第三話 『北』 その十四
巨熊は近付いてくるユンクォさんに対し威嚇の目を向ける。だが、四つ足全てが動かせず、魔法もリキャストに入った今の奴に対処法は無い。精々、吼えて聴覚へのダメージを狙う位だろう。
ユンクォさんは最小限の立ち回りで、軽い身のこなしを見せ、前足を足場にしながら熊の背へと登る。確かに、自分の背に居る敵を無差別に飛来する魔法で攻撃することは本能的に忌避する筈だ。彼女は両の手を握り込み祈る様な姿勢をとり、静かに言葉を紡ぐ。
「……我等の始祖にして命を司る神よ、我が魂に秘められし神の御姿、爪牙を、心血を、世界観をもって我に顕現し、芽生と共に寔とせよ……『神契』」
詠唱の終了と同時、ユンクォさんに異変が起こる。
……いや、あれは異なる変化などではなく、正しい回帰だ。しかして成長するように爪が黒く長く鋭くなり、刃物のような犬歯は上下が交差し噛み合う。充血し、横に潰された瞳孔は獲物を見据え、吐き出した白い息、金色が冷たく光る月の白に塗られた髪は彼女を獣よりも獣たらしめていた。
人間性が薄くなり、野生味の増した姿で、――その爪を熊の首に突き立てた。空を切るようにするりと入った凶器は肉を乱暴に引き裂き、溢れる朱で爪や顔を彩る。熊は苦痛に悶絶し、涎を撒き散らしながら胴体を揺らした。ユンクォさんを落とそうとしての行動だろうが、爪が深く刺さった状態では徒に出血を増やすこととなっている。
と、いきなりの轟音。魔法のリキャストが終わったようで、石礫が再び降り始めてしまった。
が、欠片一つさえユンクォさんに飛来する様子はない。耐久の限界を迎えたことによる倒木や石の貫通で死傷者が出始める中、彼女は爪を更にスライドさせていく。
苦痛の叫びが全ての耳に劈き、苦痛を与える雨が全てを破壊していく。音が頼りにならなくなった頃、熊の首には両端まで続く裂傷が完成。丸太よりも太い首の上半分は分離していたが、熊は規格外の生命力で立っていた。
そこで、ユンクォさんは傷をこじ開けて侵入。どうやら完全な首の切断を考えたらしい。内部から爪が突出しては、裂傷を拡大させていく。クアリが防壁の補強の為に詠唱し、完了するまでには、熊の首は文字通り
皮一枚だけで繋がっていた。
全身が血濡れ、ぐちゃぐちゃになった肉に紛れて見辛いユンクォさんが、人差し指で空気をなぞる。結果、視線の先にあった千切れかけの皮は抵抗なく離れ、熊の首は重力に従って落下した。幾重にも発動していた魔法陣が維持できなくなり、役目を終えた魔力が煌々と輝いて空に舞う。生々しい断面を晒した首が地面に転がり、漸く、戦いが終わった……そう判断した時だった。
「――ちっ」
消えた筈の魔法陣が熊の胴体を囲むようにして再出現。上下左右前後、球体状に隙間なく展開された。それは巨熊が死に際に残した檻であり、処刑道具だった。
魔力察知に優れ、予め準備をしていたクアリが誰より速く行動する。
「『隆起』!」
彼女の魔法で隆起した地面が何本もの四角柱を成し、複雑に入り組むことでユンクォさんを取り囲む。辛うじて防壁が出来た頃、直ぐに魔法陣が邪悪な色に染まった。散らばって落とされていた石礫が一点に向かって集中、僕らを襲ったそれと比にならない威力がユンクォさんに向けられる。
僕は実際に喰らわずに見ているだけなのだが、それでも冷や汗と羽根で撫でられるようなこそばゆい刺激が全身を隈なく襲う。
肉が、防壁が、地面が。抉れ、削られ、壊される。磨り潰された肉と土とが積み重なり、吐き気を催す風景が形成されていく。あの中心に人が居ることが信じられなかった。信じたくなかった。
「『隆起』、『隆起』、『隆起』……」
クアリは破壊された防壁を再詠唱し補強、再詠唱し補強を繰り返す。そうでなければ最悪の未来が見える。
外側の僕らも、流れ弾による被害に注意し油断できない。僕は万が一の為にクアリの横につく。
ただ、僕達のいる防壁はボロボロではあるものの、流れ弾で全壊する程軟な強度ではないので、流れ弾に関しては杞憂かもしれない。
……駄目だ。空回りすることを考えてばかりで、世話かけてばっかで、多少強くなっただけで何も助けてやれない。手伝ってもらってばかりじゃないか。思えば、僕はこの冒険中にも理に適わない行動をすることが多かった。本当に北へ向かうだけなら、もっと直接繋がるルートはあったんじゃないだろうか。ユンクォさんと出会い、キスリさん達と出会い、こんな事をせずとも、遠回りするような道を通る必要はなかったんじゃないだろうか。本当にその意思があったなら、クアリがついてくることをちゃんと拒絶出来たんじゃないのか。
――僕は、得体も知れないそれに恐れているだけじゃないのか? 冒険者を名乗っておきながら、背中を追ってきてくれる二人よりも。
「――ニト! そっち飛んでくるぞ!」
「!」
ドキウさんの叫びで暗中に沈んだ心が復帰、咄嗟に石礫を捕捉しファルシオンの面で受けるように弾いた。二撃目を警戒しながらクアリに怪我をしていないか確認。詠唱に集中する少女の体に外傷はみられない。視覚も用いて警戒に全力を注ぐ。
……だが、警戒するまでもなく、次はやってこなかった。
当然と言えば当然だが、本体が絶命している以上、魔法陣は長い間は維持されずに散開する。奴の置き土産はあっさりと底をついたのだった。
前線に居る僕達、木の影で負傷した腕を庇ったりしている男達、全員が短時間に起こった事実を処理しきれず、激しい運動量による大きな息遣いのみが暫し流れる。
「――依頼達成」
キスリさんがそう呟くと同時、深い夜にむさくるしい歓声が響く。しかし最善の結果ではない為、一部死傷者を偲び静かに佇む者――ケルイさん等――も居る。僕は緊張で吊り上げていた糸が切れ、弱々しくへたり込む。横に居たクアリも同様。僕はもう一人を想像し、熊の亡骸へと目を向ける。
自業自得で破壊された熊の胴体は原型を留めておらず、骨すら砕けて舞っていた。悲劇の舞台に咲く花、組み合って交差していた細い土壁が崩れていき、中から獣のような風貌をしたユンクォさんが現れる。一時はどうなる事かと肝を冷やしたが、どうにか生存しているようだ。
彼女は階段を降りるように高所から降りると、身体の先端から脱色するように姿を戻していく。充血した目も飾り硝子のような美しさを取り戻し、いつもの頼もしい姿があった。




