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君の声が僕を推す。  作者: 寿賀田 まさの
第1章 始まりは推し活と謎の声
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第1話 推し活参謀の声がする!

朝、目覚ましより少し早く、背中越しに低く渋めの声が降ってくる。


「そのポスター、曲線を活かして貼れ。端っこが波打ってる」

「……おはようの前に、レイアウト指導?」


壁には駆け出しの地下アイドル・高橋たかはし 蓮斗れんとのB2ポスター。昨夜、両面テープで勢いよく固定したせいで、右下がふにゃりと浮いた。


起き上がる前にそんな指摘を受けるなんて、たぶん普通の生活じゃない。

でも佐久間さくま 悠作ゆうさくの朝は、しばらく前からずっとこうだ。


見えない誰かの声がする。ときどき料理のこと、洗濯のこと、仕事のメールの文面まで口を出す。


最初はひどく怖かったのに、人間は慣れる生き物で、今では「声のある暮らし」が日常に溶けている。


「推しの舞台を整えるのは礼儀だろ。ポスターの右下、軽く温めて押さえれば真っ直ぐになる」

「……礼儀って、幽霊が言う?」

「幽霊でも礼儀は知ってる」


言い返しながら、ドライヤーを取り出してポスターの角に温風を当てる。壁紙を傷めないよう距離を調整して、指でそっと押さえると、紙は素直に密着した。

「よし、直った。満足?」

「70点。照明が悪い。電球色だと顔の陰影が重い。白昼色に替えろ」

「家電量販店の店員さん?」

「推し活参謀と言え」

「勝手に変な役職つけないで」


いつものやり取りに、気づけば口角が上がる。


声の主は、いつからここにいるのかは曖昧だ。ある日帰宅したら、食卓の上に置いた惣菜の栄養バランスにダメ出しをされて、それからずっと同じ部屋に棲みついている。


姿は見えない。

でも、存在感はやけに生活的だ。

「冷蔵庫、牛乳は手前。死角に置くな。賞味期限が死ぬ」

「死ぬなんて、縁起でもない」

「こっちはすでに死んでるから気にするな」

「そういう明るさやめて」


出勤準備をしながら、スマホで蓮斗の公式SNSや出演情報をチェックする。


小さなライブハウスのスケジュール表に、来週の木曜、蓮斗の名前を見つけた。しかもライブの後日、握手会の特典付き。


胸の奥が少し跳ねた音を、声は逃さない。

「行け」

「……木曜は残業かもしれない」

「行け。前の方を確保しろ。箱は小さい。開場の三十分前で十分だ」

「いや、そんなに簡単に」

「簡単じゃないのは知ってる。でも、お前は行ける」


断言されると、玄関の鍵を回す手まで背中を押された気がする。

満員電車の中でも、仕事中でも、その「行け」が脳内でやわらかく反復する。


昼休み、デスクの端でコンビニのパスタを食べながら、チケット予約画面を開いた。


指先はためらって、ためらって、最後に「予約する」を押す。胃のあたりがすうっと冷えて、同時に熱くなる。


「……取った」


小声で呟くと、耳の奥で小さく指を鳴らす音がした気がした。



仕事が終わると、まっすぐ帰って洗濯物を取り込み、簡単な野菜炒めを作る。シンクに立つ背中へ、声が届く。

「塩を先に入れるな。水分が出る。胡椒の後だ」

「はいはい、シェフ」

「フライパン振るのは要らない見栄。火が逃げる」

「……見られてる感すごいな」

「見えないけどな」


炒め物を皿に移し、テーブルに座る。食べながら、声の主と会話を続けるのも慣れた。独り言に見えるかもしれないけれど、ここでは独りじゃない。


「そういえば、君、名前は?」

「要るか? 呼ばなくても通じてるだろ」

「通じてるけど……呼びたい。呼びかけの言葉って、思ってるより大事だと思う」


一拍の沈黙。電子時計の秒針だけが進む音がする。


「じゃあ、つけるか。好きにしろ」


好きにしろと言われて、困る。安易に「幽霊さん」と呼ぶのは味気ない。

かといって、勝手に人名っぽいものを与えるのも違う気がする。


食後の皿を流しに運びながら、言葉を水に晒すように頭の中で転がす。


永遠。

ふと浮かんだ音が、胸に引っかかった。


「……トワ、ってどう?」

「トワ?」

「永遠、の“とわ”。勝手に終わってほしくないって意味で。いや、勝手に終わらないものなんてないって分かってるけど……それでも、君がいる日常は、できれば長く続いてほしいなって」


我ながら青臭い。言ってから、耳まで熱くなる。蛇口の水が手の甲を滑っていって、温度の変化で正気に戻りそうになる。


少し間が空いて、声は笑った。短く、どこか照れくさそうに。

「悪くない。響きが軽いのに、重い。そういうの、嫌いじゃない」

「じゃあ、今日からトワ」

「おう。よろしくな、佐久間 悠作」

「フルネームで呼ぶなよ、恥ずかしい」

「名字だけだと会社っぽいだろ」


「じゃあ悠作で」

「了解、悠作」


胸の真ん中が、不意にあたたかくなる。呼ばれた名前の重さが、思ったより柔らかい。


夜、ベッドに横になってから、チケットの予約メールをもう一度見返す。件名の文字列はどこまでも事務的だ。

でも、そこに開かれる小さな扉の気配を、悠作ははっきり感じていた。


「なぁ、トワ」

「ん」

「もし、握手会、固まったらどうしよう」

「固まる。確実にな。だから、稽古する。初手で『応援してます』は弱い。具体で行け。『前回の三曲目が刺さりました』とか、『あのブリッジの前の一瞬の間が好きです』とか。短く、誠実に」


「……やっぱり君、恋愛コンサルか何かの経験者?」

「距離の詰め方は恋も推しも一緒だ。怖いのは最初だけ」

「本当に?」

「本当だよ。俺がついてる」


暗闇の中、見えない誰かの声に、目を閉じたままうなずく。まぶたの裏に、まだ見ぬ顔の輪郭が浮かぶ。

どんな表情をしているのか、どんな目でこちらを見ているのか、想像が勝手に形を持ち始める。


眠りに落ちる直前、トワがふっと笑ったような気がした。

「なぁ、悠作」

「ん……」


「電球、白昼色に替えるの忘れるなよ」

「……そこ?」

「大事だ。推しの顔が一番きれいに見える角度、作っとけ」

「了解、参謀殿」


笑いながら、悠作は眠った。

声のある暮らしはいつもより少しだけ温かく、そして、来週の金曜に向かって、静かに速度を上げていた。

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