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二度目のきなこ

作者: YB

なろう感想企画『戦記』応募作品です。

 柴犬のきなこは、少女が大好きだった。

 少女も、きなこを愛していた。

 二人は犬と飼い主というより、親友と呼べる関係だった。


 少女は耳が遠い。

 そのことをきなこはよく知っている。

 だから吠えない。声に頼らず、体を寄せ、袖をそっと引き、歩く方向を肩で示す。

 それが二人の当たり前で、きなこにとっての会話だった。


 大学受験を控えた少女の帰りはいつもより遅かった。

 少女は帰宅してすぐの玄関で、笑って「散歩、行こっか」と言った。

 きなこは迷う。

 夜は危ない。耳の遠い少女には特に。

 けれど少女の手が首輪を持つと、きなこは断れなくなった。

 しっぽをひとふりして、少女の横に歩み寄る。


 夜気は冷えて、街灯の光が地面に丸く落ちている。

 二人はいつもの散歩道を歩く。

 アスファルトには昼の残り火のような温度があり、夜風は角を曲がるたびに匂いを変える。

 少女と並んで歩くこの時間が、きなこは好きだった。

 少女も笑っていた。きなこには理解できないが、少女は小さくお話をする。

 きなこはその声を聞くと、胸の奥がひらりと温かくなる。


 けれど、それは突然起きた。

 焦げたような、金属が擦れるような、きなこの知らない危険の匂いが風の端に混ざった。

 同時に、遠くで甲高い悲鳴のような音が跳ねた。


 きなこは立ち止まる。

 少女は危険に気づいていない。

 耳がきなこの警告を拾わない。


 きなこが危険が迫る先を見つめる。

 車だ。この道を、まっすぐこちらへ向かってくる。


 きなこは少女の前に立った。大切な人を守るために。

 背中の毛が逆立ち、尻尾がピンと張る。

 少女が異変に気付き、きなこの背を抱きしめる。


 きなこは少女を振り切って、前へ飛び出した。

 少女を守るには、それしかないと思った。

 次の瞬間、光が近づき、世界が音を失った。



   ×   ×   ×



 きなこが目を開けたとき、そこは知っている場所ではなかった。

 土の匂いも、風の匂いも、空の色も、音の響き方も違う。


 そして、きなこをのぞき込む少女がいた。

 外套をまとい、見慣れない武具を肩に掛けた少女兵。


「……あ、起きた。よかった。」


 金の瞳がやさしく揺れる。少女兵はきなこを見つめながら口にする。


「わたしはリーナ。きみ、魔物じゃないよね?」


 きなこは瞬きをし、鼻先を動かす。

 目の前のリーナはどこか、少女に似ていた。

 きなこはそう感じた。


 リーナはきなこの頭をそっとなでる。

 遠くから喧噪が聞こえていた。しかし、彼女の声は穏やかだった。


「‥‥迷っちゃったの?」


 そっとしゃがみこみ、きなこの目の高さに合わせる。

 リーナには敵意も警戒もない。

 きなこはそのことをすぐに理解した。


「ここ、危ないよ。ひとりで怖かったでしょ?」


 きなこはリーナの匂いを確かめる。

 剣の金属と土埃の匂いの奥に、どこか懐かしい気配があった。

 きなこにとって、リーナは少女のような存在だった。


 リーナはくすっと笑った。


「迷子ならわたしと一緒においで。ここから先は、ひとりじゃ歩きにくいからさ」


 きなこはゆっくりと、リーナに体を合わせる。

 リーナはその動きを歓迎するように手を差し出した。

 触れるか触れないかの距離で、きなこはその手の匂いを確かめる。

 不思議と、怖さはなかった。


「わたしは伝令の仕事をしてるの。いろんな場所を走って、いろんな人に声を届けてる」


 リーナはそう説明しながら、外套の内側に巻物を押し込む。

 自分のするべきことを丁寧に伝える。


「きみは‥‥ついてきてくれるだけでいいの」


 リーナはきなこの横に並んだ。


「ひとりより、ふたりの方が心強いから」


 風が二人のあいだをそっと通り抜ける。

 どこへ向かうのかは分からない。

 けれど、きなこは彼女の歩幅に自然と合わせた。

 リーナはその歩みに気づいて、小さく、嬉しそうに笑う。


「よし。じゃあ、一緒に行こう」



   ×   ×   ×



 最初の任務の目的地は、森沿いの古い砦だった。

 きなこは知らない世界でも危険な匂いをかぎ分けることができた。

 この世界は少女と一緒にいた世界よりも、素朴で分かりやすかった。


「すごいね。きみのおかげで、敵と会わなかった。ありがとう」


 古い砦の門の前で、リーナがきなこに干し肉を差し出す。

 きなこはしっぽを振り、干し肉をほおばる。


「ねえ、きみのほうが伝令兵として優秀かも?」


 リーナがうじうじと頭を抱える。


「えー、もう抜かされちゃったの? きみに先輩風を吹かせたかったのに」


 リーナが干し肉を噛むきなこをしっぽに触れる。


「これからよろしくね、相棒」


 その言葉は、きなこの体にやさしく響いた。


 それからの日々、きなことリーナは何度も任務に出た。

 最初こそ互いに様子を探りながら歩いていたが、二人が並ぶ姿はすぐに当たり前になった。


 風の強い丘を越える任務があった。

 リーナは巻物を胸に抱えながら、風の切れ間を必死に探していた。

 けれどきなこは、風の匂いが変わる瞬間に自然と前へ踏み出した。


「行けるの?」


 リーナが声を上げたときには、きなこはもう走っていた。

 それに合わせるようにリーナも駆け出す。

 足音が土に吸い込まれ、息づかいが同じリズムを刻む。

 二人の影は、まるで一つの線のように細く伸びていった。


 夜の任務もあった。

 焚き火のそばでリーナが地図を追っていると、きなこはそっと外套の袖を鼻先で押した。

 きなこが少女と過ごしていた頃、何かを伝えるときの仕草と同じ。

 リーナはそれに気づくと、やわらかく微笑む。


「うん、明日はこの道を行くよ。きみも同じ意見でしょ?」


 きなこは吠えない。

 けれど、リーナにはもう伝わる。

 体の向き、歩幅、寄り添う距離。その全部がきなこの言葉だった。


 険しい山道をゆく日もあった。

 細い道で足元の石が転がり、リーナがぐらりと体を振られる。

 その瞬間、きなこは後ろから裾をくわえて引き戻した。

 リーナは驚きながらも、息を弾ませて笑った。


「助かったあ。きみがいてくれるから、わたしは前に進めるんだね」


 その言葉に、きなこは誇らしくなった。


 ある日、森の抜け道で小休止したとき、リーナは外套の内ポケットから小さな銀の輪を取り出した。

 手のひらで転がしながら、きなこに見せるように掲げる。


「これね、『守護の指輪』っていうの。わたしって戦えないんだよ。剣も盾も全然だめで」


 きなこは首を傾け、輪の匂いを確かめた。

 金属の冷たさの奥に、得体の知れない力が呼吸しているような匂いが滲んでいた。


 リーナは少し照れたように笑う。


「でも、このリングがわたしを守ってくれるの。危ないとき代わりに壊れてくれるんだって」


 きなこはそっと鼻先をリーナの膝に押し当てる。

 リーナの匂いには、不安と、それを押し返そうとする意志が混ざっていた。


「きみはリングよりも頼もしいなあ」


 ある日、戦場に張り巡らされた塹壕は迷路のように複雑で、リーナが一瞬足を止めることもある。

 きなこは地面の震えと風の流れを読み取り、鼻先をそっとある方向へ向けた。

 リーナはすぐにそれを理解し、肩を軽く叩く。


「そっちだね。ありがとう」


 きなこの足取りは迷いがなく、リーナの歩幅も自然ときなこに合っていく。

 二人が横並びになるたび、世界の輪郭が少し穏やかになった。


 夕焼けの日、任務の帰り道の空は淡い色で溶けていた。

 リーナはきなこの首もとに顔を寄せ、そっと呟く。


「きみといるとね‥‥怖さが少しだけ消えるんだ」


 きなこはリーナの頬に鼻を寄せた。

 その匂いは暮らしていた家の匂いに似ていて、嬉しくなった。


 リーナはふいに空を見上げ、静かに笑った。


「きみと出会えてよかった。わたし、ひとりじゃないんだね」


 きなこはリーナの横にそっと体を寄せた。

 二人の影は戦場で寄り添い、ひとつに重なっていった



   ×   ×   ×



 それからしばらくして、戦場の空気が変わった。

 風の匂いが鋭くなり、遠くで鳴る地鳴りは、前よりも深く長く続くようになった。

 きなこは鼻先を上げるだけで、今日の道がいつもより危ないことを理解した。


 砦の入口で、リーナは上官から巻物を受け取っていた。

 きなこはその足もとに座り、少女の匂いの変化を感じ取る。

 緊張で、汗の匂いが少し強くなっていた。


「リーナ。この伝令は最終決戦の要だ」


 上官の声は硬かった。


「届けば勝ち、届かなければ‥‥‥ここも落ちる」


 リーナは短く息を飲みこみ、うなずいた。

 きなこにも緊張が伝わる。

 リーナの肩が震えたのが分かったからだ。


「分かりました。必ず、届けます」


 リーナは巻物を大事そうに外套の内側へしまい、きなこの方を見る。

 きなこもリーナを見つめる。

 それだけで、二人の呼吸はいつも通り重なった。


「行こう、きなこ」


 リーナが駆け出し、きなこもその横に身体を合わせる。

 風が二人のあいだを切り裂くように通り抜ける。

 大地の揺れが、遠くでうごめく大軍の気配を告げていた。


 丘をひとつ越えたときだった。

 世界が一瞬だけ、妙に静かになった。


 きなこは足を止める。

 この静けさは、危険の合図だ。


 空気の層が、ぐしゃりと歪んだように感じた。

 次の瞬間、乾いた破裂音が空を裂いた。


 リーナの右足に、火のような痛みが走る。

 彼女の身体が前のめりにつんのめり、そのまま地面へ倒れこんだ。


 血の匂いが、きなこの鼻を鋭く刺す。


 きなこは迷わなかった。

 振り向きざま、影に向かって飛びかかる。

 そこには弓を構えた敵兵がいた。


 きなこは歯をむき、男の腕に噛みついた。

 鉄と汗の匂いが一気に近づく。

 引き、ねじり、全身の力でもぎ取るようにして押し返すと、敵兵は驚愕の声を上げて後ろへ逃亡していった。


 きなこがもう一歩踏み込もうとしたとき、リーナの震える声が背中に届いた。


「追いかけなくていいよ。どっか行ったみたい」


 きなこは振り返る。

 リーナは片膝をつき、右足をかばうようにして座り込んでいた。

 血が外套を濡らして広がっている。


 きなこはリーナの顔に鼻先を寄せた。

 血と土と、かすかな涙の匂いが混ざっていた。


「傷はそんなに深くないよ。守護の指輪は発動しなかった。命にはきっと、かかわらない」


 リーナはそう言いながら、無理に笑おうとする。

 けれど、その声は少し震えていた。


「でも‥‥もう走れない」


 リーナは胸元に手をやり、守護の指輪の鎖をそっと外した。

 小さな銀の輪が、淡く光る。


「ねえ、お願い」


 リーナはきなこの首輪に手を伸ばし、指輪をそこへ通す。

 守護の指輪は小さく揺れ、きなこの喉元で静かに落ち着いた。


「きみが伝令を届けて」


 きなこは瞬きをする。

 ともに達成した任務の経験から、言葉の意味を理解した。

 首元で得体の知れない力が、はっきりと感じる。


 リーナは、きなこの目をまっすぐに見つめた。

 その瞳には、強さと不安の両方が宿っていた。


「これを届けたら、きみは英雄になる。不自由なく暮らせるくらい褒美だって出る」


 リーナは、少しだけ照れくさそうに笑った。


「ほんとはね、ずっと怖かったんだ。伝令なんてわたしには無理だって思ってた」


 声の端がかすかに揺れる。


「でもね‥‥きみが一緒に来てくれるようになってから怖くなくなったんだ」


 きなこは、そっとリーナの頬を舐めた。

 それから、彼女の外套の内側へ鼻先を差し入れ、伝令が記された巻物をくわえる。


 重さは、たいしたことはない。

 くわえて走るのに障害はない。

 しかし、きなこの心は痛かった。


 リーナを残して走る痛みなのか。

 彼女のために走りたい気持ちなのか。

 その二つを、きなこは上手く区別できなかった。


 きなこは飼い主の少女のことを思い出す。


 やはり、少女とリーナはどこか似ていた。


 きなこはもう失うのはいやだった。


 リーナはきなこの頭に手を置き、やわらかく押し出すように撫でる。


「行って。きみならできる」


 きなこは一度だけ振り返り、リーナを見た。

 彼女は痛みに顔をゆがめながらも、まっすぐきなこを見つめている。


 きなこは小さくしっぽを振った。

 それが、自分なりの返事だった。


 そして、地を蹴って駆け出す。

 首元で守護の指輪が、かすかに鳴った。



   ×   ×   × 



 きなこは走った。


 地面がすぐ足の下から遠ざかっていく。

 土の震えが、危険のいる場所を教えてくる。

 矢が空気を裂く音。焼けた金属の匂い。倒れた柵のささくれ。

 ひとつひとつを嗅ぎ分け、聞き分け、踏み分けながら、きなこは進路を選んだ。


 右前足の肉球が、石を踏んで痛んだ。

 胸は早く打ちすぎて、苦しかった。

 喉は焼け、口の中は乾いている。

 それでも脚を止めるつもりもなかった。


 首元の守護の指輪が小さく揺れる。

 まるで、危険の少ない細い道を示すように匂いの濃さが変わる。


 きなこはそれを頼りに、わずかな隙間へ身を滑り込ませた。

 壊れた荷車の影を抜け、崩れた土嚢を飛び越える。

 近くで爆ぜる音がして、土と火薬の匂いが吹きつけた。

 耳の中で、世界が一度だけ白くなる。


 それでも走る。走る。走る。


 爆風で耳の先が痛いほど冷たくなっても気にしない。

 肩はもう重く、肺は熱い石を詰め込まれたみたいだった。


 ふいに、横合いから矢の気配が走った。

 空気が細く裂ける。

 きなこは身をひねり回避して駆け抜ける。


 きなこは振り返らない。

 振り返ってしまえば、きっとリーナの姿を探してしまう。

 探してしまえば、脚が止まる。


 少女を庇って車の前に飛び出した夜が、胸の奥で疼く。

 あのときは、体が動かなかった。少女を守ることができなかった。

 今は違う。


 幾度の任務を経験して、恐怖に立ち向かう勇気を得た。


 だからこそ、前だけ向いて走らなければならない。


 もう少しだ、と鼻先が教えてくる。

 脚は悲鳴を上げていたが、その悲鳴ごと前へ突き出す。


 世界は一筋の道になっていた。

 リーナの涙の匂い、少女の話し声、それらがきなこの背中を押し続ける。


 きなこは走った。ただ、届けるためだけに。



   ×   ×   ×



 砦の門が見えたとき、きなこは脚の一本一本が自分のものではないように感じていた。

 息は荒く、胸は焼けるようで、肺の奥はざらついていた。

 それでも最後の力で地を蹴り、門前のひらけた場所まで走り抜けた。


 泥と血の匂いをまとったきなこに、見張りの兵士たちが気づく。


「お前は確か伝令兵の‥‥?」


 きなこは返事の代わりに、くわえていた巻物を地面へそっと落とした。

 それがただの棒切れではないこと、兵士が気づく。


「待て! その巻物、印章がある。伝令だ!」


 駆け寄ってきた隊長が巻物を拾い上げ、一気にひらく。

 そこに記された文字を追ううちに、男の顔から血の気が引いていった。


「全軍に伝達! 右翼を引け、正面の布陣を入れ替えろ! 急げ!」


 怒号が飛ぶ。

 人が走り、旗が動き、命令の声が次々と重なっていく。

 その真ん中で、きなこはしばらく呆然と立ち尽くしていた。


 体の芯まで使い切って、ようやくたどり着いた。

 けれど、心の痛みは少しも軽くならない。


 リーナが向こうに残っている。

 血と汗と、かすかな不安の匂い。

 置いてきてしまったその場所が、きなこの中で焼きついたままだった。


 戻らなくちゃ。

 今すぐ来た道を引き返さなくちゃ。


 でも、リーナを治すことも、運ぶことも、きなこにはできない。


 きなこは唸り声をあげる。久しぶりに震えたのどが空回りしてしまう。


 耳の遠い少女と暮らしていた頃、きなこにとって吠えることは、ほとんど意味を持たなかった。

 どれだけ声をあげても、少女には届かないから。

 だからきなこは、いつしか吠えることをやめてしまった。

 袖を引き、肩を押し、体で伝える方を選んできた。


 けれど、ここにいる人たちは違う。

 リーナのことをしっかりと伝えないといけない。


 きなこは首を上げた。

 リーナが倒れている方角を、じっと見つめる。

 喉がきゅっと縮こまり、胸の底で何かがせり上がる。


 ‥‥‥ワン


「ん? エサか? 水か? お前さんは英雄だ。すぐに準備させる」


 兵士の一人が呟いた。


 ‥‥‥ワンッ!


 久しく使っていなかった場所が、きしむように痛む。

 それでも、もう一度。


 ワンッ! ワンッ!


 砦の広場に、澄んだ声が響いた。


「なんだ、まだなにかあるのか?」


「おい、そいつ、不器用なリーナの相棒じゃないか?」


 兵士たちが振り向き、集まってくる。


 ワンッ! ワンッ! ワンッ!


 きなこは吠えながら、リーナのいる方を見続けた。


 声がかすれても、息が続かなくなっても、やめなかった。

 何度も吠え続ける。


 

 ──リーナを助けるために



 ──今度こそ助けるために



「あっちに、まだ誰か残っているのか」


 隊長がきなこの視線の先を追った。

 その顔に、はっとした色が走る。


「リーナか!? 衛生兵! 数名、今すぐこの犬について行け!」


「了解!」


 白い腕章を巻いた兵士たちが駆け寄ってくる。

 きなこは彼らの匂いを嗅ぎ、医療具の薬品の匂いを確かめた。


 この人たちならリーナを助けられる。


 そう理解すると、きなこは踵を返した。

 それから、リーナの待つ方角へ走り出した。

 背後で、何人もの足音がそれを追いかけてくる。



   ×   ×   ×



 空を震わせていた怒号と金属音は、いつのまにか遠くへ去っていった。

 後方の医療テントでは、薄い布越しに灯りがゆれ、包帯と消毒薬の匂いが空気に溶けていた。


 リーナは白い寝台の上で眠っていた。

 右足にはぐるぐると包帯が巻かれているが、呼吸は穏やかだ。

 きなこはそのすぐそばで丸くなり、ときどき鼻先で少女の手にそっと触れて、体温を確かめる。


 やがて、その指がかすかに動いた。

 リーナはゆっくりとまぶたを開け、目の前のきなこを見つけると、小さく笑った。


「そっか。きみが助けてくれたんだね」


 声は少しかすれているのに柔らかかった。

 リーナはきなこの頬へ手を伸ばし、指先で毛並みをなぞる。


「ほんと、ふしぎだね。どこから来たのかも分からないし、何の生き物なのかだって誰も知らないのに」


 きなこはその手に頭を押しつけた。

 言葉ではなく体で返事をする。


 リーナはくすっと笑い、少しだけ泣きそうな顔になる。


「きみはきみだよね‥‥‥ありがと」


 言葉の意味は分からない。

 それでも、リーナの体温だけで、きなこには十分だった。


 そのときだった。


 きなこの視界が、ふっと白くほどけた。

 テント布が消えて、リーナの匂いが遠ざかっていく。

 世界が白く染まっていく。


 きなこは驚いて周囲を警戒する。

 すでに、そこにいたはずのリーナの姿はもういなくなってしまった。


 きなこが気配を感じたほうへ顔を向ける。

 白い光の中に、一人の女神が立っていた。

 夜空からこぼれた星をそのまま縫いとめたような衣をまとい、楽しそうな目できなこを見下ろしている。


「勇敢な柴犬、きなこ」


 女神の声はやわらかい。

 けれど、その言い方にはどこか、人間の悪ふざけめいた色が混ざっていた。


「よくもまあ、あんな戦場を走りきってくれましたね。犬一匹にここまで働かせるなんて人間って勝手」


 くすくす、と意地の悪い微笑みが口元に浮かぶ。

 けれど、その目の奥は誇らしげでもあった。


「あなたが届けた伝令のおかげで、この世界ではたくさんの命がつながりました。あの少女兵も救われました」


 最後の一言を、わざと軽く付け足す。

 からかうような調子に、きなこは牙を立てた。


 女神はゆっくりときなこに歩み寄る。

 その指先がきなこの頭に触れる。


「さて、ご褒美をあげないと。わたくしの評判が悪くなりますからね」


 女神は片目だけを細めて、いたずらっぽく笑った。


「あなたを元の世界へ戻しましょう。もちろん、死んでしまう少し前の時間に」


 女神の言葉はきなこになんとなく伝わった。


「今のあなたなら、車を避けることもできるでしょう。前みたいに何も考えず飛び出して終わり‥‥なんて馬鹿な真似はせず、一目散に逃げればよいのです」


 それは、少しだけ刺のある言い方だった。


「さあ、柴犬きなこ。二度目の人生を謳歌しなさい」


 きなこの視界は再び白く染まっていく。


 女神が指先で、きなこの額を軽く弾く。

 視界の白が、さらに明るさを増した。


「それでは、散歩の続きをお楽しみに」


 女神の声とともに、光が一気に開く。


 次の瞬間、きなこは元の世界に戻っていた。

 夜の匂い、アスファルトのぬくもり、あの少女のすぐそばへ。



   ×   ×   × 



 夜道。街灯の下。


 アスファルトには、昼の名残りのぬくもりがまだわずかに残っている。

 冷えた夜風が角を曲がるたび、匂いを少しずつ変えて肌を撫でていった。


 きなこのよく知る気配がとなりを歩いている。

 耳の遠い少女は、背後から迫る危険の気配に気づいていない。


 焦げた金属の匂い。


 甲高い悲鳴のような音。


 きなこは知っている。

 ここから先、何が起きるのかを。


 遠くの角を曲がった先から、暴走する車が押し寄せてくる。


 きなこが逃げることは簡単だった。

 リーナとの任務で学んだ通りに動けば、車を回避し生き残るのはたやすい。


 しかし、それでは少女を助けることができない。


 きなこに迷いはなかった。


 たとえ、二度目も同じ結末でも少女を見捨てるなんてできない。


 きなこは少女の袖を噛んで、強く引いた。

 少女は驚いて振り返るが、目の前に迫る車を見て、足が固まってしまう。


「え?」


 少女は一歩も動けない。

 まるで、これが運命だとでもいうように。


 きなこは思う。


 ───守るんだ


 そして、きなこは少女の前に立った。


 車の光が迫る。

 タイヤが悲鳴を上げる。


 きなこは少しでも少女の衝撃を減らすために、一度目よりも前へ踏み込む。


 暴走した車がきなこの目前に迫る。


 きなこは覚悟を決める。死ぬ覚悟じゃなくて、絶対に守るって覚悟。


 車ときなこがぶつかる、その刹那。

 きなこの首元で、守護の指輪がまばゆい光を放った。


 透明な膜がきなこの周囲にふわりと広がる。

 次の瞬間、車の進路が見えない手のひらで押し返されるようにわずかに逸れた。

 車はきなこたちのすぐ目の前を通り抜けて、ガードレールへ擦り寄り、そのまま向こうの闇へ走り去っていった。


 夜風が二人の身体を揺らす。


 守護の指輪は、役目を終えたようにきなこの首元でかすかに震えた。

 そして、静かに光の粒となってほどけていった。


 あっという間の衝撃が過ぎ去ったあと、少女はようやく息を吸い込んだ。

 もしかしたら、自分が死んでいたかも知れないと気づく。


 少女は震える手で、きなこを抱きしめる。


「きなこ‥‥きなこ‥‥!」


 きなこは少女の胸に体をすり寄せた。


「怪我してない? どこか痛くない? 大丈夫?」


 頬に触れる手は、いつもより熱かった。

 涙の匂いがきなこの鼻先をくすぐる。


 きなこはゆっくりと目を閉じて、少女の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 それは、家の匂いだった。


 少女は涙をこぼしながら、何度も何度もきなこの名前を叫ぶ。

 きなこは小さく息を吸う‥‥そして、はっきりと声を出した。


 ワンッ!


 その鳴き声は遠い異世界のリーナにも届く。


「うん、わたしも元気でやってるよ」

 



【おわり】



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― 新着の感想 ―
 耳にハンデを抱える少女を支えるために、危機探知を磨き、鳴かずにボディタッチや服引きでコミュニケーション。伝令などを敵に居場所伝えずに安全圏へ誘導するのにうってつけな逸材ですね、きなこ。  生活する…
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