愛が痺れた
先日、ニュース番組で「働く女性の栄養不足」という特集を見た。
首都圏で働く女性の食生活について調べたところ、多くの人が一日に必要なエネルギーを摂取していないという結果が出たらしい。その結果は、終戦直後よりも栄養飢餓状態らしい。
アナウンサーの女性が、一日に必要なエネルギーや、働く女性たちの実際の食事内容について話しているのを見ながら、わたしもそうだったな、とぼんやり考えていた。
以前のわたしも、必要なエネルギーを摂取できていなかった。
仕事に追われ、口にするのは、デスクで手軽に食べられる菓子パンやサラダやヨーグルト。朝や昼を抜く、ということもよくあった。
それでもまあ元気に仕事ができたし、そもそも料理をしている時間が勿体ない。胃に何かを入れたら空腹は凌げるし、足りない栄養はサプリメントで補えばいい。あと少し元気が欲しいときはエナジードリンクを飲めば済む、くらいにしか思っていなかった、けれど。
友だちの紹介で健太さんと出会い、付き合うことになってから、そんな生活は、180度変わった。
健太さんは市内にある人気のレストランで、メインシェフとして働いている料理のプロ。そんな彼の料理を食べたら、今まで味わったことがないような幸せに包まれた。口にしたその一口一口がとても鮮やかで、頭のてっぺんから足の爪先まで、細胞の全てが「幸せだ」と言っているような気がした。そしてわたしは、美味しい料理を食べるという行為が、生きていく上で何よりも幸福なのだと知った。
一日三回、一年で千九十五回。間食を含まなければ、それだけしか食べる機会がないのだから、毎食美味しいものを食べたい。そう思わせてくれたのは、他でもない健太さんだ。
それからレシピ本を買って、朝晩あれこれ作り始めた。昼は残り物をお弁当箱に詰めて持って行ったり、同僚たちと外に食べに行ったり。
そうしていたら、肌荒れが治った。どの化粧水を使っても治らなかったから、こういう肌質なのかもしれない、と諦めていたけれど、そもそも食生活が良くなかったらしい。
わたしが楽しく料理をしていると知った健太さんは、わたしの料理を食べたがった。
目も舌も肥えたプロに、料理を始めたばかりの素人の料理を食べさせたくはなかったけれど、健太さんが「美味い!」と満面の笑みで言ってくれるから。嬉しくなって、ますます料理に夢中になった。
食後のコーヒーも、粉末をお湯で溶かすものから、コーヒー粉をドリッパーとフィルターを使って抽出するものに変えた。コーヒーなんて、インスタントだろうが缶コーヒーだろうが大差ないと思っていたのに。ドリッパーでじっくり抽出したコーヒーの美味しいこと美味しいこと。
それからは好みの味を見つけるため、あれこれ豆を買い漁った。布フィルターを使ったネルドリップや、色々な形状や材質のドリッパーを試してみた。
そうしているうちに、近所のスーパーで見切り品として売られていたココナッツ風味のコーヒー粉がとても気に入った。けれど、随分前に偶然仕入れた輸入品で、売れ行きも悪かったためもう仕入れないこと、その商品が国内外の通信販売サイトを探しても販売していないことが分かり、とてつもなく絶望したりもした。
少し前まで、胃に何かを入れたら空腹は凌げる、なんて考えていたのに。劇的な変化だ。
そんな「食」の楽しみを教えてくれた健太さんには、本当に感謝している。
健太さんとは、これから先もずっと一緒にいたい。ずっと健太さんの「美味い!」が聞きたい。
一日三食、年間千九十五食を、健太さんと一緒に食べたいと。最近いつも思っている。願っている。
そんな、ある日の夜。後片付けを終え、濡れた手を拭きながらふと見ると。なぜか健太さんが正座をして、深刻な面持ちでじっとこちらを見ていた。
「え、なんです?」
首を傾げると、彼は表情を変えないまま手招きする。素直にそれに従い、彼に倣って正座をした。が、話は切り出されない。いつまで待っても切り出されない。
「……ええと、健太さん?」
「……」
「……何事ですか?」
「……、……」
何か言いたいことがあるのは分かる。時たま短い黒髪を混ぜるように掻き、「すう」と息を吸っては「はあ」と吐きを繰り返し、視線をふわふわとさ迷わせる。その目は瞳孔が開いていて、心なしか頬も耳も赤い。数十秒に一度鼻の穴もぴくぴく動いている。そんな様子で「すう」「はあ」「はす」「はす」を繰り返しているから、はたから見たら不審者だ。
市内の人気レストランのメインシェフで、コックコート姿は爽やかで、大人の色気もありつつ、でも犬のような愛嬌のある顔立ちをしていて、たまに地元のテレビや雑誌の取材も受けている「イケメンシェフ」が。普段の様子からは想像もできないほど、変わり果てた姿になっている。
「健太さん……」
もう二十分は経つよ、足が痺れてきたよ、と言いかけたところでようやく「あっ」と、彼が発言した。
「あ?」
「け、っ」
「け?」
「……っ、……っ、……、……」
「……」
救急車とまではいかなくても、共通の友人だとか、彼の店の店長さんを呼んで、診てもらったほうがいいだろうか。
こんなに「すう」「はあ」「はす」「はす」されたら、こっちまで呼吸がおかしくなりそうだ。はすはす。
「あ、あの……さ、ぼ、ぼく、とけ、けけ……っ、」
「毛?」
「けけっ、けこっ……」
「……」
ああ、そうか、分かった。彼が言いたいことが。彼がどうして瞳孔を開いて、頬を赤くし、「すう」「はあ」「はす」「はす」と奇妙な呼吸をしているのか。女の勘は鋭いと言うけれど、これでは鈍くても分かるだろう。
「はい、わたしも健太さんと結婚したい」
「……っ、……っ、……!」
言葉を待たずに返事をすると、彼は目を見開き、口を開けて、心の底から驚いた、という顔をした。
「あれ、違いました?」
「ななな、なんで分かったの……!? ぼ、僕が、恰好良く決めようと……!」
「もう、すうはあ、はすはす、二十分もしている時点でばれると思いますけど。あいてて……」
ようやく足を崩して、痺れた足を擦る。普段正座なんてしないため、二十分も折りたたんでいた足は、自分のものとは思えないくらい痺れてしまった。
「でも、健太さんは、わたしでいいんですか?」
言うと彼は拳を握って「唯がいいの!」と大声で主張する。
「仕事もあるしなかなか思うように会えないけど、結婚して一緒に暮らしたら、ちゃんと毎日会えるから! 今の俺の身体の六割くらいは、唯が作る料理でできてるから! それを七割八割九割と上げていきたい! 毎日唯の料理が食べたい! そう思えた、唯一のひとだから!」
さっきまでの「すう」「はあ」「はす」「はす」は何処へやら。主張の勢いのままわたしの手を握り、健太さんはそんなプロポーズをしてくれた。
なんて嬉しいプロポーズなのだろうと思った。
プロの料理人である彼が。料理を食べたみんなを笑顔にする彼が。わたしの料理を食べたいだなんて。わたしの料理で身体を作っていきたいだなんて。こんな誉れは他にない。
足の痺れ以上に、心が痺れて仕方ない。
「ありがとう。うれしい」
胸がいっぱいで、そんな簡単な返事しかできないのが申し訳ないけれど。大好きな彼と、ずっと一緒にいられるという幸せを。一日三食、一年千九十五食、彼と一緒に食べられるという喜びを。言葉になんてできない。心が痺れる、なんて初めての経験で、どうしたらいいのか分からない。
満面の笑みで頬を染める彼に抱きつこうとしたけれど、足が痺れているせいでよろけて、胸に激突してしまった。
そんなわたしを健太さんは、ここぞとばかりにぎゅううと抱きしめる。わたしも、よろけて傾いた姿勢のまま、彼の背中に腕を回した。
体勢はきついし、心も足も痺れているけれど。今はただ、彼の腕の中にいたかった。これが今のわたしに出来得る、愛情と感謝の証明だと思った。
しばらくそうやって抱き合いながら、先のことを考えた。
「……結婚するなら、引っ越さないとですね」
「ん。僕の部屋もちょっと狭いから、ふたりで暮らせる部屋、探しに行こうか」
「そうですね……」
築三十年、木造二階建てのアパートには、大学時代から住んでいる。
通っている大学が近かったし、バス停もすぐそこ。駅までもそれほど遠くない。近くにはスーパーもコンビニも郵便局もあるし、住宅街にあるから騒がしくもない。
大学を卒業して、就職してもここに住み続けていたのは、ここが気に入っていたからだ。他の住人たちもそうだと思う。実際、郵便受けの前や廊下や近所で会う顔ぶれは、もう何年も変わっていない。
そんな場所を離れるというのは、少し寂しかったりする。
それでもわたしは、この人と一緒に暮らすため、ここを出て行く。新しい場所で、新しい生活を始める。
わたしが新しい生活を始めた頃、この部屋にはどんなひとが住むのだろう。
日々変わっていく未来に思いを馳せながら、静かに目を閉じた。
(了)