第8話 人生相談は朧月夜(おぼろづきよ)に
ある夜、なかなか寝つけなかった。
枕元のスマホは充電ケーブルに刺さったまま、通知の小さな灯りだけがときどき瞬く。天井の白が、闇になじむのをぼんやり眺めていても、瞼は重くならない。
隣の部屋で衣擦れのような気配がかすかに揺れた。 ――まだ起きている。いや、幽霊に「起きている」は変か。けれど、あの気配は意識がこちらに向いている合図だ。
「……トワ、起きてる?」
「幽霊は寝ない。何だ」
声はすぐ耳もとから返ってきた。壁を抜けて、ふわりと輪郭が布団の横に浮く。和装の袖口からのぞく指は相変わらず白く長く、薄い唇が緩むと、部屋の空気の温度が一段落ち着く気がした。
「眠れないのか」
「……まあ、ちょっと」
言葉を探すうち、口が勝手に思いがけない方向へ滑った。
「なぁ、お前さ……過去に、好きな人っていた?」
トワは一拍、呼吸を置いた。
冗談の前置きも皮肉もない、まっすぐな沈黙。
「……言えなかったことがある」
「言えなかった?」
「生きていた頃、伝えられないまま終わった。間に合わなかった」
“間に合わなかった”。音だけで部屋の温度が二度ほど下がる言葉。けれど、そこに宿る熱は不思議と冷たくない。未練とも後悔とも違う、もっと深く静かな温度。
悠作は、胸の奥で同じ言葉がかすかに反響するのを感じた。
――そういえば、自分はこれまで、まともな恋愛らしい恋愛をしてこなかった。
大学の頃、サークルの飲み会の帰りに、同級生に送った「また会いたい」メッセージ。返信は来た。でも二往復で止まった。次の一歩を踏み出す前に、自分でハンドルを切ってしまった。
職場で半年ほど続いた食事も、曖昧な「また今度」で溶けた。待てなかったのは相手だけじゃない。怖かったのは、自分のほうだ。
嫌われるのも、期待するのも、怖かった。だから「推し」を好きになるのは、きっと安心だった。
恋じゃないから。彼と自分の間にある線は、はっきりしているから。
手のひらに残る、握手会のぬくもりを思い出す。高橋蓮斗――推しは推し。
ステージの上の光、真剣な眼差し、あの笑顔。全部が好きだ。それでも「恋」とは別の箱に入れてある。
そこは、自分の中に作った、触れない小さな四角い場所。
「越えない」ための一角。
そこにだけは、鍵をかけている。
鍵をかけるのは得意だった。
たぶん、ずっとそうやってきた。
「……間に合わせたい、俺は」
自分でも驚くくらい、まっすぐな声が出た。
トワがこちらを見る。長い睫毛の影が、薄明かりの中で揺れる。
「なら、走れ」
「走れって……」
「間に合ううちに動け。言葉は出して初めて意味がある」
優しさと苛立ちの境界みたいな温度の声。説教の形をしているのに、不思議と心地よく刺さる。
眠気は遠ざかるばかりで、二人はキッチンへ移った。湯がちりちり音を立て、湯呑みに白い息が立つ。トワは香りだけを楽しむように鼻先を近づけ、目を細めた。
「これも代理摂取できればいいのにな」
「お茶は無理だな。味が淡い」
「じゃあ、香り担当はまかせた」
他愛ないやり取りの隙間に、こぼれるように本題が戻ってくる。
「なあ、さっきの『言えなかった』って、やっぱり――告白?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。今は、それでいい」
ことさらに曖昧な答え。そこに宿る「触れてほしくない線」は、誰よりもトワがよく知っている線なのだと思った。
言葉って、引けば近づけるわけじゃない。引きすぎると、壊してしまうことがある。
湯呑みを置く音が、夜の台所で小さく響く。微温い湯気。落ち着く香り。心臓は、まださっきの一言のリズムで打っている。
視線が、つい横顔に吸い寄せられる。気づくと、悠作はトワの横顔をじっと見ていた。整いすぎた輪郭、薄い唇、目尻の形。
生きている人間よりもはっきりと浮かび上がって見えるのは、幽霊だからなのか、それとも――。
火の玉は夜の室内では限りなく淡く、ほとんど見えない。かわりに、袖が揺れるたび、空気がほんの少しだけ優しく動く。
「……何だ、その目は」
「いや……なんでもない」
慌てて視線を逸らした。
言葉にすれば、ほどけてしまいそうな「糸」がある。名前をつけてしまうと、急に重くなる気配もある。
だから、今はまだ、引かない。もったいぶるみたいに、手前で止めておく。
沈黙が落ちる。夜更けのそれは、昼間よりずっと濃い。秒針の刻む音と、遠くを走るタクシーの低いエンジン音。冷蔵庫のコンプレッサーが一度息を吸って、吐く。
「悠作」
「ん」
「今のお前には、間に合わせたい相手はいるのか」
直球の問い。答えを探す自分の顔が、湯呑みの縁に歪んで映る。
「……まだ、はっきりとは」
「なら、はっきりさせろ。後悔を減らす唯一の方法だ」
言葉は簡単で、実行は難しい。でも――この夜は、その難しさを真正面から見ている自分に、少しだけ驚いていた。
テーブルの端で、スマホが一度震えた。
画面には、同僚からのメッセージ。「明日、飲み行かない?」
こういう誘いを、いつもは曖昧に先延ばしにしてきたのを思い出す。
人の輪の中に入ること、知らない話題が飛び交う場所、苦手意識。
でも、間に合ううちに動け、という声が今も耳の奥で反響している。
蓮斗のライブの日の風景がよみがえる。視線が絡んだ「気がした」瞬間。手のひらのぬくもり。
推しは推し。恋じゃない。そこは守る線。
けれど、その線を守ったままでも、走れる場所はあるはずだ。自分の言葉で、自分の足で、前へ。
「……明日、飲み、行ってみる」
小さく呟くと、トワは短く頷いた。
肯定とも、牽制ともつかない、静かな頷き。そこに含まれた温度を、たぶん悠作は分かっている。けれど、今はまだ、名前はつけない。
部屋に戻ると、布団のシーツがいつもより少しだけ温かい。トワが風を動かして、冷えをどこかへ追いやったのだろう。
電気を落とす直前、ふわりと視界の端で袖が揺れた。
「……おやすみ」
「幽霊に挨拶しても無駄だぞ」
「クセなんだよ」
笑いが空気にほどける。すぐに気配は薄くなり、闇だけが部屋に残る。
眠りに沈みかける刹那、胸の奥で小さな熱が、静かに沸騰を続けているのを感じた。それが何なのか、今はまだ決めない。決めないまま、握りしめておく。
――間に合ううちに、走れるだろうか。
問いだけを、枕の裏に隠して。次の夜へ。




