結(ゆい)の縄 ―古代農村歳時記―
律令制下の古代日本。過酷な税と労働に抗いながら、一歩も引かずに土を耕し続ける一人の女性「かか」とその家族。文字を持たぬ民たちが「縄の結び目」に刻んだ、再生と絆の物語。
卯月。春の陽は、冬の陽と違う。
棚の椀を指で数えると、いつも一つ足りないところで止まる。去年の冬からだ。
土は許さない。春の光が産着みたいにやわらかくても、足りないものは足りないまま、手に返ってくる。
光がまっすぐで、土の匂いが、寝床から起き上がるみたいにふわりと立つ。
かかは棚の上へ伸ばした指を引っ込め、腰の布袋の結び目を親指で押した。ほどく日が来ると知っているみたいに、固い。
棚の上の端布の籠には、蓋がしてある。底に、小さすぎる袖がある。
触れれば言葉が出る。だから触れない。
触れないまま、今年の冬は、同じものを増やさない。
かかは川べりの苗代にしゃがみ、指を泥へ沈めた。ぬるり、と指の隙間から泥が逃げる。底に残っていた冬の冷えに、ほんのわずか、寝起きの熱が混じっている。水はまだ冷たい。それでも今日は、刺す冷たさじゃない。
これなら苗は機嫌よく伸びる。
「かあ、蛙、鳴いてる」
背中から、さゑの声。七つの娘は、世界の小さい音を拾ってくる。草の穂を一本くわえて、得意そうに笑っていた。
「鳴いてるってことは、水がいいってことだよ」
「ほんと?」
「ほんと。……たぶんね」
「たぶん、かあ、ずるい」
さゑが頬をふくらませる。かかは笑って、苗代の縁をとん、と叩いた。湿った音が手のひらに残る。
今年も、田植えの季節が来る。
冬の間、火と粥と繕いで生き延びて、ようやく春。
春の光は産着みたいにやわらかい。目を細めれば、世界が少し許してくれた気になる。
でも土は許さない。半日遅れれば、苗は機嫌を落とす。ひと息間違えれば、秋が痩せる。
「次郎、足洗ってから入れって言ったろ」
田のほうから、太郎の声が飛んだ。低くて短い。言葉が少ない分、石みたいにまっすぐ落ちてくる。
十の次郎は、泥だらけの足を見て固まる。背伸びしたいのに、父の前だと、子どもへ戻ってしまう顔をする。
「……ごめん」
次郎がそう言うと、太郎はそれ以上責めない。責めるより、手が先に動く人だ。
太郎の節くれ立った指が、湿った縄を引き絞る。ぎり、と縄が鳴り、杭が泥の奥を噛んだ。用水は一度気が荒れると、田の端から容赦なく崩していく。
「太郎、そこ、きつく結びすぎると縄が切れるよ」
「切れたら、替える」
それだけ。
背中で「うぇ」と小さな声がした。
三郎だ。三つ。春の陽にあぶられて、目だけ半分あいている。かかは背負い紐を直し、三郎の足を軽く揺らした。泥の匂いに混じって、子どものぬくい息がかかの襟へ落ちる。
「おーい、早乙女衆は集まったかい」
畦道から、しゃがれた声。乙だ。
乙の後ろに女衆が数人、手ぬぐいを頭に巻き、裾をたくし上げて立っている。濡れた布の匂い。笑い声は少ない。代わりに足首の強さが揃っている。
「そろそろです。苗も、今朝の分は分けました」
「分けました、じゃない。分け切った、だろ。春は待ってくれない」
きつい言い方だ。でも、ここでは正しさが先に来る。
「かあ、歌、うたう?」
さゑが言った。田植え歌。歌に手を合わせれば、泥の中で足が取られにくい。疲れも、ひと匙だけ散る。
「うたうよ。今日は声、出せそう?」
「出せる!」
次郎も負けじと口を開く。
「ぼくも!」
「次郎は、苗運び。歌は、息が上がってからでいい」
次郎は悔しそうにうなずいた。働きたい。でも、働き方には順番がある。
畦の向こうで、鍬の柄を叩く音。源作が黙って予備の柄を示す。言葉はない。それで足りる。
「……かか」
里長の真名が、畦道の上に立っていた。春の光の中で、その顔だけ、胃の痛そうな色をしている。
「今年は役人が来る回数が増えるかもしれん。普請の話も出ている」
その言葉だけ、冷たい。札一枚で家の手が奪われる季節が、近い。
かかはうなずくしかない。断れば目立つ。目立てば、次に痛い目を見る。
真名は声を落とした。
「周が、また貸しの話をして回ってる。苗が足りない家に、甘いことを言ってな」
鳥の声に混じって、周の声が畦の角へ落ちる。甘い言い方をして、手元の不安を撫でる声だ。
「……うちも、足りてるとは言いません。でも、村で回せるなら、そっちを先にします」
真名は短く息を吐いた。安心したい顔をして、まだできない顔だった。
そのとき、太郎が立ち上がった。泥のついた手を膝で拭って、一言。
「水、通った」
その一言で、女衆の足がいっせいに揃う。
「じゃ、早乙女衆。入るよ」
かかが声を張る。
さゑが歌の出だしを吸い込み、女衆が息を合わせる。次郎は苗束を抱え直し、用水で足の泥を落とした。冷たさに肩がきゅ、と上がる。それでも畦へ戻り、黙って列に入る。
田に入ると、泥が足首を掴む。ずぶ、と沈み、抜くたびに重い。春の温かさは泥の底まで届かない。だから人の手で、春を呼び込む。
「いち、に、いち、に」
歌に合わせて苗が植わる。一本一本は細いのに、並ぶと田が呼吸を始める。
かかはふと空を見上げ、まぶしさに目を細めた。泥は重い。冷たい。けれど今日は、その重みが確かな手みたいに思えた。
冬は越えた。まだ、手が動く。
背の三郎が、小さく寝息を立てた。かかはその音を聞きながら、次の苗へ指を伸ばす。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
皐月。苗を植える指は、だんだん感覚がなくなる。
冷たさに慣れるというより、冷たさを当たり前にしてしまう。かかは泥の中で腰を伸ばし、肩を回した。背中の三郎は、まだ軽い。軽いのに、その重みがありがたい。
「いち、に、いち、に」
歌は最後のほう、息をつなぐ縄みたいになっていた。女衆の声が細くなっても、足は止まらない。止まったら、泥が勝つ。
畦の上で次郎が苗束を抱え直し、歯を食いしばった顔をした。十の子が顔だけ大人になるときの、あの無理な顔。
「次郎、手ぇ離すな。苗、落としたら泣くのは秋だ」
乙が言うと、次郎は「泣かない!」と返して、余計に目が潤んだ。乙は見て見ぬふりをして、かかのほうへだけ小さく頷く。厳しいのに、守り方が上手い人だ。
夕方、田の端まで植え終えると、太郎が泥だらけの手を膝で拭って言った。
「今年も、入ったな」
それだけ。
太郎は、うれしいとか怖いとかを言葉にしない。言葉にする前に、縄を締める。杭を打つ。そういう人だ。
かかは田から上がり、用水で足の泥を洗った。水はまだ冷たく、足首がじんと鳴る。さゑがその横で、小石を拾っては水面へ落としていた。ぽちゃん、と小さい音が春の終わりを叩く。
「かあ、これ、跳ねた」
「跳ねたね。……跳ねるのは元気があるってことだ」
「また、たぶん?」
「たぶんじゃない。跳ねたのは本当だろ」
さゑは笑った。笑い方が軽くて、家の中を明るくする。明るくするのが、この子の癖だ。
家へ戻ると、竈に火を入れ、薄い粥を炊いた。田植えの日に腹を満たすほどの米はない。あるのは雑穀と、干し菜と、塩の残りと、段取り。
太郎は黙って草鞋の紐を結び直していた。ほどけていたのを見つけたら、次の日を待たない。そういう几帳面さが、時々かかを助ける。
粥をすすっていると、戸口で影が揺れた。
里長の真名だった。春の終わりなのに、顔が冬みたいに硬い。
「かか、太郎、いるか」
太郎が顔を上げる。次郎が背筋を伸ばす。さゑは三郎の口元を拭いて、何も言わない。
真名は懐から木の札を出した。薄い板だ。薄いのに、家の中の空気を重くする。
「国衙からだ。雑徭……道の普請に出ろってやつだ。人を出せと」
太郎が札を受け取った。受け取る手が、迷っていない。
「いつだ」
「明後日の朝。川向こうの道と、堤の見回りもだとさ。……人数は、太郎も入ってる」
言い切った真名の声が少し掠れた。板挟みの人の声だ。村を守る顔をして、国衙に殴られた痕を隠す顔。
かかは「そうですか」とだけ言った。言葉を増やすと、溢れるものがある。溢れたら、明後日の朝に間に合わない。
次郎が口を開いた。
「ぼくが行く。父の代わりに」
太郎が、次郎を見た。叱る目ではない。石みたいに、動かない目。
「行かない」
「でも!」
「行かない。おまえは、ここで働け。ここが崩れたら、帰っても家がない」
次郎は唇を噛んだ。悔しい顔。悔しいけど、太郎の言葉はいつもまっすぐで、折れにくい。
真名が咳払いをした。
「……太郎が抜ける間、田の見回り、女衆に回してくれ。用水は荒れる。今は、ちょっとの穴が命取りだ」
乙が横から言った。
「穴が開く前に埋めるんだよ。若いのは開いてから慌てるからね」
真名は苦笑いをして、土間に足を引いた。
「周のところに行くなよ。今、札が回った家を嗅ぎ分けて歩いてる。塩だの米だの、甘い声でな」
言われなくても、胸の底で分かっている。困っている家は、甘い声がよく聞こえる。
よく聞こえるのが一番危ない。耳が、先に折れる。
真名が去ったあと、家の中が静かになった。
三郎が「あ」と言って指をしゃぶった。小さな音が、かかの胸を現実へ戻す。
太郎は札を囲炉裏端に置き、縄を束ね直した。
「明後日までに、草鞋を二足。背負い紐を一本、替える」
「わかった。夜にでも、紐を撚る」
かかが言うと、太郎は頷いた。その頷きにありがとうが混じっているのを、かかは知っている。太郎は言わないだけだ。
翌日、かかは早く起き、女衆に声をかけた。水の番を二人ずつ、畑の草取りを交替で。子守りは、さゑができる範囲を越えないように。越えたら、さゑが黙って倒れる。
源作が黙ってやって来て、太郎の背負子をひっくり返した。底の縄が擦れているのを見つけて、替えを差し込む。言葉は一つもない。手だけが答えだ。
その帰り道、畦の角で周が立っていた。
きれいな手をしている。土を触らない手だ。だから余計に、目だけが鋭い。
「かか殿。札が回ったと聞いた。大変だろう。塩、少しある。米も少し。貸そうか」
貸すという言い方が、優しい顔をする。蛇が冬の枯れ草の色をするみたいに。
かかは周の顔を見て、笑った。笑って、声の温度だけは落とした。
「ありがたい。けれど、貸しは怖い。塩は、村で少しずつ回せます。米は……布ならあります」
周の眉が動いた。
「布?」
「夜に織る。今、札が回った家が多い。布のほうが、あとで返しやすい人もいる。村で回すなら、周殿の塩も村に預ける形がいい。誰がどれだけ受け取るか、里長の前で決める」
周は一瞬、口元を結んだ。密やかな貸しにしたかった顔だ。かかはそこを見逃さない。
「……里長の前で、ね」
「はい。余計な揉め事を増やしたくない」
周は頷いたが、頷き方が軽い。心は別のところにある頷き方だ。敵ではない。けれど、味方のふりが上手い。
明後日の朝。
村の男たちが集まった。太郎の背に背負子。草鞋の紐は締まっている。顔はいつも通りで、いつも通りだからこそ、怖い。
次郎が走って来て、太郎の袖を掴んだ。
「父、早く帰れ」
太郎は次郎の頭を一度だけ撫でた。撫で方が不器用で、痛いくらいの指の硬さ。
「家、頼む」
それだけ。
次郎は頷き、泣かない顔を作って、目を逸らした。
かかは太郎の背中を見送った。見送るのは得意じゃない。得意じゃないのに、何度でもやるしかない。
隊列が見えなくなったころ、三郎がくしゃみをした。かかの背中で、小さく震える。
「寒いか」
三郎は返事をしない。返事がないのが、幼い子の怖さだ。
その日の夕方、三郎の額が熱くなった。
火のそばに寝かせても、汗が出ない。息が浅い。かかの指が勝手に、寝床の端を握る。握った布の感触が、昔の冬の夜を呼び起こしそうになる。
呼び起こしたら駄目だ。今は駄目だ。
「かあ……三郎、あつい」
さゑが小声で言った。さゑの声が震えるときは、本当に怖いときだ。
かかは頷き、息を吸って、外へ出た。
「乙さん!」
声を張ると、すぐに戸が開いた。乙はもう知っている顔で出て来た。村はこういうとき、早い。早いのが技術だ。
「熱か」
「はい」
乙は頷き、草の束を抱えて来た。匂いが強い。苦い匂い。苦いのは効く。
「煎じる。湯を切らすな。汗が出たら、布を替えろ。替える布がなけりゃ、古いのを裂け。今は惜しむな」
乙の言葉はきつい。でも、迷いを切るためにきつい。
源作の女房も来た。隣の家の女も来た。誰も手伝ってやるという顔をしない。当たり前に来た顔で来る。そういう顔が、かかを救う。
かかは竈に火を入れ、湯を沸かし、乙の草を入れた。煮えた苦い汁を、布に含ませて三郎の唇へ当てる。嫌がって顔を背ける。背ける力があるのは、まだ生きる力だ。
夜、かかは一度だけ、端布の籠に手を入れた。
底にある小さな袖に触れそうになって、触れずに引っ込めた。今は、袖より湯気だ。湯気を絶やさない。
さゑが三郎の手を握り、歌とも言えない小さな声で何かを口ずさんでいた。怖いときに声を出す。明るくする子の、踏ん張り方。
次郎は土間で薪を割っていた。音が乱暴だ。乱暴にしないと泣きそうなのだろう。かかは「割りすぎると明日がない」とだけ言った。次郎は「わかってる!」と言って、少しだけ力を緩めた。
夜半、三郎が汗をかいた。
乙が「よし」と言った。たった一言が、家の中の重みを半分にする。
かかは布を替え、三郎の背を拭いた。湯気と汗の匂いが混ざる。生き物の匂いだ。
外では蛙が鳴いた。春先のあの鳴き声より、少し夏の声になっている。
かかは戸口を少し開けて、夜気を入れた。涼しい風が入ると、さゑが肩をすくめた。
「かあ、父、どこ」
「道の向こう。堤の向こう。……ちゃんと、歩いてる」
「ちゃんと?」
「ちゃんと、まっすぐ」
さゑは頷いた。わかった顔をした。わかっていないのに、わかった顔をするのも、この子の技術だ。
かかは囲炉裏の灰をならし、火種を確かめた。煤の匂いが天井に残っている。
でも、火は消えていない。
湯気も、まだ上がる。
かかは寝床の三郎の額に手を当て、熱が少し下がったのを感じた。胸の奥の硬い石が、ほんの少しだけ転がっていく。
明け方、かかはまた田へ向かう。
太郎はいない。札は消えない。塩の壺も底が近い。
それでも苗は、昨日より少し背を伸ばしていた。人の手が動く限り、田は応えてくる。
かかは畦にしゃがみ、用水の音を聞いた。水は通っている。
通っているなら、今日も回る。
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水無月。田はもう、青い。
春のころの柔らかい青じゃない。ぐん、と背を伸ばした青が、川風にざわざわと揺れている。日が高いと、葉の先が光って見えた。
かかは畦にしゃがみ、稲の根元を指でそっと押した。泥はまだ、ひやりとする。でも卯月の冷たさとは違う。ひやりの中に、ぬるい湿り気が混ざっている。
湿り気は、虫を呼ぶ。
「かあ、これ、食べられてる」
次郎が葉を一枚、むしって持ってきた。端が、ぎざぎざに削られている。
「……ほんとだね」
かかは葉を受け取り、裏を見た。小さな粒がついている。卵か、糞か。どっちでも嫌なものだ。
稲は、育つ。育つから、狙われる。人の腹だけじゃない。虫だって腹がある。
畦の向こうで、さゑが三郎の手を引いて歩いている。三郎はまだ小さい足で、畦の草にひっかかりながら、よろよろと進んでいた。転びそうになるたび、さゑが先に笑う。笑うと、三郎も笑う。転ぶ前に笑うのが、この家の子の癖だ。
「さゑ、三郎、畦に落とすなよ」
「落とさないよ。ほら、三郎、ここ、あぶない」
さゑは小さな声で言い、三郎の足をまたがせた。七つのくせに、妙に手際がいい。
かかはその様子を見て、胸の奥が少しだけ軽くなった。軽くなって、すぐ重くなる。
太郎がいない。
皐月の終わりに札が回り、太郎は普請へ取られた。家の手が一本抜けただけで、田も畑も、急に広くなる。広くなるのに、手は増えない。増えないのに、虫だけは増える。
「かか」
畦道の上から、乙の声がした。しゃがれた声は、湿った空気でもよく通る。
乙は手ぬぐいで頭を巻き、片手に藁束を持っている。藁束は細く、束というよりひと握りだった。
「見たか。葉、かじられてる」
「見ました」
「じゃあ、やるぞ。虫送り」
乙が言うと、次郎が目を見開いた。
「虫送り、やるの? まえ、見たことある!」
「見たこと、じゃない。歩くんだよ。口だけじゃ虫は逃げない」
乙が言い切ると、次郎は悔しそうに唇を噛んだ。それでも、足はもう、畦道のほうへ向いている。
虫送り。
虫を追い払うために、村中が松明や鳴り物を持って、田の周りを歩く。声を合わせて、火を揺らし、煙と音で虫を外へ追い出す。
迷信みたいに見える。けれど、あれは迷信だけじゃない。
村が同じ日に同じ方向へ歩くことで、水の口も、畦の崩れも、弱っている家も、いっぺんに目に入る。目に入れば、手が出る。手が出れば、田が助かる。田が助かれば、人が助かる。
理屈は、そんなふうに後からついてくる。
夕方。
日が落ち始めると、村は急に忙しくなる。火を作り、藁を結び、松明の芯を整える。芯にする布が惜しい家は、古い縄をほぐして麻を巻く。油がない家は、松脂を削って付ける。
かかの家には、余分な布はない。
だから、かかは竈の横の籠から、端布を一枚だけ出した。子どもの肌に当てるには硬い麻布。腕に巻けば痛い。けれど、松明の芯なら文句を言わない。
端布を裂こうとして、指が一瞬だけ止まる。
小さな縫い目が、目に入った。
小さな袖の縫い目。糸だけが、妙に新しい。
かかはそれを見ないふりをして、別の端布を掴んだ。見ないふりは、嘘じゃない。今日を回すための手つきだ。
戸口の外がざわつく。
里長の真名が、村の者を集めている声がする。真名の声は張っているのに、どこか弱い。張らないと、村が散るから張る。弱いのは、胃が痛いからだ。
「火は家ごとに一本。鳴り物は足りぬ家に回せ。子どもは列の内側。畦へ落とすなよ」
声の途中で、誰かが笑った。
「落とす前に転ぶのは、うちの次郎だ」
次郎が「ちがう!」と叫び、村の笑いが広がる。笑いは、火と同じだ。小さくても、あるだけで夜が少し明るくなる。
かかは三郎を背負い、さゑの手を引いた。次郎は鳴り物代わりの竹を握っている。竹の節を叩くと、乾いた音が鳴る。
「かあ、ぼく、外側歩く!」
「内側」
「でも、ぼく、強い!」
「強いから、内側。強いのは、列を守るほうだよ」
次郎は一瞬、意味が分からない顔をした。けれど、かかの声が揺れていないのを見て、渋々うなずいた。
列が動く。
松明の火が、ふっと上がる。煙が目にしみる。湿った空気の中で、火は弱くなりがちだ。だから皆、手首で火をあおぐ。火を守るために歩く。歩きながら、火を守る。
「むし、でてけ」
誰かが言う。
続いて別の声が重なる。
「むし、でてけ。こっちの田から、でてけ」
言葉は素朴だ。賢い言葉じゃない。賢くなくていい。声が揃うことが大事だ。
さゑが、息を吸った。
「むし、でてけ、ひのこでてけ」
子どもの声は、軽いのに通る。さゑは歌みたいに言う。すると、周りの女衆が同じ調子で繰り返し始めた。いつの間にか虫送りの言葉が、村の歌になっていく。
次郎が竹を叩く。こん、こん。音が揃うと、足も揃う。足が揃うと、列が崩れない。
畦の外側を歩くのは、男衆が多い。けれど今日は、普請に取られた家がいくつかある。外側に立つはずの影が欠けている。
欠けているところへ、自然と誰かが寄る。
源作が黙って一歩外へ出る。肩幅のぶんだけ列が厚くなる。乙がその隣へ立つ。年寄りでも、外側に立つ背中は強い。
かかは、ほんの一瞬、喉の奥が熱くなった。
ありがたい、という言葉は、腹が満ちているときに言うものだ。腹が空いていると、ありがたいより先に、怖いが来る。
怖い。欠けている。次に欠けるのは誰だ。
背で三郎が、もぞ、と動いた。熱はない。汗が少し。湿気のせいだろう。かかは背負い紐を指で押さえ、三郎の首筋に手を当てた。
温かい。
温かいだけで、胸がほどける。ほどけると、また締まる。
列が社の前を通ると、真名が一度だけ立ち止まった。松明の火を社の前で高く掲げる。誰も手を合わせろとは言わない。でも、皆の足が一拍だけ揃って止まる。止まるだけで、祈りになる。
それから、また歩く。
歩いて、田を一周して、村の端まで行き、川のほうへ火を向ける。
「川へ流せ。虫も病も、ここから出せ」
乙が言うと、誰かが「へい」と返した。返事は短い。短いほうが、腹に力が残る。
火の列がほどけ始めるころ、周が道の端に立っているのが見えた。
周は、松明を持っていない。手も動かしていない。けれど、目だけはよく動く。誰の家が弱っているか、誰の家の火が小さいか、誰の家の子が痩せているか。そういうものを見る目だ。
周と目が合いそうになって、かかは視線をずらした。
借りれば、今は楽になる。今が楽になると、来年が苦しくなる。来年が苦しくなると、その次はない。
列が解け、各家が戸へ戻る。
土間に入ると、火の匂いが服に染みている。煤と松脂と湿った土。嫌な匂いではない。働いた匂いだ。
次郎が竹を置き、汗を拭った。
「ぼく、ちゃんと歩いた」
「歩いたね」
かかが言うと、次郎は胸を張る。胸を張れることは、食べ物と同じくらい大事だ。食べ物が足りないときほど、胸を張るものが必要になる。
さゑが三郎の背を覗き込む。
「三郎、ねてる」
「寝かせておこう」
かかは三郎を寝床へ下ろし、布をかけた。三郎の手が、布の端を掴む。掴む力がある。掴む力があるうちは、明日が来る。
夜。
家が静かになってから、かかは機織りの前に座った。火は小さく。薪は惜しい。けれど、暗すぎると糸が見えない。
糸を指にかけると、指先が少し痛い。糸は、細いくせに、きちんと痛い。
織る。
かたん。かたん。
音は小さい。けれど、夜の家にはよく響く。昼の鍬の音とは違う。夜の音は、家の内側を固める音だ。
この布は、着るためだけじゃない。
塩と替える。針と替える。薬草と替える。借りを返す。誰かの子守りを頼むときの、礼になる。
村で生きるのは、畑だけじゃ足りない。畑と、手と、布と、声が要る。
かたん。かたん。
戸の外で、足音がした。
「かか、起きてるか」
低い声。源作だ。
かかは織りかけの手を止め、戸を少し開けた。源作は暗がりで、目だけが白く見えた。
「真名からだ。太郎のこと」
かかの胸が、きゅ、と縮む。
「……どうしました」
「怪我はない。明後日には戻る。そう言ってた」
かかは息を吐いた。吐いてから、吸った。吸えるのが、ありがたい。
「伝えてくれて、ありがとう」
源作はうなずくだけで、去った。言葉が少ない男は、余計な不安を増やさない。
戸を閉めると、さゑが寝床の中で小さく動いた。
「かあ……とう、ちゃん、かえる?」
「明後日だって」
さゑはそれ以上聞かない。聞かないで、布の端を握って眠る。聞かないことも、必要だ。
かかはまた織り始めた。
かたん。かたん。
虫は追い払った。追い払った、と思うことにする。病も、川へ流した、と思うことにする。
明後日、太郎が戻る。それまでは、今日を回す。今日が回れば、明日も回る。
布は、薄い。けれど、糸は切れていない。
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文月の朝は、涼しい顔をしていて、すぐ裏切る。
井戸のつるべを引き上げたときだけ、指に冷たさが残るのに、畑へ一歩出ればもう、土の匂いが温い。
かかは畦を渡りながら、稲の葉先を指で払った。露が落ちる。
その露さえ、日が上がればすぐ消える。夏は、消えるのが早い。水も、影も、腹の足しになるものも。
「かあ、昼、なに食べる」
次郎が聞いた。声の出し方が、父に似てきた。似てきて、まだ子どもだ。
「粥。干し菜、落とすよ」
それだけ言うと、次郎は口をとがらせた。文句を言う気持ちはある。でも言うと、余計に腹が鳴くのを知っている顔だ。
家へ戻ると、竈に火を入れた。薪は細い枝を選ぶ。太いのは夜に回す。
鍋に水を張り、雑穀をひとつかみ。米はない。米は、うちの鍋より先に、札と測りの前へ行く。
湯がゆっくり揺れてきたころ、三郎が目をこすりながら起きた。
熱は、もうない。あの夜から何日か経っただけで、子の顔はけろっとしている。人は、案外しぶとい。しぶとくないと、ここでは間に合わない。
「さゑ、三郎の口、拭いてやって」
「うん。三郎、あーん」
さゑは七つで、家の明るいところを担当している。勝手に。
三郎が「ん」と口を開けると、さゑは得意げに布でぬぐった。
太郎は、戸口の陰で草鞋の底を見ていた。普請から戻った足は、帰ってきても休ませてもらえない。
言葉はない。縄を締め、ほどけを見つけて、直す。それが太郎の「大丈夫」だ。
粥がとろりとしてきたところで、かかは椀を並べた。
三つ、四つ……手が止まりそうになって、止めない。
「次郎」
「なに」
「椀を減らすな。遠慮は、飢えを呼ぶ」
次郎は唇を噛んだ。分かっている顔。分かっていて、やりたがる顔。
「……三郎、ちいさいから」
「ちいさいから、先に倒れる」
かかが言うと、次郎は黙って椀を引いた。
三郎は何も知らない顔で、粥の湯気に手を伸ばす。湯気は掴めないのに、掴みたがる。子どもは、そういうところだけ正しい。
干し菜を刻んで落とすと、鍋の中に少しだけ色が増えた。
色があると、腹が満ちた気がする。気がするだけでも、今日は助かる。
塩壺の蓋を開ける。
底が近い。近いからこそ、指が勝手に、粒を数えそうになる。
「かあ、塩、ちょびっと?」
さゑが聞く。
「ちょびっと。舌が覚えてればいい」
「舌、かしこいね」
「腹のほうが、もっとかしこいよ」
さゑは「たぶん」と言いかけて、やめた。
その代わり、三郎の頭をなでて笑った。笑うと、家の中の空気が軽くなる。軽くしないと、重さが人を押しつぶす。
昼が過ぎると、乙が来た。
影の短い時間に歩いてくる人は、急ぐ用があるか、急がないと損をする用がある。
「かか。女衆、社に集めな。干す」
「干す?」
「干し菜だよ。去年の残り、もう薄いだろ」
かかは返事の代わりに頷き、手ぬぐいを頭に巻いた。
干す。つまり、今ある葉っぱを、冬の分に変える仕事だ。冬は遠いのに、遠いほど準備がいる。
社の脇には、すでに女衆が集まっていた。源作が黙って竹竿を立て直している。
竿が一本立つだけで、村の冬が一本増える。言葉にしないのが、ここでは普通だ。
乙が地面に葉を広げた。菜、蕗、葛の若い葉。食べられるものと、食べると腹が怒るものを、手が勝手に分けていく。
「さゑ」
「はーい」
「それ、これは干す。こっちは干したら苦い。見分けろ」
さゑは目を細めて葉を嗅いだ。
「こっちは、青いにおい」
「青いのは、だいたい腹の足しになる。だいたい、だ」
「また、だいたい」
乙は鼻で笑った。笑い方が、乾いている。
乾いているのに、あったかい。
大鍋に湯を沸かし、葉をくぐらせる。さっと。煮るのではない。
湯から上げた葉を絞り、束ね、竿へ掛ける。風が通るように間をあける。風が通らないと、腐る。腐ると、冬に泣く。
「干すのは、腹を増やすんじゃない」
乙が言った。
「腹を減らさないためだ」
誰も返事をしない。返事の代わりに手が速くなる。
そのとき、空が暗くなった。夏の雲は、いきなり来る。
「雨!」
誰かが声を上げると、女衆がいっせいに動いた。
干し場の竿を外し、社の軒下へ滑り込ませ、葉の束を重ねないように避ける。子どもは縄を押さえ、男は竿を支える。誰が命じたわけでもないのに、役が決まる。こういう時、村は妙に賢い。
雨は短く降って、短く止んだ。
止んだあと、濡れた土が甘い匂いを出す。甘い匂いは腹をだます。だまされても、今日は助かる。
「かか」
若い女が、束を抱えたまま立ち尽くしていた。干す竿がない家だ。
かかは一瞬だけ迷って、迷う暇がないと知っている。
「うちの竿、空ける。夜になったら取り込め。順番だ」
女は息を吐き、「すみません」を言いそうになって飲み込んだ。
飲み込めるのも技術だ。礼は、冬に返す。言葉じゃなく、手で。
家へ戻る道すがら、次郎とさゑが川へ走っていった。
立ち止まらない。立ち止まったところで、腹は軽くならない。
「かあ! 見て! 取れた!」
次郎が誇らしげに、手のひらを差し出す。小さな魚が、ぴちぴち跳ねた。
さゑは籠を掲げて、「こっちも!」と笑う。濡れた髪が額に張り付いている。
「跳ねるのは元気があるってことだね」
さゑが言う。
「それ、いつものやつだろ」
次郎が言うと、さゑは胸を張った。
「いつものが、いちばんつよい」
かかは笑って、魚を受け取った。
小さい魚は、骨まで使える。骨まで使えるものは、村では偉い。
竈で煮ると、家に匂いが立つ。
干し菜の青い匂いと、川の匂いと、湯気の匂い。贅沢ではない。でも、生きている匂いだ。
夜、干した葉を取り込みながら、かかは端布の籠に手を入れた。
繕いがある。明日もある。明後日もある。
指先に、薄い布の感触が触れた。
小さすぎる袖。縫い代のない袖。
かかは一度だけ、その布の端を撫でて、籠の底へ戻した。
戻すのが、今の作法だ。言わない痛みは、言わないまま、明日の段取りになる。
外で、干し菜が風に揺れていた。
葉が乾く音はしない。でも、乾いていく気配だけは、確かにある。
冬は遠い。遠いけれど、遠いままにしない。
干す。繕う。笑う。
それで、今日も回った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
葉月の風は、涼しくなりたい顔をして、まだ熱を手放さない。
朝の井戸水だけが、正直に冷たい。
かかは桶を抱え、裏手の小さな菜畑を見た。干し菜の束はもう軽い。触れば、ぱさりと音がしそうなほど乾いている。
乾いたものは、冬の味方。
でも、今欲しいのはそれじゃない。
「かあ、稲、ふくらんだ?」
次郎が田のほうを見ながら言った。声が少しだけ大人びて、すぐに子どもに戻る。
「ふくらんだ。……ふくらんだ分、取られる」
かかが言うと、次郎は口を結んだ。結ぶのが上手くなった。
余計な言葉を飲み込めるのも、村の子の育ち方だ。
その日、里長の真名が来た。
手には、木の升と縄。測りの道具は、持っているだけで腹を冷やす。
「かか。太郎はいるか」
「おります」
太郎は戸口から出てきて、真名の手元を見た。目だけが動く。
縄の締め方を見る目だ。
真名は升を軽く叩いた。
「今年、国衙の沙汰でな。集める準備を早める」
集めるという言い方が、やさしくない。
取る、とは言わない。集める、と言う。言葉だけがきれいになる。
「まだ穂も青いのに」
誰かが後ろで言った。声が棘を持つ。棘は、腹が空くと生える。
真名は肩をすくめた。
「青くても、量は見られる。足りない家は……この先、苦しい」
真名の視線が、村のはずれの一軒へ落ちた。
戸が低く、煙の上がり方が細い家だ。
「あそこが足りないから、こっちが苦しいんだろ」
また別の声。今度ははっきり名前を避けた。避けた分だけ、矛先が広がる。
かかは息を吸って、吐いた。
吐く息が熱い。言葉も熱くなる。熱いまま出すと、村が燃える。
「足りない家が一つあると、役人は村が足りないって言う」
かかが言うと、何人かの顔が動いた。言い返しではなく、計算する顔。
「村が足りないと見られたら、来年はどうなる。札が増える。運脚が増える。誰の家が先に倒れる?」
太郎が何も言わずに、かかの横へ立った。
背中がそこにあるだけで、言葉に重みが増える。太郎は、そういう使い方をされるのが好きじゃない。けれど今日は、嫌だとも言わない。
真名が小さく頷いた。
「……どうする」
かかは一度、目を閉じた。
村は助け合う。助け合うけど、腹が空くと噛む。噛まないための形が要る。
「全戸で、ひと掴みずつ出す」
「ひと掴み?」
「升じゃなくていい。手のひと掴み。米でも、粟でも。家にあるもので」
ざわ、と空気が動いた。
うちも苦しいが喉まで上がり、ぐっと押し戻される音。
そのとき、周が笑った。笑い方が軽い。心が別のところにある笑い方。
「えらいねえ。結の真似事か。……足りない分、うちが貸してやってもいいが?」
甘い声。春の蜜みたいに言う。
でも、周の蜜は舐めると歯が抜ける。
かかは周を見ずに言った。
「借りは、冬に返す」
「冬に?」
「米で返せないなら、手で返す。薪割り。屋根の補修。子守り。縄ない。畦の草刈り。できることを細かく割る。返す先も、細かく割る」
細かくと言った途端、何人かの肩の力が抜けた。
一括は無理でも、細かいなら生き延びられる。村はそういう計算に慣れている。
乙が前に出て、周を一瞥した。
「貸しの話は後だ。今は、先に生きる話をしろ」
乙の声は、いつも通りきつい。
でも、そのきつさがあると、迷いが減る。
真名が升を持ち替えた。
「よし。今夜、社で帳面代わりの縄を作る。誰が誰に何を返すか、結び目で分かるようにする」
書ける者は少ない。
だから結ぶ。縄の結び目は、村の字だ。
家へ戻ると、さゑが三郎の手を洗っていた。三郎は水を飲もうとして、指をしゃぶって怒られるところだった。
「三郎、だめ。井戸水はのむの。手はたべないの」
三郎は不服そうに「ん」と言った。
さゑは小さく笑って、布で拭く。
「かあ、社、行くの?」
「行く。さゑも来る?」
「行く。結び目、見たい」
次郎がむっとした。
「ぼくも。ぼくも結べる」
「結べるなら、結び目の意味も覚えな」
かかが言うと、次郎は真剣な顔で頷いた。
背伸びはする。でも、覚えようとする。次郎の良さはそこだ。
夜、社には縄が並んだ。女衆の指、男衆の指、子どもの指。
結ぶ。ほどく。結び直す。
その繰り返しが、村の冬を薄くする。
縄を巻くとき、かかの指が一度だけ引っかかった。
端に、小さすぎる結び目。
さっきまで、そこには無かったはずだ。
見間違いだと言い聞かせても、指の腹が覚えている。
足りない家の女が、ずっと俯いていた。俯いていると、責められている気がする。責められていなくても、責められる前に折れそうになる。
かかはその隣に座り、声を落とした。
「謝るな。謝ると、借りが重くなる」
女は顔を上げ、涙が出そうな目をして、飲み込んだ。
「……返します」
「返すのは、あとでいい。今は、明日を作れ」
社の外で、虫が鳴いた。
虫の声は、誰の家にも等しく降る。
等しく降るものがあるから、人は等しくしようとする。しないと、どこかで崩れると知っているからだ。
家へ帰る道、次郎が小声で言った。
「かあ、周の声、いやだ」
「うん。いやだね」
「でも、ああいう声のほうが、楽に聞こえる人もいるんだろ」
次郎の言葉に、かかは少しだけ驚いた。
子どもは案外、見ている。
「楽は、あとで痛くなることがある」
「覚える」
次郎は短く言い、闇の中で前を見た。
家に着くと、三郎はもう寝ていた。さゑも、目をこすりながら寝床へ転がる。
太郎は囲炉裏の灰をならし、火種を確かめる。今日も火は消えていない。
かかは端布の籠を開け、底にしまった小さすぎる袖へ、指先を一度だけ触れた。
言葉にしない痛みは、村の結び目みたいに、ほどけないまま残る。
でも、残っているから、明日の手が動く。
外では稲が夜気を吸い、静かに重くなっていった。
重くなるものは、取られる。
それでも村は、取られる前に、先に結ぶ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
長月。太郎の踵は、藁草履の中で裂けていた。
血と泥が冷え、背負い紐が肩の骨に食い込む。荷の重さが、呼吸の数を奪う。
それでも荷はまだ半分。遅れれば、村が叱られる。叱られるのはまず里長だ。次に、弱い家だ。
稲の先が、ほんのり黄を含みはじめると、村の空気は軽くなる……はずだった。
風が変わる。朝、戸を開けると、川の匂いに混じって乾いた草の匂いがする。夏の湿り気が引いて、息が通る。その息の通りやすさが、かえって怖いときがある。何かが「動く」季節の匂いだからだ。
かかは畦にしゃがみ、稲の根元を指で押した。泥はまだやわらかい。けれど、もう春の泥じゃない。土が「重さ」を思い出している。
「かあ、穂が出てる」
次郎が言った。十の顔が、また少しだけ大人ぶっている。稲を指さす指は泥で黒いのに、目だけが妙にきれいだ。
「出てるね。今、触るのはだめだよ。折れる」
「折らない」
「折らないなら、見てなさい」
かかが言うと、次郎は唇を尖らせながらも、手を背中へ回した。言うことを聞く。その「聞ける」力が、この村ではちゃんと強さになる。
背中では三郎が、ぐずぐずと鼻を鳴らしている。三つ。秋風はまだ冷たくないのに、子どもはすぐ風に負ける。かかは背負い紐を少し締め、三郎の頬に指を当てた。温かい。温かいものがあると、生活はまだ「やれる」顔をする。
畦道の上から、声が落ちた。
「かか。太郎はいるか」
里長の真名だった。真名の声は、秋に入ると余計に固くなる。固くなるのは、測りと札が近づくからだ。
「おります。今、鍬を研いでます」
真名はうなずき、言葉を続けた。
「運脚だ。国衙へ運ぶ人数がいる。今度は……村から五人。太郎も入ってる。行かない家は米や銭を出して済ませる。出せない分は、歩ける者に札が回る」
その一言で、稲の色が少し遠くなった気がした。
運脚。荷を背負って歩く。米だけじゃない。布、土地の産物、役所の紙に書かれた「これだけ出せ」というやつ。道は平らじゃない。川もある。雨が降れば終わる。晴れても足が終わる。終わったと思っても、役所の庭で升を叩かれれば、その場で「もう一度」が来る。
次郎が、真名の顔を見た。言いたいことが顔に出ている。
真名はそれを見て、次郎へ先に釘を刺すように言った。
「次郎は行かせるな。隊列は大人でも欠ける。子どもが欠けたら戻ってこない」
次郎は「欠けない」と言いそうになって、口を閉じた。閉じたのは、真名が冗談を言っていない目をしていたからだ。
太郎は囲炉裏端で、草鞋の紐を撚っていた。指が硬い。硬い指で、紐をゆっくり撚る。ゆっくりなのに、無駄がない。
「五人か」
太郎はそれだけ言った。
「うちからは、あんたが行く」
「うん」
「何日」
「二泊三日……って言ってた。雨がなきゃ」
雨がなきゃ。村の暮らしは、いつもその後ろに小さい字がつく。
かかは棚の上から、布を一枚下ろした。運脚に持たせる布。擦れた背負い紐で皮膚が破れたら、それだけで歩けなくなる。歩けなくなったら、荷が遅れる。荷が遅れたら、村が叱られる。叱られるのはまず里長だ。次に、弱い家だ。
布を裂こうとして、指が一瞬だけ止まった。
端布の束の中に、やけに小さい結び目が見えた。小さすぎて、ほどけない結び目。誰のために結んだか、口に出さないほうがいい結び目。
かかはそれを見ないふりをして、別の布を選んだ。見ないふりは、忘れることじゃない。今日の手を止めないためのやり方だ。
「かあ」
さゑが土間から顔を出した。七つ。目が早い子は、家の空気の重さも早い。
「とうちゃん、また、いくの」
「行く。すぐ戻る」
「すぐって、いつ」
「夜を二つ越えたら、だよ」
さゑは指を二本立てて、確かめるみたいに見つめた。それから、三郎の手を取って小さく揺らした。
「三郎、とうちゃん、二つ。おひさま、二つ」
三郎は意味が分からない顔で笑った。笑うと、家の中の重みが少しだけ逃げる。
次郎が、堪えきれないように言った。
「ぼくも背負える。米、背負える」
太郎が次郎を見た。叱る目ではない。動かない目。
「背負える。けど、背負うな」
「なんで」
「家がいる」
「家なら、かあがいる」
その言葉に、かかの胸が少しだけきゅっとなった。頼られるのは嬉しい。嬉しいのに、嬉しいだけで済まないのがこの暮らしだ。
かかは次郎の額を指で軽く弾いた。
「かあは一人じゃ田も畑も運べない。お前がいるから回る。回るから、とうちゃんが帰る場所がある」
次郎は、悔しい顔のまま、うなずいた。
悔しさを飲み込める年齢に入った。そういう成長は、祝いの餅じゃなく、こういう札でやってくる。
翌朝、村の男たちが集まった。
背負子の縄が鳴る。草鞋を地面へ打ちつける音。源作が黙って一人ずつの荷紐を見て、擦れそうな箇所へ布を巻いていく。言葉はない。こういうときは、言葉が少ないほど助かる。
乙が、隊列の外側をぐるりと見回し、男たちの背を一度ずつ叩いた。
「腰を折るなよ。折れたら戻れない」
折れる、という言い方が、薪みたいに乾いていた。脅しではない。注意だ。ここでは脅しと注意の境が薄い。
真名が荷の札を確認し、声を張った。
「道中で揉め事を起こすな。宿で酒を飲むな。荷を減らすな。減らしたら、村の口が減る」
最後の言葉が、いちばん効く。
太郎が背負子を背に上げた。背負う動作が早い。慣れている。慣れていることが怖い。
次郎が走ってきて、太郎の袖を掴んだ。
「父、まっすぐ帰れ」
太郎は、次郎の頭を一度だけ撫でた。硬い指。撫で方が下手で、それでもちゃんと「触れて」いく撫で方。
「家、頼む」
それだけ言って、太郎は列に入った。
かかは見送るのが得意じゃない。得意じゃないのに、何度でもやる。見送らないと、戻ってくる場所がなくなるから。
隊列が畦道の先で小さくなり、川向こうの道に吸い込まれていく。秋風が、男たちの背中を押すみたいに吹いた。
男たちが消えたあと、田は広くなる。
広くなるのに、手は増えない。増えない手で、刈り入れの準備を始めなければならない。秋は待ってくれない。春はまだ「遅れても苗が機嫌を悪くする」くらいで済む。でも秋は、遅れたら全部を持っていく。
かかは女衆へ声をかけた。
「今日は稲架の竹を出す。畑の豆も干す。子守りは、交替で。倒れたら負けだから」
「倒れたら負け」って言い方がきついのは分かっている。けれど、きつく言わないと、皆が自分を削ってしまう。自分を削るのが得意な人間が集まると、村は静かに折れる。
乙が鼻で笑った。
「ようやく分かってきたね。若いのは、倒れてから泣くから」
「泣きません」
「泣くよ。泣くなら早く泣いときな」
乙の言葉は、いつも半分が毒で半分が薬だ。
さゑは三郎の手を引いて、稲架の下へ運ぶ竹の端を一緒に持った。もちろん役に立つほどは持てない。でも、持つふりをすると三郎が笑う。笑うと、さゑも笑う。笑うと、周りの息が少し楽になる。
次郎は鎌の刃を研ぎたがった。研ぎたがるけど、研がせるのは怖い。刃物は大人の道具だ。けれど、刈り入れはもう目前だ。
かかは次郎の手を取って、刃のない木片で研ぐ真似をさせた。
「こう。角度を覚える。刃は触るな」
次郎は不満そうにしながらも、真剣に真似をした。真剣に真似できる子は、たぶん生き延びる。
そのとき、畦の向こうに周が立っているのが見えた。
周は相変わらず、土を触らない手をしている。触らないのに、村の弱り目にはよく触ってくる。
「かか殿」
周が、いつもの優しい声で言った。
「運脚が出たな。道中の干し飯がいるだろう。塩も、少し貸せる。行かない家は代わりの米を出すが、それも用意がいる」
貸せる、という言い方が、まるで「助ける」に聞こえるのが厄介だ。
かかは笑って、声の温度だけ落とした。
「干し飯は村で回します。塩も、乙さんのところに少しある。足りない家に回して、返しは作業で返す。……貸しは、あとで首に縄になりますから」
周の目が細くなった。嫌そうではない。計っている目だ。
「村で回す、か。立派だ」
「立派じゃない。怖いだけです」
かかがそう言うと、周は一瞬だけ、口元の笑いを引っ込めた。怖さを正直に言う相手は、扱いづらい。
周は何も言わず、去っていった。去り方が軽い。軽いのが、いちばん怖い。
夕方、火を入れるころ、源作が戸口に立った。
「太郎の荷紐、直しておいた。……擦れてたから」
それだけ言って、源作は小さな麻紐の束を置いた。予備の紐だ。予備は、札よりありがたいときがある。
「ありがとう」
かかが言うと、源作はうなずくだけで帰った。言葉が少ない男は、不安の芽を増やさない。
鍋の中では雑穀がふつふつと鳴っている。干し菜を落とし、塩をほんの指先で入れる。塩の粒が減る音が、かかの胸にだけ聞こえる。
四つの椀を並べかけて、かかの手が止まった。
止まりそうになった手を、押し戻す。
今日は止めない。今日を回す。回せば、二つ夜を越えられる。越えれば、太郎が帰る。
さゑが、三郎の口元を拭きながら小さく言った。
「かあ、とうちゃん、ちゃんと帰る?」
「帰る。まっすぐ帰る」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
さゑはそれ以上聞かず、三郎の頭を撫でた。聞かないのも、この家の作法だ。
外で、秋の虫が鳴きはじめた。虫は追い払っても、季節の虫までは追い払えない。鳴くものは鳴く。それならこちらも、火を守る。粥の湯気を守る。手順を守る。
かかは椀に粥をよそった。
薄い粥でも、湯気は湯気だ。湯気が上がるあいだは、家はまだ「ここ」にいる。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
神無月の朝は、冷たいふりが上手い。
戸を開けると、川の匂いが細くなって、かわりに枯れ草の匂いが鼻に入る。空が高い。高いのに、腹は低い。そういう季節だ。
かかは、庭先に干していた藁の束を手で叩いた。ぱら、と小さな屑が落ちる。乾いている。乾いていないと、あとで言われる。
「濡れてるな」
その一言で、升の中身が同じでも、村の恥になる。
かかは、それを何度も見てきた。
土間では、太郎が黙って背負い紐を撚っていた。運脚のあとの肩は、まだ少し赤く擦れている。擦れているのに、本人は擦れていない顔をしている。言わない男の、いつもの顔だ。
次郎は、庭の端で鎌を研ぐ真似をしている。刃のない木片で。かかがそうさせた。刃は大人の道具だ。大人の道具に手を伸ばしたくなるのが、神無月だ。
さゑは三郎の手を洗いながら、庭の方をちらちら見た。七つの目は、音より先に空気を拾う。
「かあ。きょう、くる?」
「来るよ」
言った瞬間、言葉が冷えた。来る。役人が。測りが。札が。
かかは鍋の蓋を押さえ、湯気を逃がさないようにしてから、戸口へ目をやった。里長の真名が、まだ来ていない。来る前に、村の庭のほうがざわつくのが分かる。
ざわつく前に、段取りを固める。
それが、神無月を越える技術だ。
昼前、村の真ん中の庭に人が集まった。
里長・真名の家の前。地面は踏み固められていて、草が生える暇がない。ここは畑でも田でもないのに、毎年ここで腹が削れる。だから、村では誰かが小さく言う。
「取り立ての庭だ」
真名は、升と縄と、顔の疲れを並べて立っていた。肩は張っているのに、目だけが弱い。張らないと散るから張っている。胃が痛い人の立ち方だった。
その横に、国衙の役人が二人。
一人は紙と筆を持ち、もう一人は升と棒を持っている。棒は中身をならすための棒だ。ならす棒なのに、叩く棒にもなる。役人はそれを知っていて持っている顔だった。
「順に出せ」
声は大きくない。大きくないのに、庭が静かになる。声の大きさじゃない。背中についてるものが大きい。
家ごとに、俵や袋が運ばれてくる。
籾の匂いが、庭に広がる。稲の匂いだ。稲の匂いなのに、うれしくない匂いだ。
役人が升へ籾を入れ、棒でならす。ならして、余りを落とし、またならす。
その動きに、情はない。情がない方が、仕事が早い。
「次」
「次」
「次」
真名は横で数字を聞き、頷き、飲み込む。飲み込むたび、喉が細くなるみたいだった。
かかは列の後ろに立ち、次郎の肩に手を置いた。次郎は、前へ出たがっている。出れば、何かが変わると信じたがる年だ。
でも、変わるのは、出た者の首から先だ。
「目、離すなよ」
「離さない」
次郎の返事は短い。短い返事は、腹に力が残る。
列の中ほどで、ひとつ、動きが止まった。
村のはずれの家だ。戸が低く、煙が細い家。葉月の夜に、社で縄を結んだとき、ずっと俯いていた女の家だ。
袋が軽い。
役人の棒が升を叩いた。こん、と乾いた音。
「足りん」
その一言で、庭の空気がぴき、と割れた。
「足りんだと?」
誰かが言った。声が棘を持つ。棘は、腹が空くと生える。
役人は棘を見ない。
見るのは升だけだ。
「足りん。村が足りん」
村が足りない。
個人の話じゃない、と言ってるようで、いちばん痛い言い方だ。
真名が前に出た。
「その家は、夏に子が――」
言いかけて、止めた。言えば理由になる。理由は情を呼ぶ。情は、役人の仕事を遅らせる。遅らせると、苛立ちが増える。苛立ちは、弱いところへ落ちる。
真名は飲み込んだ。
役人が真名を見た。
「里長。村が足りぬなら、おまえが埋めろ。埋められぬなら、国衙へ出向いて詫びろ」
詫びろ。
詫びれば済む話じゃないのに、詫びろと言う。言葉だけが軽い。
庭の端で、周が立っているのが見えた。
周の袖口に、朱の粉が薄く擦れていた。墨と紙の跡が、寒さの中で浮く。
国衙の門前の匂いだ。
相変わらず、土を触らない手。笑っているようで笑っていない口元。
次郎の肩が、かかの手の下で硬くなった。
「……あの家のせいで」
誰かが言った。名前を言わない。言わない分、矛先が広がる。
かかは、息を吸った。
吐く息が熱い。熱いまま出すと、村が燃える。
燃えたら、冬を越せない。
かかは一歩、前へ出た。
「村で埋めます」
声は大きくしない。大きくすると、役人が「うるさい」と言える。小さい声は、逆に耳に残る。
役人の筆が止まった。
「誰が出す」
「全戸で。ひと掴みずつ」
「升で言え」
「升で言うほどの余りがない。だから、ひと掴みずつです。今、ここで」
ざわ、と村が動いた。
うちも苦しい、が喉まで上がる。でも、上げきらない。上げきらないのが、共同体の技術だ。
乙が、列の横から一歩出た。
「出せる家が出すんじゃない。全戸で出すんだよ。そうしないと、次は誰が狙われるか分からないからね」
きつい声。きつい声は迷いを切る。
源作が黙って、袋の口を開ける紐を整え始めた。手が早い。言葉より早い。こういうとき、言葉の多い人間より、手の多い人間が村を救う。
周の目が、その紐の結び目へ滑った。
眉がほんの少しだけ寄る。触れはしない。
周が、やわらかい声を挟んだ。
「足りないなら、うちが――」
周は言いながら、懐から小さな巾着を出した。紐の結び目が新しい。
乙がその巾着を見て、役人の方へ顎をしゃくる。
「升の前だよ。貸しの顔を出す場所じゃない」
かかは周を見ずに言った。
「村でやります。貸しは要りません」
周の口元の薄い笑いが、遅れて形になる。形になっても、もう場の空気は戻らない。
かかは真名の方を見た。
真名は、かかの目を見て、うなずいた。うなずき方が、謝っているみたいだった。
「社の縄は」
かかが言うと、真名が気づいたように、懐から縄を出した。
葉月の夜、帳面代わりに結んだ縄。
結び目は村の字だ。
「ここに結びます。誰が出して、誰が冬に手で返すか」
役人は縄を見て、鼻で笑うような息を吐いた。
「字がないのか」
乙がすぐ返した。
「字がなくても冬は来る。だから結ぶんだよ」
役人はもう興味を失ったように、棒を持ち直した。
「早くしろ」
早くしろ。
急かされると、手が乱れる。手が乱れると、こぼれる。こぼれると、また足りないになる。
かかは声を落とし、近くの家から順に言った。
「ひと掴み。少しでいい。少しを揃える」
源作の節くれ立った掌が先に開き、粒が升へ落ちた。ぱら。
続いて、あちこちから手が伸びる。ぱら、ぱら。
音は小さいのに、庭の空気が少しずつ戻る。戻るのは余裕じゃない。段取りだ。
真名が縄に結び目を作る。
結んで、ほどいて、結び直す。
かかはその指先を見て、ふと、縄の端の小さすぎる結び目に目が止まった。
小さくて、ほどけない結び目。
葉月の夜、指が引っかかった結び目と、同じ小ささだった。
ほどけないのは、縄じゃない。
ほどきたくない誰かの手だ。
かかの指が一瞬だけ止まる。
止めない。
止めたら、今日が止まる。
升が満ちた。
役人が棒でならし、余りを落とし、うなずいた。
「……よし。次」
それだけ。
よし、の一言が、村の肩から石を一つ落とした。落ちた石の分だけ、また別の石が見える。でも、今はそれでいい。
日が傾くころ、役人たちは去った。
庭に残ったのは、踏み固められた地面と、籾の匂いと、疲れた息だけだ。
真名はその場に座りそうになって、座らなかった。里長は座ると立てなくなる。立てなくなると、村が困る。
「……助かった」
真名が言った。言葉が掠れていた。
「助かったのは、今日だけです」
かかが返すと、乙が鼻で笑った。
「若いのは、ほんと口がきつくなったね」
「きつく言わないと、みんな自分を削るから」
乙は笑わないまま、うなずいた。
次郎が、拳を握ったまま立っていた。悔しい顔。悔しい顔は、育つ顔でもある。
太郎が次郎の横に立ち、次郎の拳を、指で軽く叩いた。
「握るな。爪が食い込む」
「……でも」
「怒っても、升は増えん」
それだけ言って、太郎は次郎の頭を一度だけ撫でた。硬い指。撫で方が下手で、それでもちゃんと触れていく撫で方。
さゑは三郎の手を引き、庭の端の草を指さして笑わせていた。
笑い方が軽い。軽いのに、ちゃんと家を支える笑い方だ。
その笑いが途切れる前に、真名が太郎を呼んだ。
「太郎。国衙へ、もう一度来いと言われた。……さっきの『足りん』の件だ」
太郎は頷くだけで、背負子ではなく札だけを懐へ入れた。
かかは、縄を手に取った。
結び目が増えている。
増えた分だけ、冬の仕事も増える。
でも、増えたのは借りだけじゃない。
「返せる形」も増えた。
家へ戻る道で、かかは一度だけ空を見上げた。
神無月の空は高い。高いから、何も助けてくれない顔をする。
助けてくれないなら、こちらで結ぶ。
火を守る。
湯気を守る。
手順を守る。
それで今日が回る。
土間に入ると、竈の前でさゑが言った。
「かあ、きょう、かった?」
かかは少しだけ考えてから、言った。
「今日は、負けなかった」
負けなかっただけで、十分な日がある。
人の暮らしは、ほんとそういうところが意地悪だ。
鍋の湯気が上がり始める。
その湯気の中で、かかは明日の段取りをもう組んでいた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
霜月の朝は、音が少ない。
戸を引くと、空気がひやりと頬に張りついた。息が白くなるほどではないが、指先が「もう火の季節だ」と先に言ってくる。庭の土は、ところどころ白く粉をふいたように見えた。霜だ。夜のうちに薄く降りて、日の光にまだ溶けきっていない。
かかは、屋根を見上げた。
茅の色が、夏よりも薄い。乾いて軽くなっているはずなのに、冬を迎える前の屋根は妙に重く見える。雪の重さを想像してしまうからだ。
太郎がいない屋根は、なおさらだ。
国衙へ呼び戻されてから、もう何日だろう。あの庭で「足りん」と言われたあとのことだ。太郎は背負子ではなく札だけを持って出た。数えれば数えられる。でも数えると、心がそっちへ寄ってしまう。寄った分だけ、手が止まる。だから、数えない。
背中で三郎が、ふにゃ、と声を出した。温かい。背中に温かいものがあると、家は回る。
「かあ、土が白い」
さゑが庭へ走り出て、しゃがんで指先で地面をなぞった。七つの指は細いのに、季節の変わり目を見つけるのが早い。
「霜だよ。触りすぎると冷えるよ」
「霜って、雪の赤ちゃん?」
「……そういうことにしとこうか」
かかが笑うと、さゑは満足そうに頷いた。次郎はその横で、わざとらしく腕を組んでいる。十の顔が「俺は知ってる」みたいな顔をする。
「霜は、夜の水だろ」
「夜の水、って言い方、かっこつけだね」
さゑが言うと、次郎の耳が赤くなった。冷えたからじゃない。
かかは二人を見て、鍋の蓋を押さえた。朝は粥だ。粥は、薄くしても湯気が立つ。湯気が立てば、家の中が「生きてる」顔をする。
粥をよそい、干し菜を小鉢に分け、塩をほんの指先だけ落とす。その塩の粒が、霜みたいに白い。白いものは、冬に増える。ありがたい白もあれば、ありがたくない白もある。
食べ終える頃、戸の外で小さく咳払いがした。
乙だった。
背中が曲がっているのに、目は曲がっていない。未亡人の目だ。村の「足りない」をずっと見てきた目。
「かか。今日だよ」
「うん。準備できてる」
「……言っとくけどね、うちが最初じゃなくても」
乙は、そう言いながらも、足はすでに自分の家の方向へ向いている。矛盾は、人が寒さに勝つための道具だ。
「乙の家が先だよ。あそこは北風を受ける」
かかが言うと、乙は唇を薄くした。
「分かってるよ。分かってるから嫌なんだ。人の手を借りるのは、腹がむずむずする」
「むずむずしても、屋根は葺けない」
言ってしまってから、かかは少しだけ口を引き締めた。乙に対して強い言い方をするとき、そこには甘えも混じる。乙はきついけど、逃げない人だからだ。
乙は鼻で息を吐いた。
「ほんと、若いのは口がきつい」
「口がきつくないと、冬がきつい」
乙は一瞬だけ笑った。笑ったのか、歯が冷えただけなのか分からない程度に。
「……結を回すんだよ。真名にはもう言ってある。人が集まるのは日が高くなってからだ。おまえは子ども見てろ。屋根は男が上がる」
「男が足りない」
かかが言うと、乙の目が少しだけ細くなった。
足りない。秋の庭で何度も聞いた言葉だ。
「だから、結を回すんだろ」
乙は、言い捨てるみたいに言って、踵を返した。
結。
家から家へ、人の手を回すやり方だ。米を貸すより先に、手を貸す。手は腐らない。利もつかない。代わりに、借りは残る。残る借りを、村は縄の結び目にして覚える。字がなくても冬は来る。だから結ぶ。
かかは土間の隅から、縄の束を取った。秋に結び目を増やした縄だ。触ると、繊維がざらりと指に当たる。結び目は硬い。硬いほど、ほどけにくい。
ほどけないと困るときもある。でも、ほどけると困るときの方が多い。
日が上がる頃、乙の家の前は人で埋まった。
茅束が積まれ、縄が何本も置かれ、梯子が壁に立てかけられている。茅の匂いがする。乾いた草の匂い。乾いた匂いなのに、どこか甘い。
源作が来ていた。無口な男は、言葉の代わりに道具を増やす。腰に鉈、手には木槌。顔はいつも通りだ。いつも通りの顔で、いつも通りじゃない季節を越える。
里長の真名も来た。胃の痛い人の立ち方で、周りを見回しながら、声を落として言う。
「今日のうちに、終わらせる。風が変わる前に」
「風、変わるのか」
誰かが言うと、真名は頷いた。
「山の方で雪が降ったって話だ。早い」
ざわ、と空気が動いた。
雪は、まだ遠いはずだ。でも遠い雪ほど怖い。遠いから準備が遅れる。遅れると、雪は遠慮しない。
かかは、子どもたちを集めた。
次郎、さゑ、そして同じ年頃の子が何人か。小さい子は土間に残す。三郎は背中だ。温かい重みが、かかの背中を押す。
「茅を運ぶよ。持てる分だけ。走らない。茅は軽くても、落とすと散る」
次郎が手を挙げた。
「屋根に上がれる」
「上がれない」
即答すると、次郎の眉がぴくりと動いた。反論が喉まで来ている顔だ。
かかは、次郎の目を見たまま言う。
「屋根は、落ちたら終わり。終わったら、誰が助ける側になる」
助ける側。
その言葉に、次郎の口が一度閉じた。秋の「取り立ての庭」で、村が崩れそうになったとき、助ける側が必要だった。あの空気は、次郎の中にも残っている。
源作が、屋根の下から短く言った。
「次郎。上がるのはまだだ。代わりに、縄を渡せ。結び方、覚えろ」
次郎の顔が少しだけ明るくなった。上がれない代わりに「役」がある。子どもは役で背筋が伸びる。
「はい」
返事が速い。速い返事は、頼れるときがある。
男衆が梯子を上り、屋根に乗った。茅の上を歩く足音は、意外と柔らかい。ふか、と沈む音がして、また戻る。茅は生き物じゃないのに、踏まれると息をするみたいだ。
乙は土間で、粥ではないものを煮ていた。粟と芋。匂いが濃い。祝いじゃないのに、祝いみたいな匂いだ。
「乙、そんなの……」
誰かが言いかけると、乙は鍋をかき混ぜながら言った。
「屋根を直してもらって、白湯だけ出す気かい。私は、そこまで貧乏じゃない」
「貧乏じゃないって言い方が、もう貧乏だよ」
かかが小さく言うと、乙は振り向かずに笑った。
「口がきついねえ」
「教わりました」
「教えた覚えはないよ」
そう言いながら、乙は鍋の火を少し強めた。火が強くなると、湯気が濃くなる。濃い湯気は、人の手をつなぐ。
屋根の上では、古い茅が剥がされていった。
剥がすと、下から黒い層が出る。煙で燻され、雨に打たれ、何年も耐えた茅の腹だ。触ると、指が黒くなる。黒は、家の歴史の色だ。
「穴がある」
誰かが言った。
「鼠だな」
源作の声が下から届く。源作は屋根に上がらない。上がらない代わりに、下で段取りを締める。村の段取りは、こういう人で保っている。
「冬は鼠も必死だ」
真名が言う。必死のもの同士が、同じ家の中で争う。それが冬だ。
茅束が屋根へ上がっていく。下から渡し、上で受け取る。手が手へ移る。受け取るとき、目が合う。言葉がなくても「落とすな」が伝わる。
上で、誰かの息が詰まる音がした。
次の瞬間、茅束が滑って落ちた。
乾いた茅の束は軽い。でも当たれば、骨は折れる。
次郎は反射で、さゑの襟を掴んで引いた。
茅束が土へ刺さる音がして、庭の空気が一瞬、凍る。
「落とすな」
下から源作の声が飛ぶ。
次郎の手は縄を握ったまま、離れなかった。縄は、指に食い込む。食い込むと、痛い。でも痛いと、手が離れない。手が離れないと、仕事になる。
「次、縄!」
上から声が飛ぶ。
次郎は、源作の教えた通りに縄を伸ばし、絡まないように渡した。渡すとき、縄が空で一瞬だけ弧を描く。その弧が、まるで村の形みたいに見える。歪だけど、つながっている。
さゑは茅を運びながら、小さな歌を口ずさんでいた。霜を見つけた朝の歌だ。誰に教わったわけでもない。こういう歌が、家の中で生える。
「霜の白、粥の白、白いもんは、腹に入れ」
意味は雑だ。でも雑な歌ほど、覚える。
「さゑ、それ何」
隣の子が聞くと、さゑは得意げに言った。
「冬の歌。忘れないように」
忘れないように。
忘れないのは、季節だけじゃない。誰が手を出して、誰が受け取ったか。村は、それを忘れると崩れる。
ふと、次郎が梯子へ手をかけた。
「おい」
かかが低い声を出すと、次郎の背中が止まった。止まったが、手は離していない。上を見ている。
上では、茅を押さえる手が足りない瞬間があった。風が、すっと入った。茅束がふわりと浮く。
浮いた茅束は、落ちる。
落ちれば、散る。散れば、拾う手が増える。増えれば、時間が削れる。削れれば、日が暮れる。暮れれば、霜が降りる。
次郎は、その流れを頭で追ったわけじゃない。でも体が先に動く年だ。
次郎が一段、上がった。
かかが息を吸う。
「次郎」
呼ぶ声は大きくしない。大きくすると、上の人間が足を乱す。
源作が、次郎の足首を掴んだ。
「止まれ」
短い声。短い声は、命に効く。
次郎は止まった。止まったまま、上を見た。目が悔しそうだ。悔しそうな目は、まだ生きている証拠でもある。
上から、別の男が身を乗り出し、茅束を押さえた。押さえられた茅が、ふっと落ち着く。風は通り過ぎた。
源作は次郎を見ずに言った。
「助けたいなら、足場を作れ。今はおまえが上がると、助ける手が増える。助ける手が増えたら、仕事が減るんじゃなくて、危ない口が増える」
危ない口。危ない足。危ない冬。
次郎は唇を噛んだ。噛んでから、手を離した。離して、下へ戻った。
「……縄、渡す」
それだけ言って、縄を握り直した。
かかの胸が少しだけ軽くなる。軽くなると同時に、重さも残る。子どもを止める重さだ。
乙が土間から顔を出した。
「次郎。上がるなって言っただろ」
「……はい」
「はいじゃない。返事は二つ要らない。手を動かしな」
乙の声は、叱っているようで、守っている。
次郎は鼻をすすって、縄を運んだ。鼻をすすっても、手が止まらない。止まらないなら、それでいい。
昼、鍋の匂いが屋根の下まで上がった。
粟の粥に芋を入れ、干し菜を刻み、少しだけ味噌を落とす。味噌は貴重だ。貴重だからこそ、ここで使う。結は、腹も結ぶ。
屋根の上から男衆が降りてくると、肩から白い粉が落ちた。霜ではない。乾いた茅の粉だ。粉は咳を誘う。咳は体力を奪う。でも笑いも誘う。
「おい、髪が草だらけだ」
「おまえの頭、最初から草みたいなもんだろ」
くだらないやり取りが、冬の入口を少しだけ丸くする。
かかは、椀を配りながら真名の顔を見た。真名は黙って食べている。黙っているときほど、胃が痛い顔をする。
「里長」
かかが声を落とすと、真名は少しだけ顔を上げた。
「秋の……あの不足、まだ引っかかってる?」
真名は、箸を止めて、頷いた。
「引っかかってる。引っかかったまま冬に入るのが、いちばん怖い」
「今日みたいに結で回せるなら」
かかが言うと、真名は苦く笑った。
「結は万能じゃない。腹が空くと、人は自分の家に引きこもる」
「だから、今のうちに外へ出す」
かかは椀を置き、手を拭いた。
「屋根が直れば、乙は冬を越せる。乙が越せれば、誰かが倒れても乙の知恵が残る。干し菜の段取りも、塩の使い方も」
乙は聞こえないふりをして、鍋をかき混ぜている。聞こえないふりは、照れの技術だ。
真名は、かかを見た。
「……おまえは、与えるのが早いな」
「与えないと、いざってとき誰も出せない」
言ってから、かかは自分で腑に落ちた。
与えるのは優しさだけじゃない。保険だ。冬の保険。村の保険。
冬は、一人の家の不運が、隣の家の飢えになる。雪が降れば道が閉じる。閉じれば、助けは遠くなる。遠い助けより、近い手だ。
近い手を、今、外へ出す。
それが結だ。
日が傾く頃、屋根は新しい茅で整った。
新しい茅は、光を受けると淡い金色に見える。稲の金色とは違う。稲は腹へ行く金色だ。茅は頭上を守る金色だ。
最後に源作が、下から屋根を見上げて言った。
「よし。これで雪が来ても、泣くのは鼠だけだ」
「鼠も泣く暇があったら出ていけばいいのにね」
さゑが言うと、笑いが起きた。笑いは、家の柱になる。
乙は戸口に立ち、屋根を見上げた。顎が少しだけ上がっている。威張っているみたいで、泣きそうにも見える。
「……終わったかい」
「終わったよ」
かかが言うと、乙はすぐには頷かず、少し間を置いて言った。
「……借りができたね」
「借りじゃない。結び目だよ」
かかは縄を取り出し、今日の分の結び目をひとつ作った。硬く、ほどけないくらいに締めるのではなく、ほどけるように、でも忘れないように。
乙が、目を細めた。
「その結び方、上手くなったね」
褒めているのか、監視しているのか分からない言い方。でも、乙の褒め言葉はだいたいそんな形だ。
次郎が、少しだけ前へ出た。
「俺、縄渡した。絡まなかった」
「見てたよ」
乙が言うと、次郎の胸が、目に見えないくらい膨らんだ。
助ける側に入った顔だ。
その顔を見て、かかは思った。
冬は、人を削る。削るけれど、削られた分だけ、別の形が出てくることがある。
頼る形、頼られる形。与える形、受け取る形。
それを覚える子がいるなら、来年は少しだけ楽になる。
楽になる、なんて、冬には似合わない言葉だ。でも言葉を持っているだけで、人は一歩踏ん張れる。
帰り道、空が薄い青になっていた。薄い青は、夜の冷えの色だ。
かかは背中の三郎の頬に触れた。温かい。温かいものがある。今日の屋根も、同じだ。
家に戻れば、また粥を炊く。干し菜を刻む。布を繕う。明日の段取りを組む。
それでも今日は、ひとつ守った。
頭上の冬を、少しだけ遠ざけた。
土間の隅で、次郎が小さく言った。
「かあ。助ける側って、腹が減るね」
かかは笑って、次郎の髪を軽く叩いた。
「減るよ。だからみんなで食べるんだ」
霜月の夜が、静かに降りてくる。
屋根の上は、新しい茅の匂いがしていた。
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去年は、椀がひとつ余っていた。
師走の朝は、音が尖る。
戸を開けると、空気がすっと入ってきて、鼻の奥が痛んだ。霜月の霜はもう薄い粉じゃない。白い息が、ちゃんと白い。庭の土は固く、踏むと小さく鳴いた。
かかは屋根を見上げる。
霜月に葺き直した茅は、まだきれいだ。きれいなのに、冬はきれいなものから先に重くする。雪、風、霜。どれも上から来る。
背中で三郎がもぞ、と動いた。温かい。三つの体温は、冬に勝つ道具のひとつだ。
「かあ、きょう、雪ふる?」
さゑが言った。七つの目は、空の気配を拾うのが早い。
「降るかもね。降らなくても、寒いよ」
次郎が鼻で笑った。
「寒いのは、いつもだろ」
言い方だけは、父に似てきた。十のくせに。
かかは鍋に水を張り、雑穀をひと掴み落とした。米はない。米は、家の椀より先に、国衙の升へ行く。けれど、湯気は同じように立つ。薄くても、立つ。
竈の火が、ぱち、と鳴いた。
その音に混じって、外で別の音がした。
足音。
畦道を踏む音じゃない。もっと固い音。草鞋が凍った土を叩く音。
かかの手が、勝手に止まる。
止めるな、と自分に言いながら、耳が戸口へ寄っていく。
戸の向こうで、息を吸う音がした。
それから、低い声。
「……かか」
太郎の声だった。
かかは戸を開けた。
太郎が立っている。肩に、白いものがついている。雪じゃない。乾いた霜と土の粉と、遠い道の粉だ。眉のあたりが少し赤い。風に擦れた顔。
背負子は軽い。軽く見えるだけで、胸がきゅっとなる。荷が重いと帰れない。荷が軽いと、別の怖さが来る。
「……戻った」
太郎は、それだけ言った。
次郎が飛びつきそうになって、途中で止まった。父に触れたいのに、男の顔が邪魔をする。
太郎は、次郎の頭を一度だけ撫でた。硬い指。撫で方が下手で、ちゃんと帰ってきた撫で方。
さゑは三郎の手を引いて、太郎の足元へ寄せた。
「とうちゃん、ほんとだ」
三郎は意味が分からない顔で笑って、太郎の草鞋を叩いた。叩く音が、家の中に落ちる。落ちた音で、かかの肺がやっと動いた。
かかは太郎の背負子を受け取り、縄の擦れを目で追った。
「怪我は」
「ない」
「遅れたのは」
太郎は一瞬、口を閉じた。
閉じたまま言った。
「川が増えた。道が割れた。……里長の件で役所に詰めさせられて、待たされた」
待たされた、という言い方が、腹に嫌な重さを残す。待つ時間は、向こうにとっては都合で、こっちにとっては命だ。
太郎は懐から、小さな紙片を出した。紙片というより、固い札の切れ端。字がある。
「来年、また札が増えるかもしれん。そういう話だった」
「話?」
「言い方だけだ。決まってない顔で言う」
太郎の言葉は少ない。少ないのに、余計な希望を混ぜない。混ぜないのが、冬の言葉だ。
かかは頷いた。頷いて、鍋を見た。火を守る。
「まず、食べる」
太郎はうなずいて、囲炉裏端に座った。座っただけで、家の形が少し戻る。抜けていた柱が、一本戻ったみたいに。
粥が煮える。湯気が立つ。
薄い湯気でも、家はここにいる。
昼前、里長の真名が来た。
顔が、いつもより硬い。冬の硬さじゃない。数字の硬さ。
「太郎、戻ったか」
「戻りました」
真名は頷き、それから声を落とした。
「今年の分は……あの不足、埋まった扱いにした。役人のほうがよしと言った。言ったが」
言ったが、の後ろに冬がある。
「来年の話をしたか」
太郎が短く頷く。
真名は息を吐いた。吐く息が白いのを見て、自分で少しだけ笑った。
「白いな。……俺の胃も白い」
笑いが、きゅっと縮んだ笑いだった。
かかは言った。
「村の縄は、まだあります。結び目も」
真名の目が、少しだけ動く。ありがたい、という顔をしたいのに、里長の顔が邪魔をする顔。
「……今夜、社で一度、結び直す。年越し前に、誰が誰に何を返すか、口を揃えておく。揃えておかないと、冬は言葉を忘れる」
冬は言葉を忘れる。腹が空くと、人は自分の家のことだけになる。
だから、忘れる前に結ぶ。
真名が去ったあと、太郎は囲炉裏の灰をならしながら言った。
「行くか」
「行く。次郎も」
次郎が顔を上げた。
「俺も?」
「おまえは聞く側だ」
太郎が言うと、次郎の口が一瞬、むっとする形になる。でも、すぐに戻る。戻せるのが強さになる季節だ。
夜、社は寒かった。
寒いのに、人が集まると空気が少しだけ丸くなる。吐く息が重なって、霧みたいになる。
縄が一本、地面に広げられた。
葉月に結んだ縄。神無月で増えた結び目。霜月の屋根でまた結んだ分。
結び目は村の字だ。読めない者でも、指が読める。
乙が縄の端を押さえ、言った。
「一括で返すな。細かく返せ。細かいのは、腹が持つ」
誰も笑わない。笑えないから、頷く。
源作が黙って、結び目の位置を整えた。ずれると、間違える。間違えると、疑いが増える。疑いは冬の火を消す。
周も来ていた。
相変わらず、土を触らない手。寒いのに、指先がきれいだ。きれいなのが、腹に刺さる。
襟の内側から、墨と紙の匂いがした。国衙の門前で、誰かに頭を下げてきた匂いだった。
周は柔らかい声で言った。
「皆、立派だねえ。縄で字を書くのか。……だが、来年は足りないが増える。今のうちに備えるなら、うちの塩を」
乙が周を見て、言葉を切った。
「塩は口が渇く。話も渇く。渇いた話は、あとでひび割れる」
周は笑った。笑い方が軽い。軽いから、落ちて割れる。
かかは周を見ずに、縄へ新しい結び目をひとつ作った。
硬く締めない。ほどけるように。けれど、忘れないように。
「村で回す。返しも村で決める」
その言葉に、周の笑いが少しだけ薄くなった。
薄くなっただけでも、冬には助かる。
次郎が縄の横で、じっと結び目を見ていた。
「……この結び目は、屋根?」
「そうだよ」
かかが言うと、次郎は自分の指を見た。霜月に縄を渡した指。助ける側に入った指。
指が覚える。頭より先に。
家へ戻ると、竈の火が待っていた。
火は、待つのが上手い。人よりずっと上手い。
かかは鍋へ水を足し、粥を炊き直した。昼の残りに干し菜を刻み、芋をひとかけ落とす。塩は指先だけ。指先が、今年の残りを知っている。
太郎は囲炉裏端で、草鞋の紐を撚っていた。戻ってきても、手を休めない。休めないのが、太郎のここにいる。
さゑが小声で言った。
「かあ、とうちゃん、ちゃんといる」
「いるね」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
さゑはそれ以上聞かず、三郎の頭を撫でた。聞かないのも、この家の作法だ。
椀を並べる。
三つ、四つ。
かかの手が、一瞬だけ止まりそうになる。
止めない。
止めたら、湯気が逃げる。
粥をよそい、湯気が立つ。
その湯気の向こうで、かかは棚の上の籠を見た。
端布の籠。
底に、小さすぎる袖がある。縫い代のない袖。指先が触れれば、言葉が出そうになる袖。
さゑが籠の底を覗き、口を開きかけた。開いた口は、湯気に触れる前に閉じた。
かかは籠を開け、底から別の小布を一枚だけ取り出した。
白くはない。白い布はない。でも、清い布はある。洗って、干して、手で整えた布。
その布の上に、米粒をいくつか置いた。
米粒は少ない。少ないからこそ、落とすと怖い。
「これ、なに」
次郎が聞いた。
「来年の種籾。……全部じゃない。最初の分」
さゑが目を輝かせた。
「春の、はじまり?」
「そう。春は待ってくれないけど、春は来る。だから、先に包む」
太郎が手を止めずに言った。
「落とすなよ」
「落とさない」
次郎が言い、今度はちゃんと指を丸めた。丸める指が、去年より少しだけ大人だ。
かかは布を包み、糸で縛った。
結び目を作る。
社の縄と同じように、ほどけるように、でも忘れないように。
包みを棚の奥へ置いて、かかは椀を手に取った。
「食べるよ」
太郎が頷く。
子どもたちが椀へ寄る。
三郎が湯気へ手を伸ばし、掴めないのに掴みたがる。さゑが「だめ、あつい」と笑って止める。次郎が「ばか」と言いかけて、言わずに粥を吹いた。
くだらない音が、家の中に落ちる。
くだらないのが、いちばん強いときがある。
春に数えた椀は、いま、余らない。
余らないまま、足りないまま、それでも子どもらの口が動く。
薄い分だけ、手が増えた。
変わったのは、結び目の数と、黙って寄る手の確かさだ。
粥は薄い。薄いのに、湯気はちゃんと立つ。
湯気が立つあいだは、家はまだここにいる。
そして、ここにいる者がいるかぎり、春へ繋ぐ手は残る。




