始まりの物語
カクヨムで1~3話に分けて投稿していたものです
さほど大きくない湖の淵にへばり付く様に、小さな村がある。北側は湖を挟んで大きな崖が切り立っており、来るものを阻む。村の南側には、深い湿霧の森が広がる。大陸の辺境の地に、この果ての村はある。夜には深い霧が村を覆い、朝日が昇るまで、この村は霧に包まれる。
朝早く、日もまだ上る前。家人たちを起こさないよう、少年——アイルはそっと家の木戸をくぐって外に出た。そろそろ薄くなってきた霧が、空気が、衣服を湿らせていく。肌にまとわりつく霧を切るように、アイルは歩いていた。草露が足元を濡らしていくが気にせず、アイルは真っ直ぐ礼拝堂へ向かった。木戸の閂を外し、ポケットから鍵を出す。鍵穴に鍵を入れ回すと、重い音を立てた。大きな扉を両手で押し、ゆっくり開く。礼拝堂の中は薄暗く、静まり返っている。アイルがすぅっと息を吸うと、冷たいが神聖な空気が胸を満たすような気がした。アイルが真ん中を歩いていると、高い天井の窓から、うっすらと明るくなる。静かな礼拝堂に自分の足音だけが響く、アイルはこの時間が何よりも好きだった。シンボルの前に立つと、深々と礼をした。顔を上げ、一目すると、アイルは礼拝堂の窓を順番に開けていく。ちょうど全ての窓を開け終わったころ、息を切らして少女が礼拝堂の入り口で顔を見せた。
「ああ、今日は絶対に私のほうが早いと思ったのに……」
「今日も僕の勝ちだよ、ナラ。残念だったね」
ふふ、とアイルが笑ってナラのほうを見る。よほど慌てて走ってきたのか、ナラの髪は所々跳ね上がっている。スカートの裾や靴にも泥が小さく跳ねてしまっている。
「じゃぁ、今日も水汲みはナラだね。ああ、入る前に泥を払って…」
「分かってるわよぅ、もう」
ナラが口を尖らせながら、髪を手櫛で直し、スカートの裾を直していく。
「中の掃除はまだだから、一緒にやろう。ね?」
「分かった。ねぇ、アイル?」
「何?」
泥の付いた靴を手に持って、ナラがアイルの傍に跳ねるように寄ってきた。
「誕生日、おめでとう!」
「ああ、うん。ありがとう」
「ね、私が一番に『おめでとう』だった?」
「うん、ナラが一番だよ。ありがとう」
「本当ね? おじいちゃんが最初じゃないよね?」
「ナラが一番だよ」
良かった、とナラが嬉しそうに笑う。
祭壇と神官が座る椅子を拭き上げ、礼拝者が座る敷物をあげて床を掃いた。
丁寧な掃除を終える頃には、朝日が高く昇り、霧に乱反射した温かな光が、崖下の村を徐々に包み込んでいく。木桶を持って、アイルとナラはこの村の村長であり神官のテルハの家のドアを開けた。
村につながる森に、十五年前の今日という日に、アイルはへその緒が繋がった状態で置かれていたのを、この村の長を務めるテルハに見つけられた。獣か魔物かに喰われて死ぬ運命だっただろう赤子はそのまま、テルハが引き取ることとなった。わずか数日違いで生まれたであろうアイルとナラは、テルハの下で同じように姉弟として分け隔てなく育てられた。
家の中で、白ひげを蓄えた老人テルハが、目の横の皺を深くし、帰ってきたアイルとナラを見た。
「おかえり、ナラ、アイル。朝のお勤めご苦労様」
テーブルには、テルハが用意した朝食が並んでいた。ほかほかと湯気が上がるスープの匂いが、部屋中に広がっていた。
「お腹すいたー」と木桶を置いたナラは、さっと自分の椅子に座った。アイルも続けて座ろうとすると、テルハがアイルに声をかけた。
「アイルや」
「はい、じいちゃん」
「誕生日おめでとう。これは、わしとナラからの贈り物だ」
そういうと、テルハは暖炉の上に置いてあった木箱を取ると、アイルに渡した。
「あー私が渡したかったのに!」
「お前はとっとと席に着いたからだろうが……」
飽きれ顔のテルハに、ナラが頬を膨らませた。その顔を横目に、アイルは小さく笑った。小さな木箱を開けると、中にはアズトラ教のシンボルが象られた金属とそれに伴う宝石がつけられたペンダントだった。
「わあ、ありがとう!」
「お前も十五歳、身につけてもよいだろう」
「私も一緒に作るのを手伝ったのよ」
「嬉しい、ありがとう。大事にする」
アイルはペンダントを首にかけると、テルハとナラに見せた。テルハとナラは微笑んでアイルの顔を見ていた。
「さ、冷める前に朝食を」
テルハに促され、アイルも椅子に座った。
「アズトラの神、神王の恵みに感謝を……」
食事を前に、手を組んで祈りの言葉を唱える。小さい頃から慣れ親しんだその言葉は、アイルの口からするりと出てくる。食事前の祈りの言葉を一通り唱え終わると、やっと食事が始まった。
※
アズトラン大陸。通称南大陸。神王家を神の一族とした宗教を国教とし、大陸全土を支配していた。世界創世をした神々の末裔であるアズトラン神王を絶対とし、世界を創る際に使用された神具は、末裔である神王族に伝えられ、所有していた。大陸の自然や生き物、魔法は、神具の力を分けられたもので、民はその恩恵にあずかっていると信じられてる。神王族の頂点である神王には十二の妃がおり、そのうちの一人灰妃。灰妃は信仰心の厚く、慈悲深いことで知られていた。
大陸の中心地は神王の直轄地の他、領土は十二の妃とその息子息女である王子王女が、大陸を分割して統治している。灰妃領は大陸の北東側地方を領土としていた。灰妃領の果ての村。この村はそのように呼ばれている。信仰心の厚い村長、テルハ神官を中心に、村人も信仰心が厚く、穏やかに平穏に暮らしていた。
※
朝食を終えれば、いつも通りの日常が始まる。ナラは家の掃除、アイルは家の横にある畑の世話をしに行く。
畑仕事をするアイルの姿を見た村人の何人かから「誕生日おめでとう」と声をかけられた。それに笑顔で応えていると、誕生日だからと野菜や焼き菓子を持ってきてくれた。持ちきれない程になったのを見かねた隣の家のおばさんが、大きな籠を持って村人からの贈り物を入れてくれた。ついでだからと、おばさんの手作りパンを籠に入れてくれたので、昼食で家に戻ると、折角の籠がからあふれそうになっている贈り物に、ナラが大声で笑った。
村のほとんどの家から贈り物をもらったアイルは、贈り物の前にペンダントを握り、感謝の祈りを捧げた。その背中を見ていたテルハが言った。
「アイル、お前のその姿勢なら、灰妃殿下に神官見習いの推薦状を出せるだろうと思う」
「え?」
アイルが振り向くと、テルハが微笑んでいた。
「子どもの頃に言っていただろう、神官になりたいと。お前の日々の心がけ、生活態度であれば、神官になるために、灰妃殿下のおわす灰都の学校に推薦状を書いてやれる」
「じいちゃん、本当に言っているの? だって……」
「神官学校の推薦状は、上級神官一名もしくは中級神官二名以上の推薦状があればいい。わしはそれを書いてやれる。十五歳になったのなら、入学の年齢としても十分だ。つまり、お前は入学できるということだ」
テルハが頷きながら、アイルの肩に優しく手を置いた。
「アイル、お前であれば立派な神官になれる。この上級神官テルハが保証しよう」
「だって、でもお金とか……僕は稼いでもないし、孤児の僕をここまで育ててくれただけでもありがたいのに、これ以上はお願いできないよ」
「そんなことを思ってしていたのか。仕方のないやつだな」
テルハが、ゆっくりアイルを抱き寄せ、背中に手を回した。
「のう、アイル。村の者たちがお前にこんなに誕生日の贈り物をしてくれたのだ。お前の日々の様子を見て、お前の成長を見てくれてのことだよ。誰も示し合わせたわけじゃない。お前の成長は、皆の楽しみだ。それにな、アイル」
「何?」
「孤児だなどと自分を卑下しなくてもいい。お前は、私の大事な孫の一人だよ。お前を見つけて育てると決めたときからな。だからそんな寂しいことを言わないでおくれ」
テルハがアイルの背中を、あやすようにトントンと撫でる。テルハの肩に顔をうずもれさせ、アイルはぐぐもった声を上げる。
「それになアイル、お金なら心配しなくていい。村の皆が、アイルが神官学校に行くならお金を少しずつ出し合おうと言ってくれている」
「そんな、だって!」
アイルが、いつの間にか涙でじゃぐじゃになった顔を上げた。その顔を見て、テルハが笑いながら手ぬぐいでアイルの顔を拭った。
「だからの、アイル。この果ての村での三人目の上級神官になっておくれ。それが村の皆の願いだよ」
鼻水の流れている鼻をきゅっとつまむと、ふぎゅっとアイルは声を上げた。
「何も心配せずともよい。民と神王家のために心血を注ぎなさい。さ、昼ご飯だ」
そう言うと、テルハが食卓の椅子に座った。台所でこっそりと様子をうかがってたナラが、とっとっと出てきて、アイルに飛びついた。
「アイル、神官学校に行っても、たまにはちゃんと帰ってきてね」
ナラがアイルの胸に顔を埋めて言った。
「うん、ありがとう。姉ちゃん」
アイルがナラを抱きしめ返して言った。
「ほら、ご飯が冷めちゃうから。早く食べちゃお!」
ナラがアイルから離れる。その目尻は、少し赤くなっていた。三人は、時折鼻水をすすりながら、温かな昼食を一緒に食べた。
昼食後、目をこすりながら隣のおばさんに借りた籠を返しに行く。籠の中には、森の中で取ってきた薬草を煎じた薬をいくつか入れておいた。アイルの赤く腫れた目に、おばさんが心配してくれたが、神官学校に推薦してもらえることを話し、おばさんにお礼を言うと、力強く抱きしめられた。おばさんのふかふかの胸に思わず息ができず、背中を叩いてようやく離してもらえた。じいちゃんの言うとおり、村の皆が本当にお金を出し合ってくれているらしい。おばさんに抱きついてもう一度お礼を言うと、おばさんがそっと抱きしめ返してくれて「頑張りなさい」と言ってくれた。
おばさんに見送られて、アイルは家に戻ってから、納屋から草刈り用の大鎌を取ってくる。村の入り口に繋がる道の草刈り、そして結界の見直しをしに行く為だ。
アイルはマントを羽織って、剣を腰のベルトにつけて下げた。マントは去年のアイルの誕生日に、ナラが織ってくれた布で作ってくれたもので、軽くて丈夫で上等で、とても気に入っている。短目の両刃剣は、昔テルハが使っていたものをおさがりだともらったが、使い込んだ柄は握りやすく手になじんでいるし、長さもそれほど身長が高くないアイルには丁度良かった。
村の入り口には、魔物が入って来ないように結界が張られている。石柱の上に、様々な色に刻々と変化する炎がある。胸の前で手を組んで魔除け用の祈りを唱えると、炎は大きく揺らめいた。結界は十分に機能しているようだ。
草刈り用の大鎌を持ち、南の森に入っていく。湿度の高い森の中は、村へと続く石畳の道以外は、どっぷりと重い泥状の地面がうっそうとした森を形作っている。
石畳の周りに生えてきた草を払いながら刈っていく。結界から離れれば、魔物がいつ出てきてもおかしくない。腰に下げた剣をできるだけ使わなければいいな、そう思いながら草を刈っていく。時折、背後に魔物の気配がないか、獣が襲ってこないかを確認していく。
石畳の向こうから、かすかな物音がする。アイルは手を止め、音のした方を向くと、腰を落として目を細めた。
魔物か、獣か、それとも盗賊の類いかもしれない。ごく稀に、ど田舎の村を襲う奴らもいるので、アイルを含めた村の戦闘員の出番がくることがあるのだ。
石畳の先から、白い装束の人物が歩いてきているのが見えた。その人物は、アイルがよくよく見知った人物だった。
「ジェイド!」
アイルは思わず叫んだ。ジェイドと呼ばれた人物は、手を軽く上げてアイルに挨拶をした。
ナラの実の兄、果ての村出身の、二人目の上級神官。長い銀髪を一括りにまとめ、切れ長の目を持つ、誰もが見惚れる美青年のジェイドは、相変わらず高身長ですらりとしている。
「やあ、アイル。見ないうちに随分大きくなったな」
「そんなに言うほど変わっていないよ」
「そうか? いや、ちょっといい体つきになった」
アイルの頭をくしゃくしゃっと撫でて、ジェイドは一笑した。久しぶりに頭を撫でられて、なんだかくすぐったい。真っ白な神官服の上に長い灰色のマントをつけ、大きな荷物を背負い込んだジェイドは、背中の荷物に布で包まれた細長い棒を背負っていた。
「じいさまもナラも、村の奴らも元気か?」
「うん、みんな元気だよ」
そう言うと、ジェイドはほっとした表情をも見せた。
「そういえば、今日帰ってくるって言っていたっけ?」
「ん? 手紙、送ったんだが……届いていないか?」
アイルが首を振りながら「ジェイドからの手紙は来ていないよ」と伝えると、ジェイドは呆れたような安心したような、口元をゆがませて笑った。
「まったく、ここの村の手紙は相変わらず遅いんだな……まあ、それはそれでいいか」
ぶつぶつと独り言を言うジェイドを不思議そうに見上げていると、ジェイドは何でもない、と言って首を振った。
アイルがジェイドの荷物を持とうか聞くと、持っている物には触らないで欲しいと、固い声で言った。草刈り止め鎌を背負うと、アイルも一度村に戻ることにした。
ジェイドから灰都の様子はどうかと、アイルは聞いてみる。このど田舎の村にも、灰都の賑わいは届くというもの。しかし、あまりに灰都は遠く、情報がやってくるのはかなり遅い。なので、村の外かやってきた者に村以外のことを聞くのが、何よりの楽しみである。特に、灰都の情勢、流行り物を聞くのは、娯楽の少ない村人にとっては一番の楽しみだ。
「そうだな……賑わっているよ」
ジェイドのなんだか曖昧な言い方に、アイルはそれ以上聞くことができなかった。ジェイドは一年前から灰妃の側仕えをしていると以前家族にと送ってくれた手紙にあった。その知らせを見たときは、思わず村の皆で喜んだものだ。もしかしたら、忙しくて灰妃城から出れなくて灰都の様子もあまり知れていないもかもしれないと、アイルはそう思った。
ジェイドと並んで歩いていると、ジェイドがアイルの首から下がっているペンダントに気がついた。
「その首飾り、どうしたんだ? 前は持っていなかっただろう?」
「ああ、誕生日だからって、今朝じいちゃんとナラにもらったんだ」
「……そういえば、今日が誕生日だったか。すまない、贈り物を準備するのを忘れていたよ」
眉間に皺を寄せて、ジェイドが謝ってきた。その端正な顔を歪めさせてしまったので、アイルは逆に申し訳なくなった。
「ううん、いいよ。ジェイドが忙しいのは知っているし。でも、その代わり後で剣の稽古付けて欲しいかな。最近じゃ、僕が村の子たちに稽古をつける側になっちゃて……」
「ははは、そこまで鍛えているなら、アイルの腕を見なきゃな。わかった、後で稽古をつけよう」
そう言うと、またジェイドはアイルの頭をくしゃっと撫でた。
村まで行けば、ジェイドの姿を見た村人がわらわらと集まってくる。子どもたちは上級神官である証の銀色の錫杖を、代わる代わる持ちたがった。ジェイドは沸いてくるかのようにやってくる全村民の相手をして、困った顔をしていた。
ジェイドは数年前、十五歳でこの村を出て、灰都の神官学校に入学した。すると瞬く間に頭角を現した。灰妃領の中での最年少上級神官になった。しばらく村を離れていたが、村の皆にとっては憧れの存在だった。
「みんな元気そうでよかった。じいさまはいるかな? すぐに話をしなきゃいけないことがあるんだ」
集まってきた村人たちにジェイドは申し訳なさそうに言うと、村人たちはジェイドを惜しみながら離れて仕事に戻っていった。
「じいちゃんは礼拝堂で、書物の整理をしていたはずだよ」とアイルが言うと、荷物をおいてに礼拝堂にジェイドが入っていった。手には背中に背負っていたあの長い棒を持っていった。
「お兄ちゃん、帰ってきたのね」
ナラがやってきて、ふうとため息をつく。
「うん、ごめんね。皆集まってきちゃって、すぐにじいちゃんとナラに伝えられなくて……ナラ? どうしたの?」
「え、うん……お兄ちゃん、なんか変な顔をしているから。何かあったのかな……」
礼拝堂の方を見ながら、ナラは怪訝な顔をして小さく呟いた。
しばらく、テルハとジェイドは礼拝堂で話をしていたようだが、突然の礼拝堂から大きな物音が響き、アイルとナラが駆けつけた。
礼拝堂の扉を開けると、ジェイドが床に倒れ込んでいた。テルハは真っ赤な顔をし、拳を振るわせて立っている。
「お兄ちゃん、おじいちゃん!」
走ってジェイドに駆け寄って、抱き起こすとジェイドの片頬が赤々と腫れ上がっていた。「ジェイド、お前のことはもう身内とは思わん! 二度とこの村に帰ってくることは許さん!」
テルハが聞いたこともない大声でジェイドに言った。礼拝堂の空気がビリビリと響いて、色ガラスが震えている。
「分からずやの頑固じじい。言われなくてもこんな村、二度と戻ってくるか」
ジェイドも吐き捨てるように言った。
「なんだと! この不敬者が!」
テルハが再度ジェイドに殴りかかろうとするので、アイルは二人の間に入ると、テルハの拳を肩で受け止めた。弱々しいその拳に、アイルは力が入っていないことが分かった。
「おじいちゃん、お兄ちゃん、なんて事言うのよ!」
ナラが叫び声のように声を上げた。
「ジェイド……わしの自慢の孫が……」
そう言うと、テルハは膝から崩れ落ちてしまった。慌ててアイルとナラでテルハの体を支えると、テルハを両側で抱き上げて家まで連れて行った。
物音で、村人の何人かが集まってきて何事かと見に来た。ナラは皆に「何でもない、何でもないの……」と、まるで自分にいい聞かけせるように言っていた。
テルハをベッドに寝かせると、どこか痛いところはないかと尋ねた。テルハはか細く「どこも痛くない、大丈夫だ」と言った。それから、アイルにジェイドの様子を見てくるよう伝えた。
村人の何人かが、家の前におり、何事かと訊ねてきたが、アイルは「腰が抜けちゃったみたい」とだけ伝えた。兄と祖父に何があったか、アイルも分からないので、答えようがない。アイルの答えに納得はしていないようだが、村人たちはゆっくりと自分の仕事に戻っていった。
礼拝堂にアイルが戻ると、ジェイドは冷たい床に座ったままだった。高い天井から日の光が差し、丁度アズトラ教のシンボルを照らしていた。井戸の冷たい水を汲んできた桶を置いてジェイドの横に座ったが、ジェイドはじっとシンボルを見つめたままだった。布を絞って、真っ赤かに腫れ上がった頬に布を当てると、ようやくアイルの存在に気がつたようで、はっとしてアイルを見た。
「じいちゃんが、今夜はここに泊まっていいから、明日の早朝にはここを発てって。食事は後から持ってくるよ」
「……そうか。じいさまは大丈夫か」
「うん、今ナラがみているよ。なんか気が抜けたって、そうじいちゃんが言っていたよ」
「そうか……」
そういうジェイドは、力の抜けた表情を見せた。頬を自分で冷やしながら、またジェイドはシンボルを睨みつけた。煎じた薬草と、清潔な布をジェイドの傍に置いておく。
見たこともない横顔のジェイドは、何も話そうとしないので、沈黙が続く。その重苦しい空気に耐えきれず、アイルはゆっくりと口を開いた。
「じいちゃんと、何の話をしたの?」
ジェイドは低い声で言った。
「——……反乱軍の活動に協力しないかと言った」
「はっ!?」
「声がでかい……」
ジェイドの呆れた声に、アイルは慌てて口を手で塞いだ。
——反乱軍。世の流行りに疎いこの村にも、その悪名は轟いてきている。曰く、この国そのものの根幹を覆そうとしている存在。曰く、神に反逆する者たち。世界の秩序を乱し、混沌を生み出している、と。反乱軍は、神の一族である神王と、それに連なる神王族を根絶やしにし、この国の支配者になろうとしていると聞いている。そのために、街や村の破壊をし、人々から財産を奪い、混乱をもたらしている。
「どうして……ジェイドは反乱軍を支持しているの? だって、反乱軍は悪いことをしているでしょ?」
アイルは極力小さな小さな声で聞いた。それでも、礼拝堂の広い空間が、声をこだまして外に聞こえてしまいそうな気がした。
「……俺は反乱軍に所属しているし、今日は村の皆を仲間に誘うためにここに来た」
「ど、どうして? だって」
ジェイドの言葉に、アイルは目の前がくらりとする。
神王家に仕える神官は、この国の秩序そのものであり、仕組みを支える存在である。その中でも最高位の上級神官であるジェイドから、神に反する言葉が出てくるとはまだアイルが信じられない。
「……反乱軍は悪い奴らでしょ? ジェイドがそんなことをするなんて、僕には信じられない……」
「反乱軍は悪い奴らだって? 全く違う。この村は平和だけれど、この村の外、他の村や町はこんな暮らしはできていない。王家の奴らが民にやりたい放題さ」
「やりたい放題? 一体何が起こっているの?」
アイルは努めて小さな声で聞く。
「王家が、圧政を敷き始めたんだ。ここ数年の話だ。王がまるで豹変したように、方針をかえた。王族の中にはその方針に賛同していない者もいるようだが。例えば何にでも高い税金をふっかけていく。民は税金を取られて暮らすのもやっとなのにそれでも足りないと、さらに役人や王国軍が人や物を根こそぎ奪っていく。王都に近くなればなるほど、ひどくなっていって、街には死の香りが漂っているんだ」
「でも、ジェイドは灰妃殿下に仕えていたんでしょ? 灰妃殿下がそんなことをするわけがじゃないか」
「そうだ。灰妃様はそんなことをなさらない。だから、灰妃領は影響が及んでいなかったんだ。だけれど、王の影響力は一介の王妃に敵うものではない。じわじわと灰妃領にも影響が出てきていている。……灰妃様は、民の暮らしを憂いて反乱軍を密かに支援していたんだ。それで、俺も反乱軍に入った訳だ、灰妃様のご下命でな。……本当に民を思ったお優しい方だった。でも、数日前に亡くなった。巧妙に隠されたが、恐らく他の王族の奴らに暗殺されたんだ」
「え!? 灰妃殿下が亡くなった? そんな……聞いていないよ」
神王族が亡くなったとなれば、国中で喪に服す通達が一斉に送られる。果ての村にも、早馬がやってくるものだ。
「信じられないか、まあそうだろうな。王は灰妃様が亡くなったことは民には公表していないからな。けれど、灰妃様は亡くなった、俺は他の神官たちとその御身体を確認し、埋葬もした。灰妃様は亡くなる前に、俺にこの神具を預けられた、反乱軍の旗印にせよと、な。だからこの神具を反乱軍に届けなければならない。反乱軍の数は王国軍に対して圧倒的に足りない、だから仲間もいる。灰妃様が亡くなった今、灰都も、灰妃領も、そしてこの村もいつ他の王家の奴らが蹂躙してくるか分からない。だから来たんだ」
アイルは急に喉がカラカラになった。大きく唾を飲み込むと、アイルは下を向いた。目の前がグルグルと回る。
ジェイドが嘘をつくわけがない。それは、幼い頃から兄と慕ってきたからこそ分かる。でも、そのジェイドが、あんなに信仰心の厚かったジェイドが、反乱軍を肯定するどころか所属しているというのは、すぐには信じられない。灰妃殿下が亡くなったことも、信仰してきた神王家が圧政を敷いているというのも、何もかも信じたくなかった。
テルハが激高した理由を、アイルも理解した。しかし、何もジェイドに何も言えず、攻める言葉も出てこず、口を開いて、そのままきゅっと唇を結んだ。
「アイル、大丈夫か? すまない、一気に喋りすぎたな」
「ああ、うん……」
いつの間にかうなだれていたアイルの頭の上から、ジェイドの言葉が降ってきた。
「悪いな、こんな話をして。なんとなく、お前には話しておかないといけないと思ってな。……俺を憲兵にでも突き出すか?」
「しないよ! そんなこと!」
「ははは、そうだな。ありがとう」
ジェイドは笑ってアイルの頭をくしゃくしゃっと撫でた。ジェイドはぎゅっと神具の入っているであろう布に包まれた棒を、ギュッと大事そうに握った。
アイルに向き直ってジェイドは改めて座り直し、頭を下げてきた。突然の行動に、アイルは慌てた。
「アイル、お前の夢を壊すようで悪いが、もう王族は腐ってしまって、信仰も何もないんだ。だから……神官になるのは諦めろ。その代わり、この村が王族の奴らに蹂躙されそうになったら、どうか守ってくれ」
兄に頭を下げられて、アイルは慌てて顔を上げさせようと肩をつかんだ。
「ジェイド、あの……僕は、突然そんな話をされて、神官になっちゃ駄目だって言われて。どうしていいか分からないよ。だって、今日じいちゃんに神官学校に行ってもいいって言われたばっかりなんだ……」
「……すまない」
ジェイドの頭は深く下がったままだった。
「でもね、でもねジェイド。僕は、ジェイドを信じていないわけじゃない。ジェイドが悪いことをすることはないって、ずっと前から知っているから。だから……少し考える時間が欲しい」
「分かった。すまなかった」
そう言って、ようやくジェイドが顔を上げた。顔を歪めたままのジェイドの表情に、アイルは痛々しさを感じた。
ジェイドのことは信じている。けれど、今まで信じてきたのものを信じるなと言われるもの、夢をあきらめろと言われるのも、今すぐにはアイルには整理することが出来なかった。
後から寝具と一緒に夕食を持ってくると伝えると、アイルは礼拝堂を後にした。礼拝堂を出たところで。丁度ナラが外に立っていた。
「どうしたの、ナラ。じいちゃんは?」
「おじいちゃんは今寝たところよ。ねえ、お兄ちゃんと何の話をしたの?」
「え、ああ……たいした話はしなかったよ」
「そう……」
ナラはアイルの答えに、顔を曇らせた。「おじいちゃんも、そう言っていたわ……」と、ナラが言ったが、アイルには聞こえなかった。
「ナラ?」
「アイル、私ね。外れのおばあちゃまに薬草を持って行くように言われているの。ちょっと遅くなるね」
「あ、うん……わかったよ」
ナラは顔も上げず、手提げ籠を持って湖の縁の道へ向かっていった。
※
アイルが夕食用の野菜を切っていると、背後からテルハが声をかけてきた。
「アイルや、ナラはまだ帰っていないのか?」
「え、じいちゃん! 起き上がって大丈夫なの?」
「たいしたことはない。それより、ナラは? 姿が見えないが……」
窓の外を見ると、かなり薄暗い。崖によって日が落ちるのが早い村だが、いつもならナラとアイルが一緒に夕食の準備をしている時間だ。
「外れのばあさまのところに薬草を届けに行ったきりかな……。ばあさまお喋りに掴まったのだと思うよ。ばあさま、お喋り長いからね……」
「まったく、しょうがない奴だ」
テルハがため息をついて、ゆっくりと歩いて行くと、食卓の席に座った。スープと野菜と、簡素な食事を食卓に運ぶんでいく。
「じいちゃん、先に夕食を食べてて。僕はスープが冷めないうちにジェイドに夕食を届けてくるよ。あとナラの迎えも行ってくる」
籠にスープとパンを入れていると、テルハも一緒に籠に入れてくれている。その行動に、テルハもジェイドを完全に拒否した訳じゃないのだなと、アイルは安心した。
「なあ、アイルや」
「何? じいちゃん」
「ジェイドに話を聞いたのか?」
アイルの心臓が、ドキリと跳ね上がった。アイルが硬直した顔をしたのを見たテルハが、大きなため息をついた。
「聞いたようだな……お前はどう思った?」
「……僕は、ジェイドは嘘をつかないと思う。だけれど、まだ混乱しているよ」
「そうか……」
テルハは何度か頷くと、目尻を下げて微笑んだ。
「ジェイドに、夕食を届けてやってくれ。ああ、夜なのだから、ちゃんとマントと剣を持って行きなさい。近くだといっても夜は常に油断するな」
「はい、じいちゃん。行って来ます」
ジェイドに持って行くため、家に置いていった荷物を背負い込むと、ずっしりと重たい。こんな重い荷物を持って、ジェイドは村まで帰ってきたんだな、とアイルは思った。
簡易的な寝具と一緒に抱えているので、夕食のスープをこぼさないよう。アイルはゆっくり歩いた。夜目が利いてきた頃、ようやく礼拝堂に着いた。目の端にふと、鮮やかな色が写ったので、さっとアイルは森の奥の方に目をこらした。森のそばに家はないので、どこかの家の明かりとは考えにくい。結界の鮮やかな炎とも違う、誰かが暗闇に明かりを灯していたのかと思ったが、見えたはずの物はなかった。
気のせい、だろうか? アイルはそう思ったが、足の方からぞわぞわとした何かが這い上がってくるような、不気味さを感じた。森や、狩りに行った先で感じるならまだしも生まれ育った村で妙な気配を感じるのは、初めてだった。早くジェイドに夕食を届けて、ナラを迎えに行かなくては。そう思い、礼拝堂の扉に手をかけた。
ガシャン、と扉は大きな音を立てた。
「え?」
よく見ると、扉には閂がされていた。いつもは夕方に礼拝堂の閂をするけれど、今夜はジェイドが中にいるので、閂はしていないはずだった。
では誰が……? 誰かが、ジェイドがいるのにもかかわらず、鍵をした? ジェイドが出れないようにした? アイルの背中に冷や汗が流れる。中のジェイドは無事なのか、アイルは慌てて閂を外して扉を開いた。
「ジェイド! いる?」
「アイルか? どうしたそんなに慌てて。ああ夕食か、ありがとう」
ジェイドは、敷物をひいてろうそくに小さな明かりを灯し、床に座って本を読んでいた。朧気な明かりの中で、笑顔でアイルの方を見ると、軽く手を上げた。アイルは小走りでジェイドのところに行くと、アイルの顔色を見て、ジェイドが眉を寄せた。
「どうした? 何かあったのか?」
「ううん、ジェイドが何もないならいいんだ。礼拝堂の閂が閉まっていて、ジェイドに何かあったんじゃないかって思っちゃって……何もないならよかった」
ジェイドは何もなさそうで、アイルはほっとした。テルハに殴られた頬以外は、特に怪我もなさそうだ。テルハに殴られた頬も、自分で後から手当てしたらしく、頬に大きな布が当てられていた。ジェイドは、怪訝そうに首を傾げている。
「はい、これ夕食。それとジェイドの荷物も全部持ってきたよ」
「ありがとう、助かるよ」
寝具も敷物の上に置く。
「なあ、アイル。礼拝堂の閂は、ナラがかけていったんだが……」
「え? ナラが?」
「ああ、お前が出て行った後、扉の方で音がするから声をかけたら、ナラが『危ないから鍵をしておく』って……」
「危ないからって、なんでそんなこと」
「さっきの話、お前かじいさまからはナラにしていないのか?」
アイルが首を横に振る。ジェイドは開け放たれた扉の外を見つめ、すっと目を細めた。夜の冷たい空気が、扉から忍び寄ってくる。ジェイドは小さく「そうか……」と呟いた。
ジェイドは籠からスープとパンを取り出すと、スープを一気に飲み干した。籠の底にへばりついた紙にジェイドは気がついて、拾い上げた。紙に書いてある一文を見てすぐに、懐の中にしまい込んだ。
「すぐに村を立つ」
「え、今? じゃあじいちゃんとナラに挨拶だけでも……あ、でもナラは外れのばあさんの家に行っていて……」
アイルの言葉も聞かず、ジェイドは旅装束を身につけている。マントを羽織って、靴の紐を締め上げる。腰のベルトに、しっかりと長剣を差し、カチャカチャと外れないか確認をしている。準備の早さ、確認作業の早さに、アイルはジェイドの動きを止める隙がない。ジェイドは重い荷物を背負い込むと、灯されていたろうそくに息を吹きかけ、明かりを消してしまった。
礼拝堂内が暖色の色から、寒色の色に一瞬で切り替わる。高い天井にある窓から、月の細い光が幾筋にも降ってきている。
「ジェイド?」
声を低く落とし、アイルがジェイドを見上げた。
「アイル、これを食べておきなさい」
そう言うと、ジェイドはアイルの口にパンを押しつけた。落ちそうになるパンを、アイルは慌てて手で押さえた。家には夕飯があるのに、何故パンを押しつけられたのか、よく分からないまま、アイルはジェイドの言葉に従った。再びアイルがジェイドを見上げると、鋭い目つきで、扉の外を見つめている。見たことのないジェイドの目つきに、アイルは背中から毛が泡立つ。
扉の外にかすかな足音と、誰かの気配を感じ、アイルも扉を振り返って見る。
「ジェイド、アイル」
微かな声は、テルハのものだった。
「じいさま……」
小走りでアイルとジェイドは扉の方に行った。明かりも持たずに、テルハが礼拝堂まで歩いてきたようだ。
「ジェイド、妙な気配が村を取り囲んでいる。村の結界もかなり揺れた。どうやら大人数できている。なんとか誤魔化すから、少し隠れてから出て行きなさい」
テルハがそう言うと、ジェイドは小さく頷いた。
「じいさま、ありがとう……不幸者で、本当に申し訳ございません」
ジェイドが、絞り出すような小さな声で言った。テルハが、目尻の皺を深くして頷いた。
「さっきは悪かったな、ジェイド。お前は自慢の孫だ。もう一人の自慢の孫も、どうか頼んだぞ」
テルハは手を伸ばし、手当てされたジェイドの頬にそっと触れた。触れても痛くないだろうくらいの、優しい触れ方だったが、ジェイドは苦しそうに顔を歪めた。
「ありがとうございます、じいさま。アイルこちらに行くぞ、身を低くしなさい」
「じいちゃん? ジェイド?」
テルハとジェイドの会話の意味も分からず、アイルは二人を交互にきょろきょろと見る。テルハが、そっとアイルの背中に手を回してきた。
「アイル、お前はわしの三人の自慢の孫の一人だ。本当によく努め、よい子に育った。これからはジェイドについて行きなさい」
テルハが「自慢の孫たち、さあ行きなさい」と言う。アイルはまだ状況が分からない。けれど、ジェイドが手を引き、身を低くしたので、そのまま連れられ身を低くし、ジェイドについて行った。アイルが振り返るが、テルハはアイルの方へは振り返らず、村の広場の方に歩いて行った。
「ジェイド、どういうこと!? ジェイド!」
ひそひそとジェイドを呼ぶが、ジェイドは答えない。ずっと手を引かれてずんずんと歩いて行く。
ジェイドと一緒に、アイルは身を低くしたまま、家々の裏を通りながら歩く。村の入り口の反対側の森にある、村で共同の管理をしている小屋の裏に身を潜めた。少し高台になっていて、更に上の方へ続く急斜面の道がある。急斜面を上がれば、崖上にまで上がることができる場所だ。村人しか知らない、崖上へ行くための近道だった。
身を低くしたまま、ジェイドは息を殺して村の方を見ている。アイルもつられて、吐息が漏れないように身をかがめていた。
村には夜霧が立ち込め始めている。しかし広場には、炎を持った村人たちが集まってきていた。うっすらとかかる霧に表情はまでは伺えない。
村人たちの他に、見慣れない姿の者たちが、ぞろぞろと広場に来ているのが見えた。白銀鎧、武器を携えた者たちだ。その先頭に、ナラが歩いていた。
「ナラ? ジェイド、ナラが!」
「わかっているさ。さて、どうしたものかな……」
「ジェイド、あれは何かわかるの?」
「ああ、あれは……憲兵隊だ」
「憲兵隊? あれが? 憲兵隊がなんでこの村に」
「誰かが呼んだんだろう」
ジェイドは眉間の皺を深くして、広場の様子を見ている。アイルも、広場の方を見た。
憲兵隊は、神王家の番人的な存在だ。神王家に逆らう者を捕らえるのを主な役割にしている。その他にも、悪事を働いたものを捉えに行く役割も担っている。
テルハが村人の前に出て、憲兵隊と何か話をしている。ナラが憲兵隊の側から前に出て、テルハと村人たちに向かって何かを話している。村人たちのざわめきが、木霊し呼応するように大きくなっていく。
アイルは、ざわざわとする胸を押さえつけるように、ペンダントを握った。
やがて、憲兵隊側から怒号がする。何を言っているのかそれは分からないが、汚い言葉のように聞こえる。おおよそ神王家に仕える憲兵隊が使う言葉ではない、この村では響くことがない言葉だ。
そうしていると、村の一画から爆音とともに爆煙が上がった。その場所は、礼拝堂のある方向だった。
「礼拝堂が!」
アイルが立ち上がろうとするのを、ジェイドが腕を引っ張って止めた。
「駄目だ、絶対に立つな。身を低くしなさい」
ジェイドの鋭い声がする。
「でも、でも……」
真っ赤な炎は大きく、夜空を焦がすような勢いだ。真っ黒な煙と、焦げ臭い匂いが辺りを覆っていく。
村人側からも怒号のような声が上がり始める。憲兵隊と村人たちの間に立っていたナラが、憲兵隊に向かって叫び声のような声を上げている。
憲兵隊が、剣を抜いた。炎に照らされて、切っ先が鋭く尖っているのが映し出されている。その剣は、真っ直ぐにナラに振り下ろされた。甲高い声が響き渡る。
「ナラ!」
大声を上げ、アイルは立ち上がった。しかし、ジェイドが再び腕を引いて、アイルは地面に引き戻された。勢いがよく、地面に叩きつけられるような感覚がする。
「アイル、これを持ってここにいなさい。決して手放さないようにもっているように。絶対にここを離れてはならない」
いつの間にか旅装束を脱ぎ捨てたジェイドが、布に包まれた棒をアイルに渡してきた。ずっしりと重たく、かちりとわずかに金属のこすれた音がする。
ジェイドは立ち上がると、錫杖と腰から抜いた剣を構えて、急斜面を走って降りていった。
村人たちが逃げ惑うのを、憲兵隊が追いかけている。男も女も、子どもも関係なく剣が振り下ろされていく。炎が燃え広がっていき、家々を飲み込んでいく。焼け焦げる嫌な匂いが漂い、叫び声が響き、普段は霧に包まれる村を真っ黒な煙が村を覆っていく。
——どうして……。
憲兵隊が、倒れているナラを抱きしめて座り込んだテルハに、剣を振り下ろしている。そこに、ジェイドが間に入り、錫杖と剣で受け止め弾いた。甲高い笛の音ともに、憲兵隊が広場に集まってきて、ジェイドを取り囲む。憲兵隊が一斉にジェイドに襲いかかってくる。
村人がテルハとナラを抱えて、広場から出ようとしてくれている。しかし、いつの間にか憲兵隊が広場全体を取り囲んでおり、弓矢を構えている。
村人たちが、声を上げている。ひときわ大きく、響くのは隣のおばさんの声だった。おばさんの喉元に憲兵隊の放った矢が当たって、その場に倒れ込んだ。武器を持った村人が、憲兵隊に向かっていく。その中には、アイルが日頃剣術を教えている子どもたちもいた。
ジェイドの錫杖から白く光る魔法が放たれ、剣がぶつかり合っている。振り返りながら、村人たちに何かを叫ぶジェイド。憲兵隊が何人もジェイドに襲いかかり、ジェイドは倒れていく村人に近づくことができない。
——どうして。
ペンダントを握りしめたアイルの手は、真っ白になっている。
神王族は、民を守っている。その恩恵があったから、民は神王族を尊敬し信仰してきた。しかし目の前には、神王族の名の下に悪に鉄槌を下すはずの憲兵隊が、村人に襲いかかっている。
村人が何をしたというのか。何も悪いことはしていない、ただ日々を穏やかに生きていただけだ。真面目に働き、神々の末裔である神王家を信仰してきた。礼拝堂は、かつて村人たちが貧しい中でもお金を出し合って作り上げたものだ。それだけの信仰心が、この村の者たちには根付いている。誰よりも、神々とその末裔たちを信じてきた。その村人が、何故神王族の番人たる憲兵隊に鉄槌に襲われているのか。何故信仰の象徴たる礼拝堂は燃やされているのか。
——どうして、どうして。
炎は燃え広がり、家々を飲み込んでいく。広場から逃げようとした村人が、降ってきた矢に当たって倒れていく。
正しくあった者が、何故裁かれているのか、何故蹂躙されているのか。
——どうして、どうしてどうして!
唇をかみしめても、目の前の理不尽な光景が全く理解できない。
——どうして! どうして!!
アイルの頭の中に、何回も何回も読み上げた、アズトラ教の経典の一節が浮かんだ。それは、テルハとナラ、ジェイドとも一緒に幼いころから読み、身に染みついたものだった。自然と出てくる経典の言葉を、アイルは口から出した。一言一句間違えず、吐き出した。
「……正しくあれ、正しくあれ。正しく正義を貫き、正しく悪を裁け」
アイルの手にあった布に包まれた物。触ったことのある感触——剣と鞘だ。剣が、カタカタと音を鳴らす。布の中から、カチリと音がした。固く結んであった紐がほどけ、布がとれて地面時落ちた。鞘に入った一本の長い直刃の剣。
アイルは、柄をぐっと握りしめる。
「正しくあれ、正しくあれ。邪悪は裁かれ鉄槌を下される。正しくあれ、正しくあれ。その身の正義が誠の正義であれば、裁きは訪れぬ。正しくあれ、正しくあれ、その身の正義が邪悪なれば、その身に裁きを」
アイルは、ペンダントを握りながら、呟く。鞘からするすると刀身が出て、姿を見せる。透明な刀身は、柄を握るとじわじわと波紋を浮き上がらせる。長い両刃の美しい剣であった。
神具は、目覚めた。
アイルは、弾かれたように走り出した。
アイルは神具の剣を構え、広場を取り囲む憲兵隊の背後から剣を振り下ろす。弓を構え、広場を取り憲兵隊が見えない刃に飛ばされ、動かなくなった。突然現れたアイルに、他の兵は新手だと、アイルに弓をつがえて構えた。
大きく息を吸って、吐く。相手の動きをしっかり見る。アイルは村で学んだ剣術を思い出す。「大丈夫、鍛錬していたことは身に着く、嘘はつかない」と、それ剣術を教えてくれた村のおじさんの言葉が思い浮かんだ。
「正しくあれ、正しくあれ……」
アイルはそう唱えながら、剣を振るうと、刀身が、淡く輝くのが見えた。剣から何か、気のようなものが飛び、憲兵隊に当たると頑強な鎧を付きとおして体に何かが当たっているようだ。その様子を見た憲兵隊は、後ずさりして燃え上がった家々の方へ身を隠していった。
広場を囲む炎へ、アイルが飛び込んでいく。急に炎の中からアイルが現れ、ジェイドの前に立つと、ジェイドは目を見開いた。
アイルが神具の剣を振り下ろすと、ジェイドを取り囲んでいた憲兵隊が吹っ飛んだ。吹っ飛ばされた憲兵隊が、ピクリとも動かない。アイルが、剣を真っ直ぐ前に構える。憲兵隊は、突然現れたアイルに警戒を移した。距離を詰めようと憲兵隊がじりりと足を動かすと、アイルは剣を横に薙ぐ。見えない刃が、憲兵隊をまた吹き飛ばしていく。
「アイル……」
「ジェイド、僕がこいつらを引きつけるから! 早く皆を!」
アイルは、再び剣を構えた。広場の上から弓を構える憲兵隊に向かって、剣を薙ぐと、また憲兵隊の持っていた弓が次々と真っ二つに折れた。
ジェイドが村人の方へ振り向こうとした時、目の前に大男の影がゆらゆらと近づいてきているのが見えた。鎧を身に纏った大柄な男が、大斧を持って歩み出てくる。その男の姿に、ジェイドが向き直って大男の前に立った。
「これはこれは、ジェイド神官長殿。ご機嫌麗しゅう。まさか、のこのこと生まれ故郷に来ていらっしゃるとはなぁ」
「おやおやまあまあ、リシュー分隊長ではないか。こんなど田舎まで何用か」
ジェイドにリシュー分隊長と言われた大男は、ジェイドを鼻で笑うと、ニタニタとした笑顔をしてジェイドを見る。
「いや何、灰妃殿下殺害及び、灰妃殿下の所有していた神具の窃盗の容疑者がこの村に逃げ込んだと情報がありましてなぁ」
「そうか。残念だったな、リシュー分隊長。ガセネタをつかまされたようだ」
「ほざくな、ジェイド!」
リシューが大斧を振り下ろし、ジェイドとアイルは跳ねるように避けて離れた。大斧が下ろされた地面はえぐれてしまい、当たればひとたまりもないことが分かる。
リシューの後ろから弓兵が、ジェイドとアイルを狙っており、矢が飛んでくるのをジェイとは錫杖で、アイルは腰から剣を取り出して弾いた。
「お前は日頃から気に食わないと思っていたんだよ。そのお綺麗なお顔を、いつか踏み潰してやりたいとな! 反逆者ジェイド、ここで死ぬがいい!」
リシューが吠え、大斧を振り回す。大斧の間合いに入らないよう距離を取りながら、ジェイドは錫杖を構える。
「穿て大地! 鳴り響け雷鳴!」
途端にリシューの地面から土が盛り上がり、空から雷が何本もリシューを取り囲むように落ちた。リシューは巨体からは考えられない動きで雷を軽く躱すと、ジェイドに向かって再び斧を振り下ろした。しかしそこに、背後に回ったアイルが放つ一振りが、鎧を通してリシューの背中、そして腹に当たった。
「あ、な……なんだ……まさか、神具が王族以外で……ありえない」
思ってもみない攻撃に、リシューが口から吹き出しながら膝をついた。そこにジェイドが走り込み、リシューの首に剣を振り下ろした。
司令塔を失った憲兵隊は、その光景を見て慌てて武器を置いて逃げていく。その姿を見送り、憲兵隊がいなくなったのを確認して、アイルとジェイドは倒れている村人の下に向かった。
※
「ナラ、じいちゃん! みんな!」
炎はまだ村を焼こうと燃え続けている。広場に、何人もの村人が倒れ、誰も動かない。
テルハは、ナラに覆い被さるように倒れていた。テルハの体を起こすと、手にでろりとした血がついた。血の気のない顔、閉じてしまってる瞳、服じわりと広がっていく赤色が、ジェイドのアイルの目に入った。
「じいちゃん……!」
唇をかみしめ、アイルがテルハの体を横たえさせた。テルハの下にいたナラが、かすかにうめいた目。
「ナラ! 待っていなさい。今、回復魔法を……」
ジェイドがナラの手を握った。ジェイドの手からまばゆい光があふれるが、すぐに消える。ジェイドが目を見開いた。再度、ジェイドの手が光るが、ふっと光は消えてしまう。
「ナラ、ナラ、ナラ……治れ、ナラを治せ……」
「姉ちゃん、ねえちゃん……」
何度もジェイドの回復魔法が消えてしまう。アイルが、ナラの反対の手を祈るように握った。
「お兄ちゃん……ごめんね。お兄ちゃんの話をこっそり聞いて、憲兵隊を呼んだのは私なの。村をこんな風にして……私、こんなことになるなんて……」
「喋らなくていい、回復を考えなさい、ナラ」
「駄目だよ、他の村の人に使って。お願い。私のせいで、こんなことになったんだから……」
ナラの声が、弱々しく続く。
「お兄ちゃん、私の自慢のお兄ちゃん、ごめんね。アイル……アイル、私の自慢の弟アイル……。大好きだよ、ごめんね、私のせいで、ごめんね」
「ナラのせいじゃないよ。ナラのせいじゃない……」
ナラの目から一筋の涙が流れ、ゆっくりと瞳の光が消えていった。
「くっ……う……」
ジェイドは俯き、言葉を飲み込んだ。そして顔を上げると、静かにナラの体をテルハの隣に横たえる。テルハとナラの顔が、煌々と炎に照らされている。
「アイル、まだ生き残りがいるかもしれない。村中を探す。アイル、立ちなさいアイル」
ジェイドに腕を持ち上げられ、アイルはフラつきながら立った。
ジェイドとアイルは一緒に、倒れている村人を見つけ、呼吸を確認する。誰か、誰か生存者はいないかと、そう思いながら。顔を近づけ、息があるかを聞こうとし、何回首を横に振ったか分からない。
ジェイドが家々の消火をするため、魔法で湖の水を持ち上げると、家々に水をかけていく。油がまかれたのか、炎はなかなか消えない。その間にも、アイルは村人の確認をしていく。誰も彼も、その瞳を開けることはなかった。
空が白み始めた頃、村の建物のほとんどを燃やし続けていた炎は消え去った。そうして、村人たちの体を、一人一人広場に運んだ。
どの村人も、皆青白い顔をし、動くことはない。全員、見知った顔だった。全員、昨日アイルに贈り物をし、全員ジェイドが村に帰ってきたことを喜んだ者だ。
「ジェイド、皆を埋葬してあげたい……」
「そんな時間はない」
「どうして……」
「逃げていった兵が、すぐに報告に上に報告するだろう。そうしたら、またすぐにここに兵士がやってくる。準備をしてすぐに立つべきだ」
ジェイドの言葉に、アイルは絶句する。
ただ巻き込まれただけ、それで埋葬もされないなんて……何も、悪い事をしていない、ただ日々を真面目に生きていた、それだけなのに。あまりにも理不尽だ。
「一気に聖火で火葬する。そうすれば、獣にも、後から来る兵士にも手出しできない」
ジェイドはその場に座り、錫杖を構えた。
「清浄の灯し火よ、安らぎの眠りの地への導きを与え給え」
ごおおっと、勢いよく青色の炎が、村人たちの体を包み込む。ジェイドが祈りの言葉を紡いでいると、アイルも横に座り、ペンダントを握って一緒に祈りの言葉を唱えた。
「この炎は、最低でも七日は燃え続けるはずだ」
ジェイドが立ち上がった。しかし、アイルはそのまま立ち上がれずに座り続けて、青白い炎を見つめ続けている。ジェイドは一つ息を吐くと、焼け落ちた家の方へ歩いて行った。
アイルは、祖父テルハに育てられた。年の一緒な姉と、分け隔てなく。村人に助けられ、見守られ、皆に育てられた。
祖父にはアガルタ教の基礎と、経典をたたき込まれた。兄には剣術を習った。兄が出て行った後は、村の男衆が剣術を教えてくれた。女衆は料理を作ってくれて、作り方も学んだ。畑は村の皆が手伝ってくれて、まともに作物を育てることができるようになった。
この村全員に、育ててもらった。愛してもらえた。憧れていた夢を応援してくれた。
隣のおばさんの作ったパンは、ふっくらと味が詰まっていてとても美味しかった。もらったお菓子を少し食べたが、果物が入っていてとても甘かった。野菜は昨夜のスープに入れていた、味わえなくてとても残念だった。
アイルの目の前の景色が歪み、口からは絶えず嗚咽が出てくる。袖で何度も拭っても、涙は止まらず出てくる。
何も、何も返せなかった。愛し育ててくれた恩を。何も、何も返せなかった。何もできなかった。村人の笑顔と、怒られたこと、褒められたことが思い出される。
せめて、彼の地では安らかにいて欲しい。青白い炎は、空に向かって高く高く燃え続けた。
アイルがペンダントを握って、顔を上げた。朝日が差し込み、湖を照らし始めた。アイルは立ち上がって、踵を返すと歩き出した。
高台の小屋の横に行くと、ジェイドが旅装束を準備している。ジェイドの物と、もう一つ小さめであるが旅装束が用意されている。
「来たか。必要な物は残っている物を拝借させてもらって、準備した。あり合わせがだ、ないよりはましだろう」
「ごめん、ジェイド。全部させちゃって」
「いや、いい。背負えそうか?」
「うん、平気。ありがとう」
ジェイドの言葉に、アイルは頷いて答えた。
昨夜抜いた鞘は、置いたままだったので、剣を鞘に収めた。布に包んでジェイドに渡そうとすると、ジェイドが首を横に振った。
「その神具は、俺は使えない。だからお前が持っていなさい」
「使えない?」
「道中話をするさ。いろいろ、とな」
ジェイドは旅装束を背負い込んだアイルに、紐の緩みや背中に当たって不快な部分はないか聞いた。丁度よいとアイルが答える。
「行こうか」
ジェイドとアイルは、小屋横の急斜面を上って、崖上の獣道を歩いていった。




