、蛇の周りに小さな雷がバチバチと落ちる。

「属性複合魔物か、面倒だな……」

 ジェイドは小さく呟くと、杖を掲げた。すると頭上から光の矢が一本降ってくると、右側の蛇頭を捉えた。地面に縫い止められた右の蛇頭は、きゅうと音を立てて動かない。

「すごい!」

思わずジェイドの狙いの良さに、感嘆の声が思わず出てしまう。ジェイドは苦笑しながら、「まだだぞ」とアイルに言った。

 左の蛇頭が口を開く前に、アイルは素早く蛇に近づき、左の頭を落とす。真ん中の蛇頭が口を開きかけたのが見え、アイルは軽快に後方に下がった。真ん中の蛇頭開いた口をめがけて、ジェイドが水魔法で蛇に勢いよく水をかけると、蛇が自身の起こした雷にしびれ、焼けてしまった。

 辺りに形容しがたい、腐った臭いと焦げ臭さが広がる。魔物が完全に動かなくなったのを確認していると、ブスブスと黒い埃のように魔物の体が消え始める。ジェイドが革手袋をし、魔物が消えてしまう前に短剣で蛇の腹を割く。体内にあった毒袋を取り出し、革袋に丁寧に入れた。アイルが剣についた魔物の体液を振り払いながら、袋に入れられた毒袋を見た。

「色からして、しびれる系統の毒かな」

「たぶんな。あとで魔物に使ってみよう。毒系統がわかれば、解毒薬を作れるからな」


 ジェイドと一緒に、蛇のいた洞穴を見る。深くはないが、奥が暗くてよく見えない。枝に聖火をつけ、洞穴の中に入っていく。地面には魔物が這った跡がいくつもあり、奥へと続いている。最奥の壁面には獣の骨が積み上がっており、その中に金貨の入った袋がいくつかあった。

 ジェイドとアイルはその場に跪き、ジェイドは杖を掲げ、アイルはペンダントを握って祈りを捧げた。


 ジェイドがここで野営をすると言い、洞穴の入り口付近に聖火を置いた。アイルが周りから木の枝を拾ってきて、簡易的なかまどを作る。ジェイドは荷物をほどき、敷物と毛布を広げていた。

 お茶を飲み、また固い干し肉を食べる。喉を詰まらせ、ごほごほとむせながらなんとか食べ物を流し込む。

 聖火を消さないよう、燃えそうな手頃な木の枝を選び、洞穴の近くに積んでおく。ジェイドは敷布を広げ、荷物から毛布を引っ張り出した。

「横になりなさい、火の番は俺がするから」

「でも、あまり眠くない……」

「いいから、少しでいいから横になりなさい」

ジェイドがそう言うので、アイルは渋々ジェイドの広げた毛布にくるまった。少しかび臭さと、ジェイドの香りがする。枕元に神具を置くと、ジェイドも確認したように頷いた。


「ねえ、ジェイド。これからどこに向かうの?」

 横になりながら、アイルはジェイドに訊ねた。

「ああ、話をしていなかったな。これから反乱軍の仲間と合流する。この先にある村で落ち合う手筈になっているんだ。手紙を書いて、送ってある」

「そうなんだ……反乱軍はどれくらいいるの? 一体どこで何をしているの?」

「……そうだな、正確な人数は実は把握していないが、今のところ千人くらいだな。まだ王家の脅威になる勢力という程の規模ではないんだ。大陸の東側の何カ所かに拠点があって、情報を集めたり、災害や争いの被害に遭った村の復旧作業をしたりが、主な活動にしているのさ」

「そっか……」


 今から向かう場所は、アイルが足を踏み入れたことがない場所だ。そして、悪名高い……と思っていた反乱軍と合流するというので、アイルは毛布の端をきゅっと握った。

「反乱軍と言っても、何でもない奴を襲ったりはしないからな?」

アイルの思考を読んだように、ジェイドは笑いながらアイルに言ってきた。

「いい奴ばっかりかと言われれば、そうじゃないのも確かにいるが。気性の荒い奴らもいる、けれど少なくとも王家の奴らよりは悪いことはしない。そこは保証する」

そう言うと、寝ているアイルの頭を撫でた。

「アイル、確かに剣の腕前が上がっていたな。見直したよ」

ジェイドは微笑んで言った。月明かりに照らされたジェイドの顔は、いつものようにかっこいいけれど、どこか影があるように見える。何か、他にたくさんの何かを知っていて、抱え込んでいるのだと、そう思った。

「ジェイド、何か心配なことがあるの?」

アイルの言葉に、ジェイドが目を見開いて、頭を撫でていた手を止めた。

「……そうだな、ちゃんと言っておかないとな。アイル、お前にはこれから大変な役目を負ってもらうことになる」

「役目? 何それ?」

「お前は、神具に選ばれた。灰妃さまの所持していた神具の名は“調停の剣”という、審判の力を持つと言われている。悪しき者を裁くことができるその神具を持って、反乱軍の旗印にせよと、そう灰妃さまから仰せつかった。俺が、神具を使うつもりだった」

「うん……」

「俺は選ばれなかった。どうやっても鞘から剣は抜けなかった、神具は俺を選ばなかったんだ。でもお前は抜いてしまった。神具に選ばれてしまったんだろう」

「選ばれたって、ただ普通に抜けたよ?」

 そうだ、裁きの剣はするりと抜けた。そして、思いのほかしっくり手になじんだ。まるで長年使い込んだ、アイルがテルハから譲り受けた剣のように。生まれたときから握っていたと言ってもおかしくないくらいだったのだ。

 ジェイドは頭を横に振った。

「神具は、神具が選んだ者しか使いこなせないんだ。王族は神具を使える、だから特別視されていたんだ。アイル、お前は神具である調停の剣を抜いて、そして使ってみせた。親衛隊をなぎ倒していただろう。それが何よりの証拠なんだ」

「どうして、僕なの……? 僕は神王族と何の関係もないのに」

「さあ、どうしてだろうな」

 ジェイドはアイルの頭を撫でていた手を、アイルの腹辺りに移し、ゆっくりとんとんと一定のリズムで叩いている。子どもでもないのにジェイドにあやされているような感じがして、なんだかむず痒い気持ちになる。

 炎の暖かさと、心地よいテンポに、アイルの目がまどろんでいく。

「灰妃さま、どうか我らをお導きください……」

 眠りの底に落ちていく時、ジェイドの小さな呟きが聞こえたような気がした。



 顔に当たる光に、思わずまぶしさで顔を布で隠す。少しのカビ臭さと、懐かしい香り。もぞもぞと体を動かせば、背中に固い何かがぶつかって、痛みで顔を上げた。背中の方向を振り向けば、ぼんやりと岩肌が見えた。

 岩、なんで? どうして、ナラの食事を作る音が聞こえないんだろう。どうして、じいちゃんのお祈りの声が聞こえないんだろう。

 何度か瞬きをすると、頭のもやがだんだんと晴れてくる。はっきりしてきた頭で、思い出す。自分は洞穴で横になって、ぐっすりと寝込んでしまっていたのだと。

 勢いよく体を起こすと、キョロキョロと周囲を確認した。背中に当たっていたのは洞穴の岩肌だった。入り口には日の光が入ってきていて、日が昇ってかなり時間が経っているようだった。聖火のかがり火は、わずかな木の枝を燃やしていて小さくなっている。

 ――ジェイドの姿がない。

 ぞくっと、アイルは昨日感じた不安を思い出した。胸のペンダントをぎゅっと握り、毛布から出ると。傍らの神具を抱えて洞穴を出た。

 思いのほか日は高く昇っていて、かなりの時間眠っていたことを思い知らされた。

 背後からぱきっと、小枝の折れる音がした。ばっと振り返ると、大きな獣の肉塊を担いだジェイドだった。

「なんだ、ようやく起きたのか。随分寝坊だったな」

 ジェイドはアイルを見て笑っていた。

「その肉の塊は何……?」

「これか? ちょっと精力をつけなきゃと思ってな、ひと狩りしてきたのさ」

ジェイドは肉塊を地面に置くと、「この辺には薬草が多くあって助かったよ」と言いながら、摘まれた新鮮な薬草を肉塊の上に置いた。

「さて、食事の準備を手伝ってくれ、寝ぼすけ」

ジェイドの言葉に、アイルは何度も頷いた。


 ジェイドが豪快に肉を捌き、鍋の中に入れている。血抜きを既にしてきてあったのか、嫌な匂いがあまりしない。アイルは小刀で薬草を小さく刻んで、鍋に入れた。

 くつくつと煮込まれる鍋から、いい匂いがしてくる。

「狩りに行くなら、起こしてくれれば良かったのに」

「起こせって……あんな気持ちよく寝ているのに、起こせないだろう? 慣れないことをしているんだ。休めるときに休んでおきなさい」

 ジェイドは鍋の味見をしながら言った。いつも早起きできていたのに、日が昇っても寝こけていた自分が恥ずかしい。しかも狩りまでジェイドにしてもらった。ため息をつきながら、アイルも鍋の味見をした。

 薬草の味と、肉のうまみ、軽く振った調味料のおかげで、鍋は昨日からの干し肉に比べると、格段に美味しくできあがっていた。ただ、味は薄めで、ナラの作った格別の味がたまらなく美味しかったのを思い出して泣きそうになる。涙が出そうになるのを我慢して、木の皿に取り分けて、二人で食べ始める。

「ジェイドは寝たの?」

「ああ、少し眠ったよ。俺のことは心配いらない、大丈夫さ。さ、食べれるだけ食べなさい」

ジェイドはそう言うと、アイルの空になった器によそう。たっぷりと器に盛られ、アイルは少しずつ食べた。ジェイドは肉にかぶりつき、かきこんで食べている。アイルには流し込んでいるようにも見えた。

 食べ終わって、荷物を整理する。神具は外布が汚れていたので中を確認すると、鞘にも柄にも、一切の汚れも傷もなかった。鞘から抜くと、刀身も一切傷がなく、太陽に照らされて一層美しい姿を見せた。刀身を仕舞って、ジェイドにおもむろに神具を渡した。ジェイドはアイルの意図を察し、ため息をついて鞘から剣を抜こうとしたが、ピクリとも動かない。ジェイドがわざわざ揶揄うことをしないと分かっているアイルは、首を傾げた。

 本当に、自分だけしか抜けないのか……?

 ジェイドから神具を受け取ると、アイルは布の中に仕舞って、荷物にしっかり厳重に紐を括り付けて、落とさないようにする。

 聖火がずっとあったおかげで、獣も魔物もずっと寄りつかずに済んだ。日が一番高く上がった頃に、洞穴をあとにした。


 森の獣道をひたすらに歩いていく。時折ジェイドが日の方向から場所と時間の確認をして、ジェイドとアイルは声をかけながら歩いて行く。背中に担いだ神具がに、木の枝に当たらないよう、深く腰を落として避けていく。登り下りと延々と続く道に、終わりは見えない。

 日が傾き始めた頃に、水音が聞こえ始めたので、川の近くに来たのが分かった。川側まで降りたが、ジェイドが川の近くに行くのを止めた。

「イラが茂っている……ここは止そう、別の場所で野営する」

「え、どうして? 水の補給した方が良くない?」

「この先に村があったはずだが、恐らく駄目になっている、水もこの辺で調達しない方がいい」

「駄目になっている?」

「そうだな、どうせなら見るか?」

「え?」

固い声でそう言うと、ジェイドは方向を変えて歩き出した。ジェイドの後について行き、どういうことか聞いても、ジェイドは何も言わない。答えてはくれなかった。


 獣道を進むと、段々と足下が泥濘んで、ぐちゃくちゃと音をさせる。暗くなってきているのもあり、足を取られそうになってしまう。フラつけば、足に棘の生えた草が刺さってしまう。周囲の木に手をつけば、ざりっとした土の感触があった。

 訳が分からずついて行くと、泥だらけの石畳の道に出た。泥が堆積していて、辛うじて石畳だとわかるかどうかと言う状態で、泥の積もっていない場所にだけ、汚れた石が規則正しく並べられているが、所々割れていたり剥がれたりしているのが見えた。泥が積もった石畳を進むと、村の前に設置してあっただろう、村の結界があった。果ての村の結界の形とは少し違っているけれど、結界装置が壊れて横たわっていた。

「ジェイド……これは……」

 ジェイドは答えず、無言で真っ黒になっている村に入っていく。明かり一つ、人の声一つない。ただ、汚れた泥の厭な臭いが漂っている。思わずえずいてしまう臭いに、顔をしかめてしまった。

 村の真ん中へ行けば行くほど、泥の山が大きくなっていく。足を踏み込んで泥を上るが、ズリズリと足が泥にはまりそうになる。それでもジェイドは進むので、アイルはついて行くしかなかった。

 川の轟音がどんどん大きくなり、その音以外に聞こえない。臭いはどんどん強くなり、おえっと何度もえずいた。ジェイドの表情は暗くて見えず、ずっと何も喋らなかった。

 ようやくジェイドが足を止めた。アイルは息が上がっていたが、ジェイドの横にゆっくりと立った。

 月の薄明かりに照らされた濁流が、目の前にあった。ジェイドが杖を構えて、小さく呟くと、杖の先が仄かに光った。

 更に、濁流がよく見える。茶色に濁った川は、泥の山のすぐ横を通っていき、泥山を少しずつ削り、また濁流で新たな泥山を築いている。大きな岩と大木が濁流の中に横たわって顔を覗かせており、真っ黒な水しぶきを上げて、周囲の泥水が渦を巻いていた。落ちれば、ひとたまりもないその勢いに、アイルは足がすくんだ。

「あそこの堤防が崩れたんだ」

 ジェイドが杖を上に掲げると、ぼんやりと対岸の森に、崩れた斜面が見えた。

「堤防が崩れて、川が決壊して、この村は飲み込まれた……」

「村の人は……?」

「分からないが、しかしこの規模だと、無事で済んでいないだろうな」

ジェイドが杖を動かし、川の方へ向けていた明かりが村側へ向けた。先ほどまでよく見えなかったが、崩れ拉げた家々に、泥が覆い被さっている。目をこらして見れば、泥の山はみな家々が飲み込まれた上に積み上がっているのが分かった。そして足下に、礼拝堂に掲げられていたであろう、アズトラ教のシンボルの一部が覗いていた。ここの泥山には、この村の礼拝堂が埋もれているのであろう。

 言葉を出せず、呆然としていると、ジェイドは小さく呟いた。

「こういう村を助けず、巻き上げた税金は何に使われているんだろうな……」

「え、神王軍の助けは来ていないの?」

「来ていれば、村の入り口に木札が立っているはずだ。助けに来た他の村の人たちに、ここの村の人々がどこに避難していて、けが人や死者の名前と人数が書かれている木札を立てることになっているんだ。それが、この村の入り口にはなかった」

「この村の水害が、最近だったからじゃ……? 最近起こったから、神王軍の助けがまだ来れていないんじゃないの?」

「この災害は最近起こったものじゃない、それだったら、こんな泥の上に上るなんて無理だ。村の入り口の泥が避けられていたから、他の村々から助けは来たんだろうが。それに、イラ系の植物がこの川沿いにかなり生えていた。濁流は植物も飲み込んだはずだが、既に植物が生え始めていたからな……」

 ジェイドは、段々と声を落として、それでも淡々と言った。


 周りを見渡す。ここは、神王に見捨てられた村なのだ、と。そう思うと、悔しさと怒り、そして悲しさが一気にあふれ出て、涙になって出てきた。

 ——この小さな村は、川と森に囲まれて、人々は平和に真面目暮らしていたはずだ。きっと果ての村の人々と同じように。しかし、突然堤防が崩れて、その生活を飲み込んだ。信じていたはずの神王の助けは、来なかった。その絶望を想像すると、嗚咽が止まらない。

 ジェイドは、ただただ静かにアイルが泣き止むまで見守っていた。やがてアイルは顔を上げ、袖口で顔をごしごしと乱暴に拭う。

「ジェイド、この村の人々のために祈りを捧げてもいい?」

「祈りを? ああ、かまわないさ、一緒に祈ろう」

 ジェイドと一緒に泥山を下って、村の出入り口にあった結界が壊れた場所まで戻った。村の方に向き直って、ジェイドは片膝を立て、杖を掲げた。アイルは背中から神具を下ろすと、ジェイドの杖のように剣を掲げた。

「敬虔なる民、安らかなる永久の眠りを。眠りを妨げるものはなく、光の地へ向かい給え」

 持っていた剣の柄が、心地よい温かさをもっていく感触が、手に伝わってきた。ぎゅっと柄を握りしめれば、アイルの手に応えるようにぬくもりが感じられた。

 祈り言葉を終えれば、すっとゆっくりとぬくもりが消えていった。

「さ、この辺は地盤が緩んでいて危ないからな、もう少し歩くぞ」



 結局、夜通し歩く事になり、森の中をずっと進んだ。時々、魔物が襲ってきたが、ジェイドと協力をして倒しながら歩いて行った。日が昇り始めた頃、なんとか横になって眠れそうな場所に出た。

 軽く食事を済ませ、ジェイドと交代で体力を回復させるために少しだけ眠った。日が一番高く昇った頃、荷物を担ぎ、再び歩き始める。登り坂、下り坂、でこぼこした道を、歩いていく。


 獣道を行くと、木々が丁度拓けて、森を上から見下ろせる高台に出た。緑の森が遠くまで広がっているが、所々赤茶けて木々が生えていないところも見える。

 赤くなった遠くの空に、白い筋が浮かんで見えた。雲かと、そう思ったが雲にしては夕日をはっきりと反射して赤く染まっている。

「ジェイド、あの浮かんでいるのは何?」

「ああ。大陸の背骨と言われる、霊峰テレネ山脈の嶺々さ」

「あれが、霊峰テレネ山脈……」

 ——……遙か昔、神々が世界を作ったとき、海から土を持ち上げてこの大陸を作った。そのとき、神々が持った場所が、霊峰テレネ山脈だと言い伝えられている。

 夕日に赤く染まった嶺が、空にたなびくように浮かんでいる。雪のかぶった部分だけが、鮮やかに映し出している。大陸のどの山々よりも高く、どの場所よりも強く恐ろしい魔物が住んでいると言われている。大陸の南北に、大地を分断するようにそびえており、その麓には、神王の住まう都がある。


「綺麗だ……」

 アイルの口から思わずこぼれた言葉に、ジェイドは「そうだな、綺麗だ」と言った。

 段々と日が傾きはじめ、嶺が夜色になってきて、雪の白色を浮き上がらせてくる。雪の積もっていないテレネ山脈の影が、濃紺に浮かび上がってくる。

「そろそろ行こう。暗くなる前に野営地を見つけないとな」

 ジェイドに従い、また獣道を歩き始めた。


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