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 いつものように夜の闇と土壁が現れたが、違っていたのは、待っていたようにあの少年が最初から善子の前に立っていたことだ。また彼は今までのように暗く沈んだ顔ではなく、憑き物が落ちたような涼しい顔で彼女を見つめていた。そのゆるんだ目は、どこか優しげですらあった。

「やっと、わかってくれたんだね」

 少年は言った。以前のように彼女の姿が見えていないようではなく、しっかり認知して話しかけてくる。また周りも以前のような無音状態ではなく、彼の透き通るような声がよく聞こえる。


 だが善子は、まだ腑に落ちないことだらけだった。

「いったい、どういうことなの? あなたは、だれ?」

「予想はしてると思うけど……」

 聞かれた少年は、生真面目な顔になって答えた。

「僕は、君がさっき会った男の十六年前。四歳のころのあいつさ」

 そして彼は、自分と彼女がいま置かれている状況について説明した。それは、善子には驚きと悲しみに満ちた悲劇の物語だった。




 彼……一樹は、不幸な育ちだった。彼の母親は、よくある話だが、(しゅうとめ)に嫌われてことあるごとにいじめられ、夫も仕事を言い訳に助けてくれず、次第に彼への愛情は冷めていった。といって子供がいるうえに一人でやっていく自信もなく、離婚もできず、仕方なく歯をぐっと食いしばり、毎日欠かさずわが身に降り注ぐ、嫌みと酷い扱いの嵐に耐えながら、つらい日々を過ごしていた。


 幼い一樹は、そうして苦しみに耐え続ける母の背中を見て育った。そして自覚はなかったが、母を助られない、なにもできない己の無力さに罪悪感を覚え、心の奥で自分を責め続けることになった。それは彼の自己評価を著しく低めたが、ただでさえ両親とも彼を叱りはしてもほめることはめったにしなかったので、ますます彼の自己肯定感は消え、生活への安堵感もなくなった。一樹は四歳にして元気がなく、笑顔の少ない、いつもおびえた目をした暗い子供になった。


 彼が幼稚園に通っていたころ、ちょっとした事件が起きた。しかしそれは結果的に、一樹にとって人生を左右する一大事になった。なぜならその出来事は、彼のこれまでの人生において、記憶が完全に欠落した部分を有しているからである。

 いま二十歳の彼は、もう細かい部分は覚えていないが、保母さんが保育室に入ってくる場面なので、おそらく朝か昼休み明けだったろう。ほかのたくさんの園児たちが、子供らしいおふざけで保育室のドアをみんなして内側から押さえ、保母さんが中に入れないようにしていた。やってきた彼女は締め出されたと知り、扉の窓から部屋を覗きながら、一緒になってふざけて、泣きまねなどをしていた。それは誰が見ても、単に子供たちと保母さんが遊んでいるだけの、ほほえましい光景でしかないはずだった。

 だが一樹は、それを遠巻きに見るうち、突如、心にどっと激しい火がついた。

(お母さんが泣いている!)(助けろ!)(今こそ、お母さんを助けるのだ!)(行けええ!)

 体がそう叫ぶや、彼はあっという間にロケットのごとく飛び出し、何人もの園児がたかっているのもかまわず、そのドアを一気に、ガッ! とあけた。そして、おそらく目を丸くしているだろう保母さんの胸に飛び込み、極度の緊張がほどけたせいで、ただ身も世もなく、わあわあと泣きじゃくった。


 このとき、彼は無意識の中で「部屋から閉め出されてべそをかく保母さん」と、「祖母に虐げられて泣く自分の母親」の二つを、完全に同一視していた。そして気づけば、幼く小さな体の全ての力を振り絞り、決死の覚悟で「敵」の懐へ飛び込んで、保母さんという「母」を、彼女の窮地から「救出した」のである。

 後になると、彼にはそれはきわめて非現実的で、まるで夢のような、フィクションのようなありえない行動に思えた。なぜなら、現実に自分の家庭で母親を救うことは絶対に不可能だったのが、いきなり条件がそろってしまい、(たとえ疑似的であっても)それが現実化してしまったからだ。幼稚園で保母さんを救ったことは、完全に母に対するそれの代替行為だった。


 しかし、そもそも無力な幼児が、わが身を犠牲にして親を救おうとすることはほぼありえず、実はその真の意味は正反対だった。

 彼は愛されることを欲していた。母に愛されたいという強い願いを持ちながら、決してかなわないと知っているので、逆に彼女に尽くして認められることで愛されたい、と無意識に願っていた。そんなある日、思いがけず機会を得て、母代わりの保母さんに衝動的に飛び込み、彼女から認められることによって、母からもらえなかった愛を得ようとしたのである。

 だが、その目論見はついえた。




 一樹は、その後なにがあったのかを、まったく覚えていないが、間違っても良い体験はしなかったろう。良いことなら、つまり「愛されたい」という願いが叶ったのであれば、脳がわざわざその記憶を消し去る必要などないからだ。おそらく思惑が外れて、保母さんに嫌われて拒絶されたか、そうでなくても避けられたり、逃げられた可能性が高い。あるいは呼ばれでもして母親が来て、彼を無神経に叱ったかもしれない。

 なんにしろ、その体験が彼の精神にとり、きわめて致命的だったのは確かである。ひとりの幼児が、その人生の全てをささげ、全身全霊を賭けて挑んだ「戦い」が完全に失敗に終わり、みじめに「敗退」したことは、おそらく、彼の心身に耐えがたいダメージを与えただろう。そのままでは幼い精神が崩壊する危険すらあったために、彼の意識はその記憶自体を封印し、なかったことにしたのである。こうして彼は、その幼稚園での事件のてん末を完全に忘れた。


 その後、一樹はなにをするにも常におびえて遠慮しながら生きるようになる。「自分は無価値である」「存在する意味がない」と、自己肯定感が完全にゼロの、無力な人生の失敗者、敗残兵として成長した。家族は、彼がなぜこうも暗く落ち込んで生きているのか、まったく理解できなかった。母親は、彼の幼稚園での体験を、ただのささいなこととして気にしなかっただけでなく、彼のダメさをただの甘えととらえ、しつけのつもりで暴力をふるった。実は彼女は親から虐待されて育っており、その関係は息子とのあいだでも連鎖するだけだった。


 こうして一樹は、成人したのちもずっと対人恐怖に苦しむことになった。だが華やかなはずの大学生活が、今までどおり暗くみじめなままで過ぎているだけでなく、就職後の人生にも絶望しか見いだせなくなった彼は、大学二年目になると、ついに今まで不信感で敬遠していた心の専門家を頼るようになる。が、どこのカウンセリングを受けても、症状が和らぐことはなかった。

 そのうち彼は根本の原因が、かつての幼稚園での記憶の欠落にあると、うすうす気づくようになった。あのとき封印し忘れ去ったトラウマが、自分の今の酷い状態の大きな原因の一つに違いない。だから、洗い出して自覚しなければ、状態は良くならない。

 当時の彼は、それほどまでに深く傷ついた。幼子の身で、母の愛欲しさに命をかけて特攻し、玉砕した悲惨きわまる記憶は、そのまま生き続けるためにはダメージが強すぎて、とても意識下に残すわけにはいかなかったのである。


 だが、一樹は今やもう二十歳だ。幼児のころと違い、今なら思い出しても、きっとそのトラウマに耐えられるはず。いや、絶対に耐えて治さねばならない。この先の人生がこれ以上の地獄にならないように。

 そう決意し、彼はセラピーを受けることにしたのだった。






 全てを話し終えた彼は驚いた。善子は顔をくしゃくしゃにゆがめ、その大きな瞳から大粒の涙をぼろぼろと流して泣いている。思わずどうしたかと聞くと、彼女は涙を拭くのも忘れ、肩をこわばらせて悲しみに耐えていたが、嗚咽しながら、ひきつったように、やっと言葉を発しだした。

「だ、だって、そんな……あんまりだよ、ひどいよ……」

 そして掌で涙をぬぐいながら子供のように続ける。

「か、一樹くん、なにも悪いことしてないじゃん……お母さんのために、そんなに一生懸命がんばって、がんばって、なのにそれ、全部ガン無視じゃん……ありえないよ、そんなの……」


「ありがとう」

 一樹は寂しい笑みで言った。

「君は優しいね。僕なんかのために、こんなに泣ける君だから、その力が授かったんだろうね」

「ちから……?」

 善子は顔をあげた。

「僕は……」

 真顔で、ぽつりと言う少年。

「もうすぐ、壊れる」


「こ、壊れるって……どういうこと?」

 気持ちが落ち着いてきた善子が驚くと、彼は深刻な口調になった。

「今、二十歳の僕は、セラピーを受けて無理にあの記憶をこじ開けようとしている。今ならきっと耐えられると思ってるから。でも、ダメだ。

 あのとき、この世で一番すがった人、母の代わりに愛した保母さんに、きっと無残に裏切られたその恐ろしくて悲しい記憶は、心に致命的なダメージを与えるからこそ、精神が封印したものだ。それは、たとえ体が成長しようが関係ない。呼び起せば、今も壮絶な打撃を受けるはずなんだ。

 だから、君も見たあの病院で、いま治療を受けたら、僕の精神は確実に崩壊する。つまり、もうすぐ僕は、壊れる」

「ど、どうすればいいの?!」

 善子は思わず叫んで駆け寄り、しゃがんで彼の両手を取った。もう以前のようにすり抜けはせず、肉体があるように、しっかりと握れた。それは小さかったが、夢とは思えないほどに、あたたかくて血の通う手だった。

 彼は微笑み、彼女の目を見つめて言った。

「もう……分かってるんじゃない?」

「あっ……」


 気づいて左を見れば、ぽっかりとあく例のトンネルがあった。すぐに意味を悟り、善子は立ち上がると、一樹の手を引いて、その真っ暗な穴に入った。歩きながら、彼女は自分の中に熱くみなぎる、ある強固な意志を感じていた。

(じつは最初から知っていたのだ)(私が、このために生まれてきたことを……)

 なにも見えないが、怖さも不安もない。しばらく進むと、突然周りが白くまばゆい光に包まれ、髪が逆立つほどの波動が来た。

 気づけば一樹はおらず、上からただその声だけが響いた。

「ありがとう善子。あの記憶は完全に封印された。もう二度と思い出すことはないだろう。これで、僕は壊れなくて済む」


 善子は叫んだ。

「こ、こんなんで、ほんとにいいの?! また何かで思い出したりしない?!」

「もうどんなに強力な治療を受けても、トラウマを掘り起こすことはできない。今してくれたように、これができる力を、善子、君は持っているんだ。


 君のおかげで、僕は助かった。お母さんも、保母さんもくれなかった愛を、君が僕にくれたんだ。

 ありがとう。

 本当にありがとう……」

 そして唐突にすべてが真っ暗になり、気づけば、夕暮れのベンチにいた。




 身を起こすと、左に誰かいる。驚いた。いま現在の、二十歳の一樹だった。

「えっ、ずっといたの?!」

「だって、見てたら寝ちゃったから」

 一樹は横向きに立ったまま、バツ悪そうに言った。頬が赤らんで見えるが、夕日のせいかもしれない。

「ほっといて帰るわけにもいかないし」

「ご、ごめ……いえ、、すみません」

 夢のノリでついタメになりかけ、丁寧語で謝った。

 にしても、ずっと見ててくれたなんて、優しいとこあるんだな、と思ったが、夢の中の彼が優しかったので、なるほど、となった。しかしこの一樹さんは、いま夢の中で彼女が子供の彼と会話したことは知らないようだ。


 善子はベンチに腰掛けたまま、一樹はその左に突っ立ったまま、しばし沈黙が続いた。白い軽トラックが来て、うなりとともに二人の前を過ぎると、善子が言いにくそうに聞いた。

「あの……カウンセリングは……」

「予約時間を過ぎたから、今日はキャンセルにしてもらった」

「す、すみません、私のせいで……あっ!」と不意に気づいて立ち上がり、彼を向いて拳を握り、前のめりであわあわと口をあけて、「きゃ、キャンセル料、かかりますよね?! 払います!」

「いいよ、たいした額じゃ」

「カウンセリングなんて保険きかないから、一時間、一万はするじゃないですか! ちょっと待ってくだ……」

 財布をあけて固まった。夕飯の買い物代の千円札一枚しかない。キャッシュカードも使わないから作ってないし、銀行のはうちにある。

 万事休すだ。

 様子で相手もそれがわかったようだった。


「い、いやほんと、無理に払ってもらわなくても」

 彼はそう言ったが、目をむきながら両手を振ってなので、あせりまくっているのは明らかだった。恐怖症だから仕方がないが、今の緊張状態から早く逃れたくて、出費のことを気に掛けるどころではないに違いない。

 善子はそう思い、なにがなんでも弁償しなければ、と必死になった。

「ええと、あした……は無理だから……。一週間後の今日、今の時間はあいてますか?!」

「えっ、来週の今日? だ、大丈夫だけど……」

「じゃあ、ここで待っていてください! 必ず一万円、持ってきますから!」

 叫ぶように言うや、有無を言わさず背を向けて歩道を駆け出したが、すぐ振り向き、「絶対ですよ!」と念を押して、そのまま走り去った。

 一樹は固まったまま、その後ろ姿を見送った。



 善子は目的のスーパーが正反対の方向だとすぐに気づいても、かまわずいつまでも走り続けた。家に着けたのが不思議なくらい、ずっと頭の中がまっしろだった。夢の中の異常体験の衝撃が、今頃きたのかもしれない、と思った。


 マンションの自宅のドアまで来て、呼び鈴を押して初めて、姉に薬が減ったことをどう言い訳しようか、と思った。

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