表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

 高校一年の善子が妙な夢を見るようになったのは、二週間ほど前からだった。空も周りも墨を塗ったようにどんよりと暗く、時刻はかなり遅いようだ。目の前は一面こげ茶色の土壁で、いくつもの太い木の根が、そこかしこでむき出てはまた潜っているので、そこが山の中と分かる。おそらく切り立った崖の下で、その土の壁の前に自分が立っているようだが、その場所に見覚えはない。といって不安もなにもないので悪夢という感じはなく、しばらくはその土面と無感情に対峙する。夜中で月も出ていないようなのに、土の色や木の根が見えるのは妙なことだが、夢だからかもしれない。


 だが、すぐに困惑する状況になる。突然、土面の前に一人の子供がぽっと現れ、悲し気な顔でこっちをじっと見つめる。白い半そでのTシャツを着て黒ズボンを履いた五歳くらいの男の子で、刈り上げた頭のせいか、その暗くくすんだ顔がいっそう大きく悲壮に見える。泣きたいのをぐっとこらえているらしく、幼い子供が悲しみに耐える姿は、見ていてきつい。善子はたまらなくなって声をかけるが、聞こえないのか、あるいは向こうからは見えていないのか、ただ彼女を見つめるだけで、反応はない。だが、その苦痛に深く沈む瞳が、絶望しながらも、心底から助けを求めているのは明らかだった。

 しかし善子が駆け寄って手を触ろうとしても、つかめない。幽霊のようにすり抜けるというより、どこからか映写されている映像に手を出したみたいだった。この夢では音はいっさいなく、相手の鼓動も息も聞こえないので、昔の無声映画のようでもある。

 そのうち少年が両手で目をこすって泣き出し、善子がますますいたたまれなくなったとき、自分の左側に、

ぽっかりとあいた大穴があると気づく。それは土面をくりぬいて作られたトンネルだった。車一台は通れそうに見える、その真っ暗な空間が急に大きくなり、はっと目が覚める。


 そんな異様な夢を、ここ二週間で少なくとも五回は見た。今の少年だけではなく、女の子だったこともあるが、共通しているのは、みんな子供で悲しげであること、そして左にあるトンネルに気づいたところで夢が終わることである。

 そしてまた変わらないのは、身を起こすと、何か大事なものをどこかに置いてきてしまったような喪失感、寂しさが残ること。

(まただ)(なんなんだろ、これ……)

 今朝もそう思いながら、善子は布団から出た。



 毎朝するように洗面台で顔を洗い、髪の両サイドをピンクの輪ゴムでポニーにしてから食堂に行くと、先客がテーブルに皿を並べている。おはようと言うと、彼女は並べた二枚の皿にパンを置きながら、笑って返した。

「お姉ちゃん、気分はどう?」

 善子の問いに、その二つ上の姉は苦笑いになって言った。

「昨日よりはいいわ」

 長いさらさらのロングを左で束ねている面長で大人っぽい雰囲気の姉は、善子が丸顔のふわふわ髪で、どこかにまだ中学までの子供っぽさを引きずっているのとは対照的。善子がお茶の用意をしながら、「今日、また病院だから」と言うと、姉は満面の笑みになった。

「ありがとう。ほんと、助かるわ」

 姉に夢の話はしていない。余計な心配をさせたくないとかの気遣いではなく、たんに話す機会がないからだ。姉の病気はそこまで深刻ではない。




 夕方、学校帰りに寄ったいつもの病院を出た善子は、新規のスーパーで買い物して帰ろうと、違うルートを取った。住宅地の細道に入って出た先は開けた交差点で、向いに見える通りは商店街になっている。帰宅時間の始まりで、辺りは通行人がちらほら。

 お目当てのスーパーは街道を右へ行けばいいはずだったが、ふと左側、自分の立っている歩道側にある建物が気になった。それは白くて清潔感のある角ばった洋風の二階家で、見れば、入口の向かって右の壁に正方形の白い看板が出ている。「〇〇カウンセリング・ルーム」と緑の文字で書かれたそれは、客がカウンセラーに心の病を相談する施設ということだが、善子の目は、今その看板の前を行ったり来たりしている一人の男をとらえた。


 歳はおそらく二十歳くらい、やせ型の中肉中背。短髪で、服装は白い半そでTシャツにグリーンのスラックスというよくいる感じの男。顔だちはけっこう整ってそうだが、その所作のせいで、かなり台無しになっている。不安そうにきょろきょろした目と、険しいしわが寄る眉間に、きつくへの字に結ばれた口元。猫背で両肘を内側に曲げ、握った拳を神経質そうにふるふる震わせている。細い両足もがに股で、それをせわしなく動かして、入口の前へ行ってガラス戸を見つめては、また看板へ戻る、という不審な行為を何度も繰り返している。どう見ても、中に入るのをためらっている様子だ。入りたい、だが入る勇気がない、どうしよう……と、その動き、体、表情のすべてが如実に語っていた。


 善子は数メートルほど先まで来て彼を眺めた。相手はしばらく気づかずに奇行を続けていたが、ふとこっちを見た。

 目があった。

(あっ……!)

 男もそういう目になったが、善子の方が驚きでその倍くらいに目を見開いた。それは、夢で何度も見たあの少年とまるで同じ目だった。「単に似ているだけなのでは」とはまるで思えず、善子は一目で確信してしまった。

(この人は、あの少年だ)(いや、この人の幼いころが、あの子なのだ)(それを私は夢で見た)(夢の中で、私はこの人の過去に会ったのだ……!)

 普通に考えたら、ありえないことである。

 だが、彼を見るほどに、善子の中でその思いは、ゆるぎないものになった。


「なにをしてるんですか」

 唐突に善子は聞いた。普段は見ず知らずの他人にいきなり話しかけるなどまずしないのだが、このときは口が勝手に動いた。

「な、なにって……」

 男はしどろもどろに言った。顔面蒼白で口をぱくぱくあけ、どうも「不審者と思われたに違いない」という恐怖に襲われたらしい。一方の善子は学校帰りだからセーラー服の白い夏服で、首からさわやかな水色のタイを下げている。しかも本人はそう自覚はないが、学校ではわりとモテる容姿である。そんな女子高生に疑われるのは、若い男としてはかなり怖いことだろう。下手すれば通報である。

 が、彼女はかまわず聞いた。

「そこに入るんですか?」

「そ、そうだよ!」

 ヤケになったのか、男は険しい顔のまま吐き捨てるように言った。

「ぼ、僕は、対人恐怖症だ! だから、ここで治療してもらうんだ! 悪いか!」

「治療?」

「ああ……」


 大声を出して緊張がゆるんだせいか、急にぐったりする。彼女に疲れ果てた目を向けるやあわててそらせ、無意味に足元の路面を見ながら、言い訳のように続ける。

「ここはセラピーをやってて……催眠療法っていうらしいけど……。ぼくは子供のころに記憶が欠落した部分がある。たぶんすごくショックなことがあって、心がその記憶を封印して、忘れさせてるんだ。それを子供のころまで記憶をさかのぼって思い出させる、っていう治療をね、ここでやってくれる、っていうから、その……」

「思い出すと、治るんですか?」

「カウンセリングは、患者に自分の過去を話させて、そういう心が封印した記憶を思い出させて恐怖症とかを治すものなんだが、僕の場合は話すだけじゃ全然だめだった。だから、ここへ来た。けど……」

 要するに、今度こそ病気を治したいのだが、徹底した治療を受けるのは怖い。それで中に入るのを迷っている、というわけらしい。

 善子の脳裏にふと、あの少年の顔が浮かんだ。絶望に沈む歪んだ泣き顔。幼い子供が背負うには重すぎる鉄の十字架のような苦痛に、今にも押しつぶされそうになりながらも、歯を食いしばってけなげに耐えている、あの痛々しさを思った。

 そのとき、はっと気づいた。


「ここで待っていてください!」

 いきなりそう言うと、背を向けて街道の向こう側へ駆け出したが、すぐに振り返り、口の脇に右手をあてて叫ぶ。

「絶対、中に入らないでください! 私が戻るまで、そこで待ってて!」

 男は肩を落とし、きょとんとして彼女を見送った。



 向いは商店街の入り口で、その左は藪になっている。その前にベンチがあったので、善子は座るとカバンをあけて白い紙袋を取り出し、中からいくつもの錠剤が並んで包装されたプラスチックフィルムを抜き出した。ついさっき姉のために病院でもらった睡眠薬である。

 酷い不眠に悩まされている姉は、保険証もマイナンバーカードもないので病院に行けず、仕方なく毎回善子が自分のためと称して薬をもらっていた。これは姉に「効かない」「効かない」と言われて三度目に出してもらった、かなり強力なやつである。

 飲んでベンチに横になる。案の定、強烈な眠気がさして、すぐに眠りに落ちた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ