第二話 沿岸の国にて⑦ ~下水道にて~
一個目の穴でもあった梯子をキスリさん、僕の順で降り、覗くだけでは見えなかったものが見えるようになる。
まず、キスリさんが言っていたような広い空間があった。座り心地の良さそうなふわふわの布――汚れ具合から拾い物だろう――が一面に敷かれ、小さい箱がいくつか椅子代わりになっていた。
一番奥の左側には枝木が積まれていて、布が退かされた右端にはそれらを用いた篝火があった。
彼らは篝火の周りに集まっていた。
背丈はまばらだが、成人に見える顔は見えなかった。長命種の特徴は持っておらず、正真正銘、この子らが話に聞いていた捨て子ということになる。
服装は大体汚れているが、綺麗なものを着ている子供も居た。
「あの綺麗な服は勝負着よ。捨て子だと悟られない為のね」
分かりやすい視線を送ってしまっていたようで、キスリさんが補足をしてくれる。
梯子を下る音が聞こえたのだろう。子供達は一人残さず奇異の目を向けてきていた。だが、キスリさんにも気が付いたようで奇異の代わりに歓喜の輝きが宿る。
「……キスリお姉ちゃんだ!」「ほんとだ、キスリお姉ちゃんだ!」「姉ちゃん!」「この間来たばっかりなのに……嬉しいな」「姉さん」「お姉ちゃーん!」
群体が押し寄せ、キスリさんを囲む。彼女は出来る限りに胸を広げた。
「ふふ、落ち着きなって……。ほら、私は一人しか居ないよ」
特に小さい子達が我先にと抱きつこうとし、年長者組はこの風景を見て喜びの表情を浮かべていた。
「どうしたんですか、キスリ姉さん。短期間で二回も来るなんて……って、十中八九後ろの方のことですよね」
物理的に頭が一つ抜けた男の子が話し掛けてくる。頭抜けているといっても、子供達のほとんどが腰より低いため精々青年と呼べるくらいの成長度だ。他の何人かも僕を注視している。
「イヌク、紹介するわ。この人は……」「待ってください。当てます」
腕を組み、体をくねらせながらよーく考えている。そしてはっ、と閃いたような顔をして僕を指差す。
「ずばり、彼氏ですね?」
「馬鹿ね」「あいたっ」
キスリさんはため息を溢しながらデコピンをかます。僕の方は少し動揺して吹いてしまった。
「違うのかあ」
「まあ、異性連れてきたら確かにそう思われても仕方ないけどね」
「……ごめんね、紛らわしくって」
「あなたは謝んなくていいの。この子が勝手に勘違いしただけだし」
こういうからかいは慣れているのか、キスリさんが揺れる様子はなかった。
「えー、……お兄さん、本当に違うんですか」
「うん、違う。僕はなんというか……一緒に遊びに来た知り合いって感じだよ」
「遊びに来た?」
キスリさんに周りに居た子供達の何人かがこちらを向いた。
「お兄さんも遊んでくれるの?」「ねえねえ、お姉ちゃんのカレシさんも遊んでくれるって」「ほんと!?」
「ちょっ、僕はキスリさんとそういう関係じゃ……わわっ」
子供達の集団が一気に囲い込む。一人一人が同じような質問をぶつけながら手を伸ばしてくる。子供をあやすのが得意じゃない僕としては危機的な状況だ。
「ほら、イヌクが変なこと言うから彼が大変なことになってるじゃない」
「だって、二人の姿がお似合いだったんですもん」
「談笑してないで助けてくれませんか!?」
この間も足元から「どのくらい仲良い?」、「どこで出会ったんですか?」、「やることやったの?」とあちらこちらから疑問が飛んでくる。――なんか一人ませてる奴いるな。
「ねーねー、どうなの?」
「えーと。あのね、遊びに来たのは間違ってないんだけど、その、キスリさんと恋人関係って訳じゃないんだ」
「ほんとー?」
「正真正銘、掛け値なしに、うそ偽りもなく本当だよ」
「そう言ってー、嘘ついてるんじゃない?」
「――いや、嘘なんて全くついてないさ。付き合ってます、って大きな声で言えない奴に彼氏を名乗る資格は無いだろ」
「おおー」「それっぽい」「イケメンだー」
子供達から感嘆の音が漏れる。大人に言ってもこうは褒めてくれないだろう。
「お兄さん、かっこいいっすね!」
「……あれ? でも、お兄ちゃんが言えないのは、お兄ちゃんが彼氏じゃなくなっちゃうってこと?」
子供達から残念そうな声が発される。自分から突き付ける予定だったが、察しがいいな。
「分かった? 僕は別にキスリさんと愛を誓い合った仲では」「待って! 彼氏じゃなくなるって話なら、元々彼氏の位置に立ってないとおかしい!」
名探偵ばりの決めた顔でショートカットの少女が指を指す。周りの反応はというと。
「つまり……元カレ元カノの関係か」「ドラマチックだー」「ドラマチックってより、ドロドロマチックじゃない?」「ドロドロマチックだー」
勝手に僕とキスリさんの関係が昼ドラの愛憎劇の如く歪曲されている。
……昼ドラって何だ。強そう。
「ち、違う。まず、じゃなくなるって前提がおかしいんだそれは。資格が無いってことは、彼氏になるという行動すらありえない。もっと前から事実を眺めてみれば分かると思うんだ」
「じゃあ、二人はいつ付き合ったんだろう……」
「だから、付き合ってないんだって」
「嘘だ」「嘘だね」「嘘だー」「……嘘だよね」
…………。
さっきよりも全力のSOSをキスリさんに送る。『もうどうしようもないです、助けてください』と。
「ふふふ。……みんな、その人、ニト君は私の彼氏や元彼じゃないわよー。だって、もう彼女いるもの」
「……へ」
「なんだ、お姉ちゃんじゃないのかあ」「じゃあお姉ちゃん以外の人ってどんな人ー?」「気になるー」
「まさか彼女が居たなんて……。ニトさん、申し訳ないことを言ってしまいました」
「ちょっとお! キスリさん、火に油注がないでくれます!?」
意地悪が趣味じゃないって嘘だろ。僕を子供達の生き餌にしやがった。僕SOS送ったよな?
「えー? でも本当のことでしょ?」
「いやいや、居るっていうか、大切な人なんて……」「こうやって謙虚ぶるけど、いたく彼女にぞっこんなのよ? 昨日、私の前でもいちゃいちゃしてたしね」
「……お兄さん、すごいっすね」
「すごいすごーい!」「……すごいね、お兄さん」「やってるんじゃん、すげー」
場の空気が斜め横の方向に上がっていく。すっかり大注目されていた。
「キスリさん! 僕で遊ぶのやめくれませんか!?」
「私は事実しか言っていないわよ?」
「別世界の僕の話してるんじゃ……あれ」
僕の周りには相変わらず子供達が群がっているが、キスリさんの周りに何人かまだ残っていた。
「君は……」
特にしっかりとキスリさんに抱きついたままの子が一人。見覚えのある顔だ。
「……」
伏し目がちで僕の顔を見ようとしないのが大きな証拠。この子で間違いない。
僕はゆっくりと子供達の間を抜けていく。
「……えっと、フォアと何処かで?」
「長い付き合いじゃないよ。今日出会ったんだ」
勝負着とキスリさんが呼んでいた綺麗な衣服を着ているのが彼、フォアを含めて何人かしかいないのは、在庫が余っていないことと、服を着た者の役割を含め考えると、交代制や世襲制なのかは知らないが、少なくとも今日の行為は彼らだろう。
それ故今日、というワードで不安を煽ってしまったらしい。イヌクと呼ばれた青年や周りの子達が心配そうな顔を浮かべる。
「あー、また違う勘違いをさせてしまっている気がするな。僕は怒りを燃やして足を運んで来た訳じゃないよ。ですよね、キスリさん」
真っ直ぐキスリさんにアイコンタクトを送る。
「その通りよ。元々私が連れてこようと思ったのが始まりだからね」
似た事を考えていたようで、アイコンタクトを送るまでもなくフォローを入れてくれた。
彼らは法律上の罪を認識し、犯していると感じている。一瞬盗みをしていることを忘れてしまうぐらいには純粋なこの子らに、ストレスを与えるのは喜ばしくない。
キスリさんの言葉もあってか、不安は見られなくなった。しかし、当事者は周りほど落ち着いてはいられないようだ。
こうなるならやらなければよかったが、動いてしまったものは仕方がない。速度を落とさずにフォアへと近づく。キスリさんのスリットスカートに皺が増える。
工夫せずに手が届く距離になったので、頭の高さをフォアと並べた。
「……」
眼前の命がふるふると小さく揺れている。
「……あのさ、サンドはどうしたんだ?」
「……」
僕の手で包み込めるほど小さく、一点に定められていない指先を、先程子供達が集まっていた篝火に向ける。
ファーストコンタクトでは彼らに阻まれ上手く見えなかったが、側に膨らみを失った麻袋とソースで汚れた紙切れが落ちていた。
「みんなで食べたのか?」
「……はい」
正直であったがゆえか、恐怖に歪んだ顔を隠せていない。僕は心から、ありったけの優しさを込めた声で、言い聞かせるように発した。
「……良かった。美味しかったろ」
少年は固まり、僕の言葉を反芻していた。一分も経たないうちに困惑した声を出す。
「……僕、お兄さんに悪いこと……」
「何言ってるんだ。君らが生きるためなら、一つも不満なんてないよ。むしろ嬉しいまである」
これは本心だ。混じりけのない本心だ。
フォアは目蓋を大きく開き、瞳孔を小さくする。そして、潤み始めた目のまま抱き付いてきた。僕は少年を更に上から包み込む。
張りつめた緊張が解けたのだろう。僕の半分もない体は胸の中で小刻みに震えていた。
「ごめんな。怖かったよな」
彼の視点から考えれば予測できる結果だったのに、浅はかな行動をしてしまったものだ。
ううん、とフォアは細い首を振る。
「……お兄さんには、謝らないでほしい」
濡れた目線から、幼い小躯の強い抱擁から、触れる体の暖かさから、指一本が丁度入りそうな口から溢れた言葉に髪の毛よりも細い嘘も含まれていないことが分かる。
「……そうだな。それじゃ、遊ぼう」
僕は至近距離で花開いた笑顔に、どうしようもない嬉しさが抑えきれなかった。
「……ですね! 遊びましょう! 皆で!」
唯一心配な顔が残っていた(僅かなものではあったが)イヌクが場の空気を盛り上げる。キスリさんは安堵に仕方がないといった感情が笑顔に乗っていた。
「何しよっか」「いつものお姉ちゃんのやつがいいー」「お兄さんに教えようよ」「さんせーい!」
「はいはい。すぐ用意するから待っててね」
一部が跳び跳ねながら何で遊ぶか会議をする子供達に、持っていた小さな荷物から紙やら駒らしき石やらを取り出し並べ始めるキスリさん。
当たり前に繰り広げられているのであろう光景は、ムニナで一番不幸であるはずの子供達が、視界を埋める下水道の隙間が、この世界の何よりも幸せに見えた。
だが、これは僕の視点からという前提がついてくる評価で、全員の心を読んだ上の言葉ではない。ユンクォさんが居た方が正確な鑑定が出来ると思ったが、事実として居ない以上、無駄な思考だと悟った。