信じる者は最強…。その2
子供ながらに我が家は裕福ではないと薄々気付いていた。
何故なら、誕生日に欲しい物があっても買ってもらえた記憶がないから。
私の誕生日ですら、望んだ物が手に入らないのに、赤の他人であるキリストの降誕祭であるクリスマスに貰える物なんてあるわけない。
でも親も私の事を可哀想だと思ったのか?
いや無いよりはマシと思ったのか?
クリスマスの日には、お菓子が入ったサンタのブーツが枕元に置いてあった。
初めてサンタのブーツを見た時は感動したが、毎年同じ物となると、感動は薄らいでいった。
今思うと親心だったと思うが、
私はこのブーツをきっかけにサンタクロースの正体は親なんだと悟った。
悲しかったのは、友達同士でサンタからのプレゼントを見せあっていた事…。
私は中身がなくなったサンタのブーツを見せては
友達から「またサンタさんのクツ。」と笑われる。
このお決まりのパターンに嫌気がさしたある年
友達がいつものようにサンタからのプレゼントを自慢している時「サンタなんていないよ。サンタはお父さんとお母さんなんだからね。」と私は事実を告げてしまった。
友達の顔色が変わりその場が凍りついたように思え
まずいと後悔しかけた時
「サンタさんはいるよ。」「いい子にしてるたらサンタさんからプレゼントが貰えるんだから。」「いい子にしないとダメなんだよ。」と私がいい子じゃないから、サンタのブーツなんだと一斉に責められた。
皆のパワーに押し切られ私も表向きはサンタはいる。という事でその場は落ち着いた。
そんな幼少期だったから、子供の頃に親から貰ったプレゼントで一番印象に残っているのは、三輪車…。
幼いながらも三輪車は高価な部類に入ると思えた。
クリスマスや誕生日でさえも望む物を買ってくれた事がないのに、まぁ望んではいないけど三輪車が
我が家にやって来た時は嬉しかった。
親の気がふれたのか?それとも血迷ったのかは分からなかったが、その日は親が止めるのも聞かずに三輪車を布団に入れて寝た。
次の日、いつもより早く目が醒めて、三輪車が隣にあるのを見た時には夢じゃなかった事に喜んだ。
子供にとって三輪車は、大人でいうスポーツカーのようなもの。
その日から三輪車が私の宝物になり、誰にも触らせなかった。
母親からは何度も「貸してあげれば良いじゃない。」と言われたが
誰が自分の宝物を「ハイ、喜んで」と、流行りの曲のように差出すはずがない。
当時、私が住んでいた社宅の前の道路は、坂道になっていった。
私はあの坂道を三輪車で駆け降りれば空を飛べるのではないかと考えた。
そう三輪車は私にとっては魔法のホウキと同じで空を飛ぶ道具だと思えた。
これぞ神から与えられた力…パート2
私は試すしかないという思いに駆られた。
家の前の坂は、幼い子供からすれば険しい山を登るくらい大変、もちろん登山の経験などないけれど、私は三輪車を必死に漕ぎ息も絶え絶えになりながら頂上を目指した。
そして急な坂道を一気に駆け下りた。
ペダルを漕がなってもかなりのスピードが出た。
私は上手く三輪車を扱えず、無惨にも三輪車ごと坂道を転がって行った。
その様子を見ていた友達からは歓声と同時に悲鳴があがり、道路に横たわる私のもとへ皆が駆け寄って来て「大丈夫?」と恐る恐る尋ねてくる。
私は恥ずかしさもあり「大丈夫。」と額から血を流しながら笑ってみせた。
友達はドン引きだったけど私はめげなかった。
何故なら空を飛ぶ事の方が重要だったから。
私は、自分の怪我よりも三輪車の無事を確かめた。
当時の三輪車は、私よりも頑丈に出来ていたのか
多少の傷はあったけど空を飛ぶには問題はなかった。
それからも坂道からの滑走は続き名誉の負傷も続いた。
ある時はたんこぶやかすり傷だけで済んだが、ある時は数針縫う事もあった。
怪我をする度、母親にこっぴどく叱られ、病院へ連れて行かれるという繰り返し。
ほぼ毎日病院へ通っているものだから、先生も呆れて「そのうち脳みそが吹き出るから止めなさい。」
と、恐ろしい事を言われ、友達からも止められたが私の意思は固く諦めずに続けていた。
だけどついに終わりを迎える時がやって来た。
そう三輪車が壊れてしまった。
私は一度も空を飛ぶ事が出来ないまま、力を試す事も出来ずに終わってしまった。
今思うとETがいなかったから、空を飛べなかったのかもしれない。
そうなると神の力とは関係ない話になってしまうので、この話はこれ以上掘り下げずにいよう。
神の力の代わりに、私に残ったのはオデコに刻まれた名誉の負傷、いや勲章がある。
その傷痕が三日月形なものだから、当時を知る友達からは「天下御免の向こう傷。」と語り継がれ、会うといまだに笑われている。
何の事か分かる人はいるかな。
私は空を飛ぶ事は出来なかったけど、まだ神の力があると信じて疑わず、更なる能力を発揮するのでした。